20230509『読まずに死ねない哲学名著50冊』平原卓【第三部】近代

p103【第三部】近代~普遍性を探求 ※普遍性すなわち神の代理物を求めたのだな。
p104
■11方法序説 デカルト(1596-1650)
古代ギリシア哲学、中世哲学と進み、近代哲学の祖はデカルト。現代哲学はニーチェ以降とされる。
近代哲学は、およそ三世紀の間、ヨーロッパ哲学の主役だった。
近代哲学には二つの柱。
一、認識論…デカルト
二、社会哲学…ホッブズ
二人は同一世代で、交流もあった。

認識論…「どうやって主観は客観を認識しているのか? 主観の認識が客観に一致しているといえる根拠はどこにあるか?」が根本問題。※主格一致は時代遅れだと後述(p279)。
社会哲学…神の意志によらず、人間はみずから社会のあり方を考えられる。

当時ヨーロッパはルターの宗教改革にはじまる宗教戦争が、ドイツフランスなどで勃発。キリスト教が真理だとする中世哲学に対して疑問が。そこで近代哲学の登場。
p108
「私は考える、ゆえに私はある」。これは疑えない。確実だ。第一原理になりえる。
誰もが受け入れる。

■12情念論 デカルト
■13リヴァイアサン ホッブズ
■14エチカ スピノザ

■15モナドロジー ライプニッツ
p136
アリストテレスは因果の系列をさかのぼって「不動の動者」を見いだした。同様に、複合体の分割を続けると、それを複合している「第一の単位」が見いだされるはず。ライプニッツはその究極の(質的)単位をモナドと呼ぶ。p140 三十年戦争

■16人間知性論 ロック
■17市民政府論 ロック
■18人性論 ヒューム

■19人間不平等起源論 ルソー(1712-1776)
p161
人間社会は対処しないかぎり必然的に不平等を産み出す構造となっており、不平等が拡大するプロセスは、人間社会が最強者(王)を頂点とするピラミッド型の社会に行き着くまで止まろうとしない。
p164
「各人は約束を守ることに同意し、全体がその約束を保証する。人びとは、同意に実効性を与え、各人の自由を実質的な意味で確保するため、議決を護らせようと強制する(※警察や軍隊によって強制。いわゆる暴力装置)。この点からすると、王権(専制権力)は、政府本来の目的に反する。不当である。法律の根拠にも、社会の不平等を解決する原理にもなりえない」(『人間不平等起源論』)
p165
最強者である王(専制君主)を頂点とするピラミッド型の権力構造がつくりあげられ、人びとの間の不平等が最大化する。
ここですべての個人がふたたび平等になる。いまや彼らは無であり、個人が消えるからだ。家来は主人の意志のほかなんらの法律ももたず、主人は自分の欲情のほかなんらの規則をもたないので、「善の観念」や「正義の原理」がふたたび消えるからである。
p166
王もまた力によって倒れる。専制政治は、人びとの始めの同意、すなわち、各人の自由を保障するために政府を設立するという根本的な同意を否定することで成立するからだ。言いかえると、専制政治は本質的に正当な根拠をもたない。
「ただ力だけが彼を支えていたのだから、ただ力だけが彼を倒させる。万事はこのように自然の秩序にしたがって行われる」(『人間不平等起源論』)
p167
本書は『社会契約論』と重なり合っている。『社会契約論』は、人間社会を不当な「パワーゲーム」から、フェアな「ルールゲーム」に再編する原理は何か、という問いに対する答えが目的。
現代の歴史学の知見を踏まえると、不平等がルソーの論じるように拡大したのか、かなりの疑わしさが残る。※なぜ?ルソー説の詳細はp163参照。だいたいルソー説で合っているのでは?

p168
■20社会契約論 ルソー
p169
ホッブズの原理はこうだ。正義の根拠は、キリスト教の神ではなく、ただ人びとの間の合意と約束(契約)にしか存在しない。それをルソーは本書でさらに進め、近代社会・近代国家の正当性の原理論に高めあげる。
本書は社会契約説の総まとめをなす、きわめて重要な著作。
p170
「暴力者の権利」などない。ルソーは言う。
「ピストルを持つ人間に脅されたときには、財布を与えなければ殺されるかもしれない。これは、ピストルを持つ人間には権利があるから、財布を与える義務がある。そういう意味ではない」
実力行使は権利を生まない。
人が従うべき義務をもつのは、正当な権力に対してのみである。
暴力による脅迫は批判されるべきである。
不当に得られた権利は無効である。
p171
自然状態で生活できない状況に人類全体が到達したと、ルソーは仮定する。
社会契約を結ぶことで、私たちはそれぞれの自然的自由を奪い、腕ずくで何かを獲得できる権利を相互に制限する。それと同時に、各人の能力差を認めつつ、市民的自由と所有権を保障する。これが自由と平等を両立させる唯一の原理であると考えた。
p171
ルソーは続ける。「各人は社会契約を結び、自由を相互に承認することで、みずからを『一般意志(*)』の指導のもとに置き、『共和国』をつくり上げるのだ」
(*)「みんな」の意志。個的な関心を脇に置いて公共の利益を求める、人民としての意志。※民意、か。
p172
法治国家のみが正当である。
※北朝鮮、中華人民共和国、ロシア連邦は不当ということになる。
法治国家における政府は、主権者である市民に代わって統治を行う「公僕」にすぎない。今でこそあたりまえの考え方だが、ルソー以前、政府と市民の間の関係をこのように論じた哲学者は一人もいなかった。
※実態はどうか。今でも「お上のおっしゃるとおり」あるいは「権力者」という言葉が表すように、市民よりも政治家は偉いし、公務員は私企業の社員より給与や雇用権利が強いのではないか。
p174
社会契約、一般意志(民意)、法治国家。この三点セットが本書の骨格。

p175
■21純粋理性批判 カント(1724-1804)p176 カントは、合理論と経験論のいいとこ取りで対立調停し、より普遍的な認識論を。
p186
「理性の意義は、世界のあり方を経験的に把握することではない。※死後は理性ではわからない。
理性は、何が道徳的であるかを明らかにし、道徳的に行為するための能力である。
理念は理性に、そのための基準を与えるものだ。」
これにより、カントは問題を「世界が何であるか(※死後はあるか)」から、「私たちにとって善とは何か」へと変更した。そして『実践理性批判』に取り組む。

p187
■22『実践理性批判』カント
p187
善とは何か。近代社会以前は、神に従って生きること。ぜんをしるのは神だけ。
この中世的世界観は、近代初頭の宗教戦争を経て、疑われはじめる。スピノザ、ライプニッツ、ヒューム…
p188
カント以前、善と道徳を明確に区別した哲学者はほとんどいない。
善すなわち「よい行為」については、プラトンから論じられていた。
だが、道徳すなわち「あるべき状態」についての哲学は、近代までなかった。
なぜなら、近代、初めて、人間は自律的に善をめざすことができるはずだ、という「自由」の意識が生まれたからだ。(略)
そこに人間の人間たる理由がある。これがカントが道徳論にこめたメッセージ。
格率 個人ルール
定言命法または断言命法 道徳ルール
p193
理性で考えれば何が道徳的であるか理解できるというカントの考えは、正しいとは言えない。人間の理性は全能ではないので、ある選択が道徳的かどうかについては、事後的な解釈にまかせるしかないから。ヘーゲルは『精神現象学』で、倫理の条件を、「他者関係のなかにおける了解の構造」として規定した。
p194
カントは、何が善で、何が道徳的なのか、人間は自分の理性でわかる、という考えをはっきりと言った初めての哲学者。
善の認識は神の恩寵でできるとする中世スコラ哲学の考えは、スピノザ、ライプニッツの合理論を経て、カントによって決定的に否定された。
行為の善悪を判断する道徳法則は、共同体のルールでも宗教の教えでもない。人間の理性がみずからに与える命令(定言命法)である。

p195
■23『道徳および立法の諸原理序説』ベンサム(一七四八~一八三二)
ドイツでカントの道徳論が広まる間、イギリスでは功利主義哲学が広まってきた。
p196
ベンサムは、人間の行為が快苦で決まる、と考える。
功利性の原理…ある行為を正当と見なすことができるのは、その行為が利益関係者全体の幸福を促進する場合だけである。
行為は政府の政策も含まれる。
「最大多数の最大幸福」を実現する政策が正当である。
p199
何が幸福であるかは、自分で納得するしかない。これが近代社会の基本理念。
幸福の総量を増やすための条件は?
ベンサムは「最小限の役割を果たすべき政府(刑罰と報奨)と、各人の自発的な好意」に期待を託した。

p200
■24『法の哲学』ヘーゲル(一七七〇~一八三一)
近代的な自由の意識の芽生えとともに、カントは「このように生きるべきだ(道徳論)」という分野をつくった。習俗や宗教が〈善〉を決めていた近代以前から進めた。次にこの問題に取り組んだのが、ドイツ観念論の完成者ヘーゲル。p201 ヘーゲルには難解で検証できない形而上学がある一方、「自由と正しさに関する近代社会」の本質論もある。それが本書「法(正しさ)の哲学」。この本は、ルソー「社会契約論」と並び、近代哲学の一つの頂点。 p202 ヘーゲルの原理は「自由」。(略)カントも、道徳を支える条件として、自由をあげていた。カントの自由は「欲求に左右されず自律的に判断」というニュアンスが強い。対してヘーゲルの自由は「どんな欲望が自分にとって〈良い〉かを判断」だ。※このあとに具体例の記載あり。カントは欲望否定で禁欲的。「遊びたい」に否定的。ヘーゲルは、自分の欲望を他者と共有できる状態が〈自由〉。「遊びたい」を全人類と共有できそう。再エネでAIはたらきヒト遊ぶ。2023.5.10
p204
欲求からの解放が自由なのではない。自由は欲求の実現と、その承認を受けることで感じられる感情である。※歌って褒められたときの感情。
p206
ヘーゲル的な「教養(知恵)」は、私たちに「よさ」の多様性を教え、各人がそれぞれの「よさ」を求めるためには、「人格の相互承認」が必要であることを教える。
だが現実世界はそれが実現されていない。その了解に達して「普遍的な正しさ」を求める意志を、ヘーゲルは「道徳」と呼ぶ。
道徳とは「不平等をなくさねば!」「戦争をなくさねば!」※拉致被害者を救わねば!
「善」を目標にする心、それが道徳。
その実現のために何が必要か。社会制度である。
※自衛隊の海外活動の法改正とか。
p208
市民社会では格差は避けられない。否定は本末転倒。(誰もが持つ)欲望を根拠とするから。市場経済や市民社会の否定は不合理。※人間を否定することになるから。
p209
どうするか。格差が人格の相互承認のルールに照らして不当なものではないかチェック。富の再分配や公教育によって、格差是正の制度を置く。
「人格の相互承認」は、ルソーの「一般意志(※民意?)」と並び、近代哲学の決定的なルールだ。

■25死に至る病 キルケゴール
可能性を持ってこい!

■26功利主義論 ミル
■27自由論 ミル

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