20220318『約束』葉室麟

『約束』葉室麟 p7 明治四年(1871)夏の廃藩置県後、西郷隆盛は薩摩から兵八千を上京させ各藩の反乱に備えるとともに、それまで藩兵が行っていた東京の治安を守るため薩摩から、さらに二千を上京させた。これに他藩出身者一千を合わせた三千が邏卒となった。親兵となったのは薩摩の城下士(上士)であり、邏卒は郷土出身者。(略)明治七年一月に「東京警視庁」誕生。※まさかのタイムスリップかあ。 

p36 明治六年(1873)、征韓論。 p90 宮崎八郎(トウテンか?)「僕は、留守政府と洋行帰り政府の争いだと。西郷をかついだ江藤と大久保をかつぎ出した長州閥の争い。天下分け目の関ケ原征韓論争たい」

p95 明けて明治七年(1874)年明け。前年(明治六年)十月の征韓論騒ぎで西郷隆盛が下野すると板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣参議も辞表を。桐野利秋、篠原国幹らも大挙して鹿児島に。一時期騒然。明治七年の年明けにようやく沈静化。※西郷が去って六カ月後、島津久光は4/27左大臣に。岩倉具視の上位。※5/23旧習復帰の建白、政府の意思決定からは実質的に排除。 p106 前年(明治六年)十一月、朝鮮の大院君失脚。正式にはこの年(明治七年)の三月に伝えられる。国王のお妃閔妃(みんぴ)が実権。p108 ※ここで益満休之助と相楽総三(明治元年三月に信州下諏訪で斬首。益満も下諏訪に行く途中で暗殺。桐野か)の話。p111 勝海舟「お前さんたちは、西郷という男の表の顔しか見てないのさ。あの男は幕末の血みどろの動乱をくぐり抜けてきた。必要だと思えば、どんな非常なことでもやってのけるのさ。おいらの弟子だった坂本龍馬が殺されたのも薩摩の手が動いたってえ話がある。そうかもしれねえ。やらなくちゃならねえ、と思ったら、泥に汚れることを怖れねえ男の腹のうちは、まだお前さんたちには、わからねえだろうな」

p116 江藤新平は明治七年(1874)二月十三日に佐賀で反乱の指揮。大久保は出兵。江藤は十日後には佐賀の宣戦を脱し、薩摩に。西郷の決起をうながせず。土佐に向かったが捕縛。佐賀に移送され、四月十三日、除族、斬首のうえ、さらし首というむごい処刑。

p129 明治七年(1874)六月一日、西郷従道は台湾に。琉球漁民を殺害したとされる牡丹社の討伐開始。清は台湾を化外の地としていたが、日本との戦争も辞さない雰囲気に。p130 九月、大久保は清国宰相李鴻章と交渉。十月三十一日、清国は五十万両の賠償金支払いに同意。

翌明治八年(1875)七月、勝海舟と土佐生まれフランス帰り中江兆民の会談(※事実?)。p135 兆民「宮崎八郎が私の塾で学んでいる。民約論を泣いて読んだ。パリ・コミューンの徒となる」勝「パリコミューンとは?」兆民「車夫、馬丁、下女の類が天下を治めること」明治四年(1871)三月から五月まで72日間、フランスのパリで世界で初めてのプロレタリア独裁政権が成立した。ナポレオン三世の第二帝政がプロシャとの戦争に敗れ、退位後、パリで労働者、小市民が決起、選挙によってコミューン(自治政府)をつくった。プロシャ支援を受けた政府軍によって、「血の一週間」の後、パリコミューン壊滅。※この年(1871)の夏に日本は廃藩置県。 兆民はその九か月後の明治五年二月にフランスに渡った。※激動というか事件が多い。18世紀、キャピタリズムによって富裕層が貴族層と並んで支配者に。19世紀、貧困層がコミューンを目指した。って感じか。そして20世紀、コミュニズムvs. キャピタリズム。コミュニズムは結局ファシズムに堕ちていたから、実際はファシズムvs. キャピタリズムだった。21世紀、人類は共有主義(新コミュニズム)によって世界平和を実現できるのか。…という局面が今、かな。

p153 明治八年(1875)九月二十日、江華島事件。日本の軍艦は「雲揚(うんよう)」※父が本で書いた。p161 明治九年(1876)一月二十六日、日朝修好条規。不平等条約を押しつけた。p169 兆民「明治六年の政変の意味がわかった。征韓論騒動の意味が」p170 「征韓論を英米が煽動。横浜でイギリス人が出しているヘラルド新聞は、明治五年に朝鮮で日本人が無理非道な扱いを受けているとデマ記事を載せた。ブラックというイギリス人の新聞は、朝鮮政府が日本政府へ送った〈侵略を挑発する手紙〉を偽造することさえやった。それに大久保参議が(※征台の件で)清国の北京に行った時にはイギリス公使ウェードの意見として、〈今後日本は朝鮮へ手を出すべし、そうすればイギリスは援助する〉と伝えられた。台湾に兵を出す時にはアメリカ公使のデ・ロングがこれを支援した。英米は鎖国を続ける朝鮮を開国させ、さらに清国の実力を確かめるために日本を使った。西郷さんは幕末の頃からイギリスやフランスの策謀については、よく知っているから、踊らされないようにしていた。しかし征韓論が世間で大っぴらに言われていたことが西郷さんの足を引っ張った」p171 「明治三年(1870)に外務省は太政官(*1)に対して朝鮮への三つの外交政策。一、日本の国力充実まで放置。二、木戸孝允を使節派遣し、通商条約を交渉し、拒否すれば戦争。三、清国と対等条約を結んだ後、朝鮮と不平等条約を結ぶ、遠交近攻策」「じゃあ岩倉使節団出発前に朝鮮政策は決まっていた?」「そうだ。外務省は、その後、軍艦と使節派遣を発議。留守政府は、西郷さんを遣韓使節と決めた。違っているのは木戸ではなく西郷さんだったことだけ」「なのに帰国した木戸、大久保は反対? 長州閥が、邪魔な江藤参議を追い出すために征韓論を利用しただけかと…」「政府は、最初から不平等条約を朝鮮と結ぶつもりだった。なのに西郷さんの遣韓使節派遣を許さなかったのは、理由がある」p172 兆民は続けた。「西郷さんの遣韓使節派遣をつぶしたのは大久保参議ということになっているが、実際は三条、岩倉という公家二人だ。いったん内定した使節派遣をずるずる引き延ばしたのが三条、土壇場で体をはって決定をひっくり返したのが岩倉。二人は西郷さんを朝鮮に派遣したくなかった」「なぜ?」「三条、岩倉は、最初から清国とは対等条約、朝鮮とは不平等条約と思っていた。公家二人には天皇を認めない(文書にあった天皇の〈皇〉が、朝鮮が国交に応じなかった理由)朝鮮は許せなかった。だから外務省の森山外務少丞は洋服を着ていって朝鮮を怒らせ軍艦で威嚇外交した。しかし西郷さんは烏帽子、直垂で軍艦も連れずに行くと言っていた。西郷さんは居丈高に威張ったりしない。その西郷さんが朝鮮に行って対等に外交することは〈天皇の権威を損なう〉と二人の公家には思えた」「あ。ということは…逆か」「そう。西郷さんは征韓論じゃなかった。だから遣韓使節になれなかったのさ」p173 「大久保はそれを知っていて西郷さんの反対側にまわった?」西郷が使節として朝鮮に行っていたら、その立場を失っていただろう、その時、西郷は、本当に謀反人になっていたかもしれない(大久保利通) 兆民「留学で大久保に世話になったからかばうと思われるかな。大久保は、手を汚す仕事は自分がやるつもりで西郷さんを政府からさらせたんだよ」※明治8年(1875年)10月22日、久光は左大臣の辞表を提出、27日に許可される。

p152 大久保が斉彬の没後に実質的な藩主となった久光の囲碁相手として取り入り、小納戸役となって出世していくのは文久元年(1861)、三十一歳になってから。

(*1)太政官(明治時代)【だじょうかん】明治維新後の最高行政官庁。 1868年公布の政体書によって設置され,2度の官制改革を経て左院,右院,正院の三院制度となったが,実質は正院が中心。 1885年内閣制度の制定で廃止。 なお律令制下では太政官(だいじょうかん)。

p181 明治九年(1876)三月二十六日、廃刀令。※この後、萩の乱(前原一誠。松下村塾出身)、熊本神風連の乱。翌年、ついに西南戦争、か。 p190 七月に政府が国家の安全を妨害するという理由で政府の意に沿わない新聞、雑誌の発行停止を命じる。p195 十月二十四日、熊本で神風連が決起。同月二十六日、萩で前原一誠決起。神風連は総数百七十余人。(略)p198 獄中死の者も含めると百二十三人の神風連が死亡。p206 大久保の課題は西郷と久光が帰国して独立国のようになっている鹿児島対策。西郷は佐賀の乱の後、鹿児島に私学校をつくった。県令の大山綱良が協力して私学校生徒を県の役人としたので、鹿児島はあたかも西郷王国のようになっている。川路によれば久光は、西郷に兵を率いさせて上京させることを企んでいるという。p214 桐野暗殺は、大久保にも報告せず、川路が独断で決めた。※これは葉室麟さんの完全な虚構かなあ。桐野利秋が悪者、か。まあ私にはわからんが。

明治十年(1877)一月 p220 村田新八のことは勝海舟が大久保利通に次ぐ傑物だとほめていた。p223 一月六日から十五日にかけて川路の指示を受けた中原尚雄ら二十三人が鹿児島に入っていた。そのころ城下では、西郷への刺客数十人が東京から送り込まれたという噂が立った。私学校では、東京から送り込まれた者たちを、〈東京獅子(あずまじし)〉と呼んで探索を続けていた。p225 一月二十九日から三十一日、毎夜、武器弾薬を奪おうとする私学校生徒が。若者が罪に落とされる。「西郷は、薩摩の若者を見捨てることはできん男だ。川路たちが、何を企んでいようと、これで薩摩と政府は戦争になる」。※作中では桐野利秋あるいは亡霊の台詞。事実はどうだったのか藪の中。p227 私学校幹部は東京獅子を捕まえて、西郷さァの暗殺のために東京から派遣されたと拷問にかけてでも自白させる。その自白を証拠に政府追討の兵を上げるのが桐野利秋(※筆者の設定?)の腹じゃろう。※今般、政府に問いただしたき事これあり、となるわけだねえ。p220 二月三日から七日、中原尚雄、東京獅子二十数人が捕縛されていった。p231 イギリス公使パークスの通訳官として日本を訪れたサトウは、その優れた語学力を駆使して日本の国内事情に精通し、西郷をはじめ倒幕派の志士たちと知り合うと、イギリスの対日政策にも影響を与えた異色の外交官だった。

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