20140403異端の皇女と女房歌人#今日の本

異端の皇女と女房歌人
式子内親王たちの 新古今集 (角川選書)
田渕句美子
出版社: KADOKAWA/角川学芸出版
発売日: 2014/2/22

内容(「BOOK」データベースより) 中世初頭に生まれた和歌の黄金期、この空前絶後の和歌の隆盛の陰には、社会の規範や畏れを乗り 越えていった歌人たちがいた。皇女という枠を突 き破り、時には荒ぶる言葉で「私」を描いた式子 内親王、和歌を厳しく突き詰め短い人生を駆け抜 けた宮内卿、歌道家の期待を一身に背負い、誇り 高く純粋に生きた俊成卿女―。帝王・後鳥羽院の 期待をこえる活躍をし、後世にまで影響を及ぼし た新古今歌人たちの姿を明らかにする。

著者について
1957年、東京都生まれ。お茶の水女子大学卒、 同大学院博士課程単位取得満期退学。博士(人文 科学)。大阪国際女子大学、国文学研究資料館を経て、現在、早稲田大学教授。1993年、第19回 日本古典文学会賞受賞。専門は中世の和歌、日記、歌人、女房に関する研究。著書に『中世初期歌人の研究』(笠間書院)、『阿仏尼』(吉川弘文館)、『十六夜日記―物語の舞台を歩く』(山川出 版社)、『新古今集 後鳥羽院と定家の時代』(角川 選書)などがある。

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p3
はじめに

 優れた文学が形となる時には、それ以前の枠組みがさまざまに突き破られる。新古今歌人たち、そして式子(しょくし)内親王や女房歌人たちは、途方もない何かを探りながら、それぞれ意志的に己れの歌の道を掴もうとした。そこにはどのような苦闘があったのだろうか。
『新古今和歌集』を生んだ新古今時代は、鎌倉時代における和歌の黄金期である。時の帝王である後鳥羽院(82代。77後白河の孫。80高倉と七条院の子)の支配のもと、藤原定家(ふじわらのていか。俊成の子)や藤原良経(*1)をはじめ、多くの歌人たちがその才能を競い合いながら、宮廷歌壇で活躍した。だが歌人たちにとって、後鳥羽院歌壇で活動していくことは、並大抵のことではなかった。後鳥羽院はすべての歌人を自ら選び、歌人たちが詠む和歌にはすべて目を通していたと思われる。また、後鳥羽院の恩寵はすぐさま不興に豹変するかもしれず、この時代を仮名日記に書いた源家長は(*2)繰り返し「恐ろし」と感じ、自らの才能に絶対の自信を持っていた藤原定家ですら、後鳥羽院を畏怖した。後鳥羽院の宮廷と歌壇は、厳しく、そして恐ろしいものであった。

(*1)ふじわらのよしつね。[1169~1206]鎌倉初期の公卿・歌人・書家。九条兼実の子。摂政・従一位太政大臣とな り、後京極殿と称される。歌を俊成に学び、定家の後援者でもあった。書では後京極流の祖。 家集「秋篠月清(あきしのげっせい)集」。九条良経。

(*2)みなもと‐の‐いえなが〔‐いへなが〕 【源家長】
[?~1234]鎌倉初期の歌人。後鳥羽上皇に仕 え、和歌所開闔(かいこう)となり、新古今集の 編集に当たった。著「源家長日記」は和歌史の 貴重な資料。

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p3
 その後鳥羽院の招きに応じて、式子内親王(*1)、宮内卿(*2)、俊成卿女(*3)は、後鳥羽院歌壇に加わっていった。後鳥羽院が求めるものは才能、そして自らを鍛える修練であった。俊成卿女や宮内卿は、後鳥羽院の期待に恐れも抱いただろう。けれども彼女たちこそ厳しい歌の世界に自らを投じて、和歌に専心し、己をゆるませることなく、ただひたみちに歩んでいった。女性歌人たちは歌壇の装飾ではないし、その詠歌は風雅な遊芸でもない。その生涯と和歌を辿りなおすと、時代や社会の規制から抜け出ようとし、自らを賭けて可能性を切り拓いた姿が見えてくる。
 式子内親王は皇女という枠を突き破って自らを解き放ち、題詠の世界をわがものとし、百首歌を舞台として、巧緻で優艶な、時には荒ぶることばをもってさまざまな「私」を描き見せた。
 宮内卿は自らの詠歌を孤独に突き詰めてゆき、新古今時代を疾走して早世した。
 俊成卿女は長い生涯にわたり歌道家の専門歌人として詠歌し続け、最後まで歌人もって誇り高く純粋に生きた。
 当時の宮廷社会と宮廷和歌の世界には、眼に見えない制度や規範が多くあった。それを探り、そして歌人にかぶせられていたイメージをできるだけ取り外して、中世の空間と意識に戻りながら、考えてみたい。そこには式子内親王、俊成卿女、宮内卿だけではなく、同じ時代を共に生きた女性たち、また二百年ほど前の時代や、百年ほど後を生きた女性たちも一部含めながら、広く捉えて考えていくことにしよう。

(*1)しきし‐ないしんのう。【式子内親王】
[?~1201]平安末期・鎌倉初期の女流歌 人。後白河天皇の第3皇女。名は「しょくし」 とも。賀茂の斎院になり、のち出家。和歌を藤原俊成に学んだ。新古今集に49首入集。家集 「式子内親王集」。
(*2)くない‐きょう〔‐キヤウ〕【宮内卿】
[?~1204ころ]鎌倉初期の歌人。源師光(み なもとのもろみつ)の娘。後鳥羽院の女房。 「千五百番歌合」に参加した歌から若草の宮内 卿とよばれ、歌は新古今集以下の勅撰集に40 首余り入集。
(*3)しゅんぜいきょうのむすめ。
[?1171~1251以後?]実父藤原盛頼が、1177年(安元3年)に発生した鹿 ケ谷の陰謀の首謀者の一人藤原成親の弟として責任 を問われ失脚、母方の祖父である藤原俊成に引き取 られ娘として養育された。1190年(建久元年)頃に 源通具の妻となり一男一女をもうける。しかし、 通具が土御門天皇の乳母として権勢を誇る従三位按察局を新妻に迎えるに及んで、行き場のなくなった俊成女は、後鳥羽院歌壇に生きる場を見出す。

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p10
第一章 権力者と才女たち
─二百年をはさんで見る─

一『源氏物語』の時代
─道長と女房文化─

一条天皇の時代 p10

職業人としての女房文化たち p11
p13
(略)内裏や院、後宮(*1)などの宮廷女房たちは行事等への参加も多く、それに伴う衣装などの支出は甚大であり、経済的な後援者(父兄、夫、恋人など)を持つことが必要不可欠であった。

(*1)後宮(こうきゅう)とは、王や皇帝などの后妃が住 まう場所。日本では、平安京内裏の七殿五舎、江戸 城大奥が該当する。
(七殿五舎↓)

p24
後鳥羽院歌壇の形成へ
 六条藤家
御子左家 俊成
九条兼実の歌道師範
後白河院の信任を得て、第七勅撰集『千載和歌集』
建久期の九条家歌壇は、兼実の子良経(よしつね)が中心
定家の主人
兼実の弟慈円も歌人であり、甥の良経を支えた。
建久七年、九条家の政敵である源通親が、後鳥羽天皇(当時十七歳)を背後で動かして関白兼実を罷免し、天台座主慈円を辞めさせ、良経は内大臣のままだったが籠居した。これを建久の政変という。
 建久九年(一一九八)、後鳥羽天皇は譲位して上皇となり、(略)翌正治元年(一一九九)、通親を内大臣とするが、籠居中の良経を左大臣に昇進させて出仕を促し、九条家を表舞台に復帰させた。(略)これが新古今時代の始まりである。(略)そして『新古今集』の完成へと至っていく。
 その『新古今集』で、当代の優れた女性歌人として高く評価さへたのは、式子内親王、そして女房歌人の俊成卿女と宮内卿である。

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第二章 式子内親王
─後鳥羽院が敬愛した皇女─

p51
 定家と式子の間に恋愛関係があったとする論では、『定家小本』や伝式子内親王消息文(しょうそこぶみ)などをあげるが、前者は資料的に不確かであり、後者は恋愛とは無関係である。(藤平春男)

p52
 かつては斎院として神に仕えた皇女が、この頃には穢れを忌まず、加持祈祷を信じないという、特異な価値観を持っていたことがわかる。また建久五年(一一九四)に、仁和寺の守覚法親王の弟子で、異母弟にあたる道法法親王から、真言の入門の行法である十八道を受けたり、また当時の新興宗教である専修念仏の法然から受戒したりしている。この法然の愛人であったという説は、資料的に信憑するのはむずかしい。けれども、こうしたことから、内親王としては、非常に特異で個性的な皇女であり、従来の慣習や伝統に縛られず、自己の価値観や意志を貫く女性であったことがうかがえる。

p53
飛び交う呪詛と託宣
 前にも触れたが、後白河院や八条院などの周辺で、この時期には十件近くの呪詛と託宣の事件が起きている。天皇家の所領や地位をめぐる人々と欲望や嫉妬ゆえの争いが、呪詛したという噂や、後白河院の託宣があったという形であらわれるのである。特に後白河院の寵妃であった丹後局(宣陽門院母)が関与した面が大きい。
 晩年の式子は、三度も呪詛や託宣の事件に巻き込まれた。建久二年(一一九一)ごろ、式子が八条院の八条殿に同居していた頃、莫大な天皇家領である八条院領の相続をめぐり、式子が、八条院とその猶子である以仁王姫宮を呪詛したという噂が立った。そこで式子は父後白河院の御所である押小路殿へ移り、出家してしまった。後白河院はこの事を納得せず不快に思ったという。この後、式子は後白河院を没するまでの二年間、院と同居していたと見られる。
 後白河院の死後、建久七年(一一九六)頃、橘兼仲の妻が後白河院の霊が乗り移ったと言い、託宣であると称して祭祀や寄進を要求し、兼仲夫妻はそれぞれ流された。(『愚管抄』)。『皇帝紀抄』には、式子もそれに同意したとの理由で洛中にいてはならないという沙汰が出されたが、評議の結果取りやめになったとある。この点は『愚管抄』にないので、真相は不明だが、いずれにせよ丹後局の策謀であったと見られる。そして正治二年(一二〇〇)十月、後鳥羽院の命によって、式子が東宮守成親王(後の順徳天皇)の准母となることと東宮を式子の大炊殿に迎えることが内定したが、これを丹後局が妬んで呪詛したという。けれどもこの内定は式子の病状の悪化によりやむなく中止され、翌建仁元年(一二〇一)正月二五日、式子は逝去し、式子の姉の殷冨門院が東宮の准母となった。
 そしてこの頃、柳原家本『玉葉』断簡によれば、源仲国夫妻が後白河院の託宣と称して望みを訴えていたが、通親と式子は託宣を信じず、式子は疑念を表明していたが、式子が没し、通親は式子の死因は託宣を疑った祟りであると考え、託宣を信じるようになったと言う。
 式子周辺で呪詛や託宣の事件が起こったのは、さまざまな思惑が交錯する中で、式子が後白河院や八条院に近い皇女であり、後鳥羽院にも近くなったゆえかと見られる。また式子自身に強靭な凛とした性格があって、警戒された面もあるのかもしれない。最後の託宣への式子の態度は、丹後局ら旧勢力に同調しないという政治的意思の表明と見られる(三次ちはる)。そして後鳥羽院はそうした式子内親王を認め、近くに置こうとしたと考えられる。

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第三章 女房歌人たち
─新古今歌壇とその後─
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第四章 女性歌人たちの中世
─躍動と漂流と─
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p240 皇室略系図(写真)
p241 御子左家(*1)略系図(写真)

(*1)みこひだり‐け【御子左家】
《藤原道長の六男長家が醍醐天皇の皇子、左大臣源兼明の邸宅を伝領したところから》平安末期から鎌倉初期にかけて、藤原俊成・定家・為家(ためいえ)3代を中心とする和歌師範家としての家系。為家の子為氏(ためうじ)・為教(ためのり)・為相(ためすけ)はそれぞれ二条・京 極・冷泉(れいぜい)の三家に分立した。

皇室略系図(後白河、後鳥羽)

御子左家略系図(俊成、定家)

藤原氏略系図(兼家、道長、頼道)

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