20160616 北条早雲 高野澄

20160616 北条早雲 高野澄

出版社 学習研究社
発売日 2002/11/1※購入1円駿河へ p7

今川家伺候 p25

龍王丸後見役 p43

家督争い収束 p59

###ここまでは今川家の色が100% 興国寺城を与えられる。

伊豆侵攻 p79 ※これから茶々丸を追放。韮山城。伊豆一国の領主。
p79
■長享元年(一四八七)
今川義忠の嫡子、氏親は駿府の今川居館の主人となり、駿河守の地位も継承。通称は修理大夫(しゅりのたいふ)。
伊勢長氏は早雲という僧名を号して京都から飛んでもどり、今川の当主の地位を簒奪していた小鹿範満を倒した。
氏親は早雲の功績にたいし、興国寺城に富士郡の下方十二郷をつけてあたえた。
「城がひとつに、富士郡の十二郷」

p106
■長享元年(一四八七)
早雲は男子にめぐまれた。この男子は氏綱。母は小笠原備前守の娘だという。
この年は早雲が小鹿範満を攻めて敗北に追い込み、今川義忠の子の氏親を今川家の主として擁立することに成功。功労を表彰されて富士郡の興国寺城と富士郡十二郷を。
しかし、小笠原備前守の娘を妻としたわけではないらしく、その後も妻とよばれる女はいなかったようだ。

p90
■延徳三年(一四九一)
早雲が三島大社に参籠し、霊夢を見た。ネズミと日本の大木の夢。三島大明神は早雲が子年の生まれと知っているからかの夢を見させた。
※……。

四月、堀越公方の足利政知病死。享年五七。
足利将軍の権威を輝かせる使命を負わされてやってきた政知だが、あしかけ三十四年のあいだ、鎌倉には一歩も入れず、伊豆の堀越で生涯を終えた。
政知のあとは嫡子の茶々丸がついだが、順調な継承ではなく、茶々丸は義母と異母弟(潤童子)を殺している。(略)
政知の政権は傀儡だった。※誰の? 将軍の?
その政知が死に、茶々丸が単なる凶暴な主とわかったら、もはや伊豆の主権は存在しない。
※伊豆の統治者はいない、と言うべきだろ。
国衆は伊豆を後にして、相模や武蔵の戦場に行った。
なぜか?
〈山内と扇谷と、どちらが強いのか、この目で確かめねばならん〉
勝ち馬に乗って、次の舞台から外されないために。涙ぐましい。情けないといえばこれほど情けないこともない。
※いや、普通だろ。てか、ならば情報を集めれば良いので、わざわざ参戦する理由は他説があるのでは?
公方の茶々丸は武蔵や上野の戦場には行けない。国衆が出払って、がらーんとなった伊豆に、反抗する者の姿も見えないまま、孤立。
「ゆくぞ!」

山内上杉

足利尊氏・直義兄弟の母方の叔父上杉憲房の子で、上野・越後・伊豆の守護を兼ねた上杉憲顕に始まる家

p92
伊豆国の一宮の三島大明神の神託を受けた早雲が、伊豆侵攻開始。(略)
今川氏親は、堀越公方そのものを見限り、隣国伊豆に早雲が進出するのを駿河領拡大と同じ意味にとらえた。早雲からの援助要請にこたえて三百人の兵士を貸した。早雲が用意した兵士は二百だったから、軍勢の半分以上が氏親の軍勢である。

p93
■延徳三年(一四九一)
一〇月、駿河の清水に結集した十艘の大型船に、五百の兵が乗って駿河湾を横断、半日あとには西伊豆の松崎・仁科・田子・安良里に上陸。(略)伊豆の西海岸の海賊たちは駿河の海賊と手をにぎり、早雲の伊豆侵攻に手を貸した。西海岸を北上し、大瀬崎から右へ迂回して若松から赤碕、そして三津へ出れば伊豆の中枢部、韮山や山木、北条は目の前。

最初の戦国大名 p97
p97
伊豆国という「一国」は手に入ったが、(略)ふるくから伊豆の中枢の韮山に城をつくった。
山城というよりは丘城。本曲輪と二ノ曲輪、御前曲輪の三棟をたて、背後の天狗岩の砦が詰ノ城の機能をはたしている。
まわりにも江川、和田島、土手和田といった砦がきずかれ、あわせたものが早雲の韮山城だ。
足利茶々丸には反抗するちからもない、支援しようという地侍もない。権威も権力もないが、放っておくわけにもいかない。
堀越御所から逃げ出した茶々丸は願成就院にはいった。そのむかし、奥州征伐に出陣した源頼朝の成功を祈って北条時政がたてた寺である。時政の墓もここにある。
〈(茶々丸は)願成就院で朽ち果ててもかまわないわけだが…〉
どうするつもりかと見ていると、まもなく茶々丸が切腹したとの知らせがとどいた。

p102
伊豆国と早雲の関係を、どういえばいいのか?
前代未聞の関係、そういうしかない。
早雲ひとりが伊豆に君臨しているが、京都の幕府も朝廷も、それについて、公式にはなにも知らないことになっている。じっさい、なにも知らない。
早雲は(足利将軍から任命された)守護大名ではなくて、(実力でその地を自分のものにした)戦国大名である。
早雲には主君がいない。駿河の今川氏親(甥)の世話にはなっているが、氏親は早雲の主君ではない。
氏親には京都に将軍足利義尚という主君がいるが、義尚は早雲の主君ではない。(略)
p103
伊豆を占領し、完璧な支配の体制をつくったことで、早雲は〈最初の戦国大名〉とよばれる。
織田信長や徳川家康、毛利元就などは早雲を手本にして戦国大名になっていく。
※中央集権が崩れて、地方に群小国家が生まれていく最初。やがて中央集権化する。織田信長~豊臣秀吉~徳川家康。

p106
伊豆の北条に老婆がひとり、住んでいた。年齢は六〇になるか、ならぬかのその女が、じつは、鎌倉幕府の執権をつとめた北条氏の末裔だとわかると、早雲が意気込んだ。
「その女の入り婿になる!」
「無茶をいっては…」
早雲の周りの者は、一人残らず反対した。(略)
妻はいない。伊豆という国を手に入れたいま、しかるべき名が欲しくなった。伊勢氏は平家だが、いまさら「たいらのだれだれ」と名のるのは、いかにも古い。
そのまま伊勢でいけばいいのではないかというと、
「まずいな、それは」
京都には伊勢の本家やら分家がある。伊勢長氏こと早雲入道が伊豆一国を占領して一円に支配しているということになると、「わたくしは早雲殿の親戚のだれだれである」などと調子のいいことをいって、えらそうな顔をして頼ってくる。
「それが、まずい」
※こまけーな。
北条に住んで北条を名のる女、その女の入り婿になれば、伊勢早雲入道が北条早雲入道になる。
その女は北条家の血を引いているわけではない、ということであった。北条家の末裔と夫婦であったが、男は先に亡くなり、それからはずっと後家を通している。ならば、彼女はれっきとした北条家の人間である。早雲は北条家の婿になった。(略)
p108
むかしの、そのまたむかし、平直方の末裔の時方が伊豆介(いずのすけ)となって北条に住み、北条を姓とした。
時方の子の時政の娘の政子が、韮山の蛭が小島に流人として暮らしていた源頼朝の妻になった。(略)
北条時政の子の義時が三代将軍の実朝を補佐する執権となり、それからは北条氏が執権を世襲した。(略)
八代執権の時宗のとき、元寇があったが、九州の御家人の奮闘により、撃退した。
一四代執権の高時のときに後醍醐天皇の倒幕運動があった。(略)高時は鎌倉の東勝寺で自殺して鎌倉幕府は崩壊した。
高時の子の時行は殺されず、それから行氏(ゆきうじ)~時盛~行長とつづいて、行長の未亡人が伊勢早雲入道を婿にむかえたようだ。

相模争乱 p113
p116
〈相模が荒れている〉
韮山の隅から隅まで、この噂で詰まっていた。
扇谷上杉の定正と、山内上杉の顕定の戦場は北武蔵にうつった。相模の地侍たちも、本拠とする相模をはなれ、北武蔵の戦場ですごす時間が長くなる。
北武蔵の鉢形、高見原、須賀谷などが戦場となり、かつ争奪の対象となった。
北武蔵と相模をつなぐ要衝の位置に河越城がある。河越は江戸城の死命を制する力をもっている。
河越も江戸も太田道灌が築城したから扇谷上杉の城だが、その道灌がほかならぬ主人の定正に謀殺される波乱の最中だ。いつまで河越が扇谷上杉家の城でいるかどうか、たしかではない。
相模に忘れられたわけではないが、相模を、鎌倉を、だれが権力をもって維持するかという点で不安が生じてきている。
瞬時のうちに伊豆を攻めとってしまった早雲の才知をもってすれば、荒れている相模を手中におさめるのは容易に思われた。

p125
■明応三年(一四九四)※早雲伊豆占領の三年後
八月二六日、 小田原城の城主・大森氏頼(おおもりうじより)が死んだ。
扇谷上杉定正の味方として山内上杉顕定との対決を繰り返していた。
大森氏頼と太田道灌とは肝胆相照らす仲だった。(略)道灌も氏頼も、主君として仕える上杉定正の暴君であることは承知。それでも仕え、守ってやらねばおのれの立場が危険になる。苦境の共有、それが道灌と氏頼を結びつけていた。
p126
太田道灌が先に死んだ。定正の館にまねかれ、だまされて刺し殺された。道灌に続いて上杉定正は大森氏頼を失った。道灌亡き後、定正に意見を言えるのは氏頼だけだった。氏頼のあとは藤頼がついだ。韮山の人々は思った。われらの主早雲は明日にも相模(小田原)を攻めるであろう。
p126
同年九月末、相模にまた急変。
三浦時高が死んだ。養子の三浦義同(よしあつ。道寸)に追いつめられて自殺した。なぜか。
時高には男子がなかった。上杉定正の兄の高救(たかひら)の子の義同を養子に。扇谷上杉と三浦氏は縁戚に。(略)が、時高に実子の高教が生まれて、義同に辛くあたるようになった。
※よくある話。
p128
これではいかん、と時高の重臣たち。多数が義同の人物の優秀なことと、義同の実家の扇谷上杉家との関係を重視した。
ここの会話、わかりやすくて使えそう。後日。
時高は義同を暗殺しようとした。
義同は新井の城から逃げて、出家して、足柄下郡諏訪の原の総世寺に隠れた。
p129
総世寺の開山は、小田原の大森氏頼の叔父。義同は大森氏頼の娘の子。
※祖父の叔父が総世寺の開山。
新井城から脱出、総世寺への入寺の筋書きと実行は藤頼。
※義同の母の兄弟すなわち叔父が藤頼。
p129
まだある。道灌の子の資康は扇谷上杉を見限って山内上杉を支持。その資康の妻は義同の娘。
※義同の娘の婿が資康。
※扇谷上杉の二大重臣と義同は縁戚。
※元々三浦時高は扇谷上杉定正の甥義同(道寸)を養子にもらったのは、なぜか? 主君への媚びだろう。「扇谷上杉と山内上杉の和解を進める一策」と本文にあるが、なぜ三浦が義同を養子にすることがそんな一策とやらになるのかイミフ。

小田原占領 p131 ※伊豆と西相模の領主。三浦道寸(義同?)と対決。

p136
扇谷上杉定正が早雲を招いた。伊豆一国を占領しているが、早雲という大名は、東海道の政界地図上では得体の知れぬ、新参者。
小田原の大森氏頼に死なれ、縁戚の三浦時高にも死なれた扇谷上杉定正は、早雲と会って、その人物を把握する必要に迫られた。頼れる人物と鑑定したら、同盟を結んでつぎの舞台にそなえる。
山内と扇谷─両上杉の戦闘に介入する段階にまで早雲の政治力が成長した。そこに意味がある。山内か扇谷か、にはさほどの意味はない。
p137
「河越には寄らず、久米川から越生(おごせ)をまわって鉢形へ来ていただきたいと定正が申しております」
p138
久米川で早雲と扇谷上杉定正は会見した。
p139
(略)
関東では山内上杉顕定が扇谷上杉定正をおさえて優勢に転じつつある。
劣勢を一気に挽回すべく、定正は、六年前の長享の合戦で勝った高見原に再び顕定を迎えて、戦おうとしている。伊豆の早雲を招いたのも勝利を確実にするため。
■明応三年(一四九四)
高見原の合戦は一〇月二日と予定された。
p140
その前夜、早雲は(略)
「十分に戦い、しかし兵の損害は最小にして伊豆に戻る。
上杉定正に、われら伊豆の軍勢の力を見せるのが第一の目的」
「上杉の両将(扇谷と山内)に見せてやれ。伊豆の軍勢を敵に回すと手ごわいぞと」
p141
三日、定正が荒川を越えて敵陣に肉薄しようとしたとき、手綱に失敗でもあったのか、落馬して急流にのみこまれ、助けられたときにはすでに息はなかった。(略)
定正のあとは養子の朝良が継ぐ。
殺気立っている関東を走り抜け、伊豆韮山まで早雲は戻った。
p143
■明応四年(一四九五)
早雲の密使が姿を隠して小田原城下にもぐりこんだ。
p145
■明応四年(一四九五)
夏、早雲は駿東から甲斐の国境に軍勢をすすめた。
p146
甲斐の守護武田信縄が出てきたが、戦わず、和睦して早雲は伊豆に引き上げた。
早雲が伊豆一円支配、駿東地区の進軍することに、武田は何の異議もとなえないことが宣言された。
p147
九月、(略)
p148
真夜中、千頭の牛の角に松明をつけて石垣山のうえから追い立てた。(略)
p149
宗瑞は、小田原占領を宣言した。

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大磯・八丈島侵攻p151
p151
小田原の城には長男の氏綱をおいて、早雲自身は伊豆韮山の主。

p155
三浦義同(道寸)は山内上杉顕定の味方を自任。
※道寸は扇谷の出身なのに何故?
p156
三浦半島の武士や地侍はつぎつぎと早雲に臣従する礼をとったのだが、義同の自尊心がそれを許さない。義同も小田原を狙わないわけではないのに、早雲に先を越された口惜しさもあった。
※このあたりの記述は『黎明に立つ』と整合性を確認。

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権現山の合戦p205

p209
越後に大乱が。越後守護の上杉房能を、房能の家宰で越後守護代の長尾為景が追放した。房能は実兄の関東管領の上杉顕定のところに逃げようとしたが、松山郷の天水で襲撃され、自害。(略)
上杉房能は守護大名から戦国大名になりかけていた。足利将軍とのつながりを強調して権威のもととするよりは、越後一国のなかの唯一絶対の権力者へ転身しようとし、完成しかかっていた。
p210
それに最後の反抗をして、成功したのが為景。為景は越後国の一円支配をめざす戦国大名として出発。房能の養子の定実(さだざね)を越後の守護に推戴したが、傀儡。
■永正六年(一五〇九)
夏、山内上杉顕定は、弟房能を殺した長尾為景をほうっておけない。扇谷上杉家と和解して余裕ができたこともあり、越後に軍勢八千騎を向けた。(略)
為景はやぶれた。(略)
■永正七年(一五一〇)
六月、越中にのがれた為景は盛り返し、(略)越後にもどり、長森原で顕定を戦死させた。(略)
p211
六月に山内上杉顕定が越後で戦死。早雲、行動開始。相模の高麗寺山と住吉に出城。高麗寺山は相模川のすこし西、大磯のちかく、住吉は高麗寺山の北の丘陵。
相模出兵を、早雲は越後の為景に通知。為景に都合がよいから。(略)早雲が関東の上杉と戦うのは、越後の上杉を弱める。(略)
早雲は、相模攻めの味方になるはずの武士をかぞえる。
〈小弓御所さま…〉
p212
力はないが権威がある。それが下総古河の公方の足利政氏。政氏の子の義明が小弓御所とよばれ、いまは早雲の軍勢の旗印。
小弓御所こと足利義明の身分はなかなか複雑である。
京都の幕府はそもそも古河公方を認めていない。古河公方を否定するために将軍義政の弟の政知(まさとも)を公方に任命し、鎌倉に下向させたが、政知は鎌倉に入れない。仕方がないから伊豆の韮山の堀越に仮御所をつくって役所とし、堀越公方と呼ばれた。
政知のあとは子の茶々丸がついだが、早雲に攻撃され、十数年もまえに自害した。
※異説あり。
異端の古河公方より先に、正統の堀越(ほりごえ)公方が消えてしまったのだ。
古河公方の初代が成氏(しげうじ)、二代が政氏で、管領(執事)の両上杉の対立拮抗のうえに、ともかくも君臨していた。
※二大勢力を対立させてその上に立って統治する例がローマ教皇になかったか?
そんな状況で、房能殺害、顕定越後攻めから最終的に戦死。
この間に早雲が、両上杉と古河公方の仲を割く手をかんがえた。
公方の政氏の長男は高基(たかもと)。高基は父が両上杉と手を結ぶのに反対。怒り、下野の宇都宮に脱走。
政氏の次男が義明。父とも兄とも仲が悪い。下総の小弓に移って、小弓御所と呼ばれる。早雲は「伊豆の軍勢は小弓御所さまの命令に従う」と、大義名分をかかげた。小弓御所の義明がどうかんがえているかは問題にしない。義明から異議は通告されないから、了承されたことにしている。
早雲が次に数えるのは、
〈長尾為景〉
早雲の相模攻めをつくってくれた。房能殺害。
三人目は、
〈長尾伊玄〉
伊玄の名は景春。(略)山内上杉の顕定(戦死)の家宰。父の景信没後、上杉の家宰には弟の忠景が任命されたので、兄である景春は反抗。上野(こうずけ)の平井から武蔵の鉢形に移って、主君顕定や弟忠景と戦いはじめた。
p214
両上杉の和解を不利とする点では伊玄と早雲は共通。
最後に、
〈上田政盛〉
江戸城の扇谷上杉の主の朝興(ともおき)はお飾り。実権はずっと朝良。その朝良の重臣の上田政盛に工作を続け、裏切りの約束ができた。
政盛は神奈川の権現山に反旗をひるがえす手筈になっている。
(略)
関八州をわがものにする戦い。
これまでの戦いは両上杉の分裂拮抗に介入するかたち。
こんどは早雲が主役。敵は両上杉。上杉から関八州を奪う早雲の戦いに、越後と関東の長尾、そして関東の地侍が味方する。そういう絵になった。
※地図が必要。
p215
神奈川は相模ではなく、武蔵。神奈川の権現山に、上杉を裏切った上田政盛がたてこもった。
その日まで、早雲の前線は相模の高麗寺山。相模川より西。武蔵は遠い。しかし上田政盛の裏切りで、早雲は一気に江戸のすぐ西まで攻め込んだかたちになった。
p216
越後の長尾為景も軍勢を送るはず。
武蔵の北部には長尾伊玄が、江戸の朝良を包囲するはずだ。
しかし権現山の位置が悪かった。あまりにも江戸に近すぎた。
※そんなこともわからなかったのか?
政盛が早雲の到着を待つあいだに、上杉朝良は多数工作に専念。早雲の十倍の軍勢を集めた。
※全然だめじゃん。

p217
■永正七年(一五一〇)
七月一一日、扇谷上杉朝良方が権現山を包囲し終わった。

p219
応仁の乱ころから、合戦は変化。源平合戦のような一騎打ちはすたれ、足軽とよばれる徒の兵士の集団が重要。
p220
足軽チームの武器は短い槍、あるいは鎌や鉞(まさかり)などの破壊道具。矢が飛び交う合戦の前後に、足軽は敵陣に突進、破壊、放火、犯し、略奪。大将の首を斬って褒賞を期待する、などということはない。足軽はチームとして一単位。個人としての単位は認められない。
権現山の戦いでも足軽チームはめざましい働き。
関東で足軽チームを中心とした戦闘をはじめたのは太田道灌といわれている。
早雲(伊勢宗瑞)も、足軽戦法をはやくから導入した。
永正七年(一五一〇)七月、神奈川の権現山の戦いは太田道灌と伊勢宗瑞という、足軽戦法先覚者の二系列の戦いでもあった。(略)
p221
「負けたな」
宗瑞はあっさりという。
権現山の上田政盛の砦に火をつけて焼き、宗瑞も長尾為景も長尾伊玄も、それぞれの本拠に去った。それを追う力はないところに、上杉家の限界が見えていた。

関八州の掌握p223

p228
■永正五年(一五〇八)
大徳寺の東渓宗牧から早雲にたいし、「天岳」という道号が贈られた。

p235
万里集九は鎌倉を去り、上杉定正は武蔵の合戦で落馬し、死んだ。
扇谷上杉の当主は定正から朝良へ、そして朝興にかわった。朝興はかたちだけの主であり、朝良が実質的な扇谷上杉の主として江戸と河越の城を本拠としている。
両上杉は和解した。
山内上杉が優勢の和解だから、扇谷上杉が屈服した感じもある。
早雲は両上杉の対立の隙をついて登場したから、両上杉の和解は不都合。早雲は待機を続ける。

p236
※なぜ小田原を?

p239
■明応三年(一四九四)
義同(道寸?)は、時高に暗殺されようとしたが、逃れた。危機を脱した義同は足柄郡の総世寺で出家し、雌伏の時を

p244
■永正九年(一五一二)
八月一二日、宗瑞が岡崎城(三浦道寸。伊勢原市)を包囲。
※そのまま早雲は鎌倉占領。道寸はすぐそばの住吉城(小坪)に。
p251
早雲は一首を詠んだ。
枯るる樹に また花の木を植えそへて
もとの都にしてこそ みめ
p252
早雲の鎌倉枯死宣言、それは関東における新しい武士の時代の到来をつげた。

三浦道寸は住吉の館(住吉城)を撤退して、息子の義意(よしおき)がまもっていた半島の南端にある新井の城にこもった。
(略)岡崎城から敗退したあとは郎党の脱落がつづき、住吉と新井の二城を維持できなくなった。(略)
半島の南端の三浦にとじこもった道寸がふたたび撃って出るのは不可能に近い。
道寸が弱るのを待てばよい。これが早雲の戦略。
p253
早雲は玉縄城を築いた。鎌倉の北東、大船の丘陵地。

p256
■永正一〇年(一五一三)
藤沢の遊行寺(藤沢駅の北)には宗瑞の軍勢が攻めよせ、三浦道寸(義同よしあつ)の軍勢と戦った。三浦はやぶれて新井にしりぞき、遊行寺は全焼して、本尊の阿弥陀如来は駿府の長善寺に疎開させられた。

p269
■永正一三年(一五一六)
七月一一日の早朝、
「われは、一歩も退かぬぞ!」
前日の義同の宣言が別れの宴の合図。
城兵一同はうって出た。
p270
三浦道寸(義同)辞世の歌。
討つひとも 討たるる者も かわらけよ
くだけてのちは もとのつちくれ

p281
■永正一六年(一五一九)
夏、宗瑞は三浦半島の南端を視察。
八月一五日、宗瑞は韮山で死んだ。早雲寺殿天岳宗瑞。

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