20240514『「泣き虫」チャーチル』広谷直路

①文中の※は私見。
②(*)は私注。
③〈〉は私見による強調。
④原文を時に編集して簡略化。


『「泣き虫」チャーチル』広谷直路
副題 大英帝国を救った男
【プロローグ】
p10
1939.7.14巨大ポスター WHAT PRICE CHURCHILL? 「もうチャーチルでしょッ!」
※欧州は二次大戦勃発。東亜はノモンハン事件。元財務相チャーチルは64歳。
p12
1900政界入り。25歳。保守党、下院。
1905
1915
1917
1918
1922
1923
1924
1926
1929
1931.8 ※以上、後日

p16
労働党マクドナルド首相が「病気辞任」したあとは、保守党「一強」の連立政権(1935ボールドウィン、1937チェンバレン)。
p17
チャーチルのクセ。泣き虫。感極まると。人前であろうとおかまいなし。弱みを見せるなどまったく考えない。
無類の映画好き。ヴィヴィアンリーとローレンスオリヴィエ主演のアメリカ映画『レディ・ハミルトン』(1941 邦題『美女ありき』)を自邸で何度も上映会。そのたび涙を流しながら「ナンバーワン」と絶賛。

【1】血と涙と汗と苦汁
p23
チャーチルが初めて母校の「ハーロウ校ソングフェスト」を訪れた1940年12月は、第二次世界大戦のさなか、ロンドンがドイツ空軍の猛爆にさらされつづけたときであった。(略)入学試験でラテン語は白紙(略)校長は入学許可(略)(※チャーチルは)名門侯爵家出身の有力政治家の息子(略)ランドルフ・チャーチル元財務相の長男で、第七代マールバラ公爵の孫。初代マールバラ公爵のジョン・チャーチルがすごい。18世紀初めに、ヨーロッパ最強「太陽王」ルイ14世のフランス軍を破り、大英帝国が世界覇権を目指すベースを築いた軍人政治家で「軍略家・戦術家として、また戦時為政者・戦時外交家としてのマールバラに対しては、史上いかなるイギリス人もその右に出る者はいない」(『イギリス史』トレヴェリアン(1974)みすず書房)
p27
翌年もソングフェストに参加。フランスが早々と降伏、イタリアが敵として参戦、独ソ戦が始まるまでは、ナチスドイツに対してイギリスが孤軍奮闘してきた。その状況を思い浮かべながら(あの有名な)熱弁。
「問題がおおきいとか小さいとか、大変だとか大変じゃないとかに関係なく
never give in, never never never
絶対に屈服してはなりません、断じて断じて断じて!」
※ギヴアップじゃなくてギヴインなのか。

▶王冠をかけた恋事件
1929 チャーチル、財務相退任
1933 ヒトラー政権誕生
1936.12 エドワード8世の退位をめぐりチャーチル失態。※二・二六事件の年。
12.7 議会でボールドウィン首相に「国王を破滅させれば気がすむのか」と吠えて退席。
12.10 国王退位。ウィンザー公爵となって国外へ。
1937.5 新国王ジョージ6世の戴冠式後、ボールドウィン首相引退。後任はネヴィル・チェンバレン財務相。チェンバレンは対ヒトラー宥和妥協(アピーズメント)路線をひきつぐ。チャーチル「政治生命が尽きた」とため息。シンパはたった3人。※日華事変の年。
1938 ミュンヘン協定。チャーチル「ヒトラーに屈伏give in してるだけ」と抗議。採決は連立与党内からチャーチルはじめ30人が棄権。チェンバレン首相ら保守党主流の怒りをかった。
1939.9.1 ドイツ、ポーランド急襲による第二次世界大戦の開戦で状況一変。
対独宣戦布告に踏み切らないチェンバレン首相に対して議会猛反発。
9.3 イギリス、対独宣戦布告。チャーチル海軍相に。閣僚10年ぶり。海相24年ぶりの返り咲き。
ポーランドが独ソ事前秘密協定で分割。1940春までにソ連はフィンランド攻撃、ドイツはノルウェー侵攻。
p33

(略)

p47
1940.5.13 首相チャーチル第一声「私がここでお約束できるのは、血と汗と涙と苦汁だけであります」
ドイツに対するオランダの降伏は目前。イギリス遠征軍をふくむ連合軍を押しまくるドイツ軍機甲部隊は、ベルギー・フランス国境沿いにドーヴァー海峡にむかって突進しつづけていた。

※チャーチルはインドを直轄領から自治領にすることに反対していた。自治領は外交権や憲法がない。大英帝国の植民地カナダが憲法をつくって真に独立したのは1982年。
大英帝国の直轄領と自治領

【2】血を流して戦う国民
p50
1940.5.15
フランス首相ポール・レイノー
英仏連合軍 マジノ・ライン
p52
ダンケルク撤退作戦
p53
ホーリーフォックス ハリファックス卿
p57
チャーチルvs. ケインズ 金本位制 チャーチルこれといった業績なし。1931金本位制停止。
p62
ヒトラー、(ダンケルクへ進撃中の機甲部隊に)謎の「進撃停止命令」
p66
1940.5.28ベルギー軍がドイツに降伏
チャーチルとハリファックス口論
チャーチル「血を流して戦う国民ならば再起できるが、おとなしく降伏するようでは滅びるだけだ」
※再起か。生きる意味がないと再起する気も起きない。滅びる、か。それはすべての定め。それをどこか無理矢理何とかしないと「きちんと生きられない」。
p67
チャーチル「我々は、海岸で闘い、敵の上陸地点で闘う。我々は、野原で闘い、街で闘い、山々で闘う。我々はけっして降伏しない」
1940.6.1 イタリアがイギリスとフランスに宣戦布告。
6.14 パリ陥落
6.16 レイノー首相辞任。フィリッペ・ペタン元帥が組閣。
6.18 フランス降伏。ペタン政府はイギリスと断交。
p68
1940.10 チェンバレン引退。一ヶ月後、癌で死去。
p71
ジョン・F・ケネディの父親(ジョセフ)
第35代米大統領ジョン・F・ケネディの父親。キャロライン・ケネディ元駐日大使の祖父。
ジョセフは、アイルランド移民の三代目。
カトリックで、白人社会のマイノリティ。二代目がたちまち財を築く。
チャーチルが二歳のとき、祖父マールバラ公爵がアイルランド総督に。ダブリンに赴任。幼児チャーチルの最初の記憶は支配者イギリスへの抵抗運動で荒れるダブリン。
ジョセフ・ケネディは、ハーバード大学へ。世界恐慌では直前に株を売り抜けて資産を守った。その前からインサイダー取引と疑われていた。ルーズベルト(当時ニューヨーク州知事)の1932年の選挙では資金面で貢献。禁酒法時代(1920-33)ケネディはマフィアと組んで大儲けした噂が絶えず。禁酒法廃止とともにルーズベルト長男ジェームズを取りこんでスコッチウィスキー輸入ビジネスのパートナーに仕立て上げた。(略)
p73
1938.2 新任駐英大使ジョセフは、英へ。
1938.3 ヒトラー、オーストリア併合。
p74
ジョセフを待っていたアメリカ人はチャールズ・リンドバーグ(1927大西洋横断単独無着陸飛行。1932愛児誘拐殺害事件で英に移住)。
会わせて意気投合させたのが、元アメリカ国籍ナンシー・アスター子爵夫人。夫ウォルドルフ・アスター子爵もアメリカ生まれで、ホテル「ウォルドルフ・アストリア」創業者一族。ナンシーは、1919年、イギリス初の女性下院議員。ズケズケものを言う女性。

p76
駐英大使ジョセフ・ケネディは、在英アメリカ人に「イギリスは負けるだろう」

p77
1940.7.10 イギリス本土南岸にドイツ空軍爆撃。英本土決戦(バトル・オブ・ブリテン)が始まった。
7.19 ヒトラー、帝国議会で二時間半の演説「チャーチルを『大嘘つき』(2度)、『煽動者』、『血に染まったディレッタント(*1)』などと呼んだ」
(*1)ディレタントとはどういう意味ですか?
仕事としてではなく自分自身のために芸術や学問を「楽しむ人」を意味する。 語源はイタリア語の「dilettare(楽しませる、楽しむ)」。 ディレッタンティズムとは、そうした享受の仕方や態度を指す。 日本語では「好事家」あるいは「芸術愛好家」などと訳されることが多い。

p77
1940.9.7 この日以降、ロンドン空襲が日夜つづいた。(略)バッキンガム宮殿に時限爆弾が落下してからは、ジョージ6世国王のエリザベス王妃が低所得層の住むイーストエンドを慰問に訪れて「私どもも、これでやっと、美菜さんのお仲間になれました」と、そこの瓦礫のなかで言った。
※2024.5.14現在、ウクライナ侵攻とガザ無差別攻撃は続いている。

p81
1940.11 ルーズベルトは「あの『げす男』の顔など、生涯2度と見たくない」とぶちまけた。それがケネディ駐英大使の最後。ジョセフ・ケネディは以後息子たちを大統領にするフィクサーに徹するが、期待の長男ジョセフ・ジュニアは、1944年に戦死。
p81
1941.7.14 チャーチルは大忙しだった。
※この年の12.8日本は開戦。
前年秋から冬にかけてのロンドン空襲では二万人が犠牲になったが、ロンドン市民はくじけなかった、とチャーチルは言い、さらに続けた。
「ヒトラーがワルシャワ(※ポーランド)で、ロッテルダム(※オランダ)で、またベオグラード(※セルビア)でかさねてきたのと同じ、悪質な犯罪行為にもロンドンは屈しなかった。そっちの悪逆無道に対して、我々は全身全霊で戦う!(you do your worst, we will do our best )何年かかろうともナチス体制が、我々、あるいは、より望ましくはドイツ国民自身の手によって壊滅させられるまで戦い続ける!」

p82
1961.1.20 ジョン・F・ケネディの大統領就任式。三男ロバートも司法長官となり、フィクサーの父ジョセフは得意の絶頂。ジョセフ、同年12月、脳梗塞で言語機能を失う。1963年にジョンが現職大統領として、1968年にロバートが民主党の予備選で大統領候補に指名される直前に暗殺されたとき、家族は、心中を思いやって、ジョセフに悲劇を告げられなかった。1969年、ジョセフ・ケネディ没。81歳。
※なんだかねえ。

p82
チャーチル謀略説を検証
※なにそれ? 読んだが、どうでもいい。

p87
チャーチルの母ジェニーは、米国の投資家レナード・ジェロームの次女。
ランドルフ・チャーチル(ウィンストンの父)には、公爵家の男子として卿(ロード)のタイトルが与えられていた。だがそれは、儀礼称号であって彼の法的身分は貴族ではなく一般人。(略)ランドルフは、ジェニーと出会ってすぐプロポーズ、強引に翌年結婚。
※資本主義の香り。

(略)p87~p140 メモ気力なし。無念。

p141
1940.8.9 AM11:00
(※現カナダのニューファンドランド)アージェンシア米海軍基地の重巡洋艦オーガスタで、チャーチルとルーズベルト会う。

p142
アメリカ独立戦争(1775-83)
米英戦争(1812-14)第二次独立戦争とも。英植民地カナダを奪おうとしたアメリカだが、首都ワシントン陥落。炎上した大統領官邸の修復で白ペンキ塗装。ホワイトハウスの由来。
p143
アメリカは、一次大戦で両陣営に軍事物資を販売。債務を戦後1年で完済。債権国に転換。210万人派遣、13万人戦死。英国に引きずりこまれたとの思い。

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