20140506イギリス史10講 近藤 和彦#本


イギリス史10講
近藤 和彦
出版社: 岩波書店
発売日: 2013/12/21

*
p43
第3講 海峡をまたぐ王朝
1189 リチャード獅子心王(~99)、第3回十字軍

p43
1 ノルマン征服からアンジュ朝へ
p43
ウィリアム征服王(ギヨーム公)
p43
 ノルマン征服(コンクエスト)というが、歴史の連続性がないのではない。なにより、権力者が変わろうと、働く民は変わらない。またイングランドはすでに一定のまとまりをなす王国で治世をこえて受け継がれる政治文化があった。デーン人のカヌート王も、半分ノルマン人のエドワード証聖王も、在来の貴族および州制度、司法を尊重した。ウィリアム征服王が手にしたイングランドは、すでにそうした政治社会が成立し、継承されるべき国であった。

p44
アングロ=ノルマン複合
それにしても、ノルマン朝がイギリス史の画期をなし、不可逆の変化をもたらしたといえる理由が三つある。第一はアングロ=ノルマン連合である。同じく海を挟む複合国家/帝国であるが、デーン人の海洋帝国の場合は、北海をはさんでスカンジナビアに顔を向けていた。カヌートは先王の妃と再婚し、旧政治社会との連続性、在来貴族との共存を明示した。これにたいして、ノルマン人の海洋帝国は、英仏海峡をはさみフランスに、そしてローマ教会に顔を向けていた。スカンジナビアとちがって、フランス、ローマは中世ヨーロッパの政治・宗教の中心地なので、イギリス史はヨーロッパ史の展開と直結することになった。
 すでにハロルド、トスティグ、ノルウェー王の戦いにより証聖王を継承すべきライバルは掃除されていたが、征服によって領主の消えた土地は、ヘイスティングズの戦いの勝者ノルマンディーの戦士たちに封土として与えられた。司教や修道院長など高位聖職者も、数年のうちにフランスやイタリア系の聖職者にかわった。こうして歴史家が「アングロ=ノルマン」とよぶ複合的な社会/政体に入れ替わった。この点で俗界でも聖界でも容赦はなかった。
 第二に、統治の台帳である。反乱をおさえ、ウェールズやスコットランドに遠征した後、ウィリアムはイングランドの検知台帳を編纂させた。領地の広さ、図面ばかりでなく、領主・権利関係、家畜の頭数、その価値に至るまでの悉皆調査に基づくこの閻魔帳は、審判の日、運命の決する日という意味で「ドゥームズデイの書」と呼ばれる。この時期のヨーロッパでは他に見られない、中央集権の台帳である。
 第三は文化の転換である。ノルマン人もヴァイキングの末裔だが、ノルマンディーに定住して古フランス語を話し、キリスト教の熱心な担い手となっていた。ちょうどグレゴリウス教会改革と同期して、イングランドの教会も「旧弊」を排して浄化されることになる。征服王朝はその強い力と意思を表すように、ロンドン塔をはじめとする城砦、ウィンチェスターやダラムなど各地の大聖堂によって、イングランドを威圧した。堅牢な石造りの柱と壁、半円形アーチよって力強さと高さを強調した建築をヨーロッパではロマネスク様式とよび、イギリスではノルマン様式とよぶ。アングロ=ノルマン複合の建築史的モニュメントである。
 言語はといえば、住民の古英語は残したまま、新領主の言語として古フランス語が導入された。たとえば、牛、羊、豚は、野良にいるかぎりでox やcow, sheep, swine の古英語で呼ばれたが、領主の食卓にのぼったとたんにbeef, mutton, pork あるいはbacon の古フランス語で呼ばれる。農民のメシは古英語のmeal だが、領主のご馳走は古フランス語のdinner である。こうした語彙だけでなく言い回しも増え、中期英語(Middle English )が形成される。
 グレートブリテンの南部は、こうしてアングロ=ノルマン複合に編入された。
 一〇六六年から一二八〇年ころまでを「長い一二世紀」とよぶ中性史家がいる。イギリスがヨーロッパ史の主要アクターの一員となり、またブリテン諸島の中のアイデンティティという点でも重要なことが次から次へと生じる。この特別に長い一二世紀のあと、エドワード長脛王(後述)の治世にはイングランドとウェールズ、スコットランドとの関係の基本が定まり、百年戦争の前哨戦も始まった。人口も中世の頂点に達する。(略)

p46
アンジュ(プランタジネト)朝へ
 ウィリアム征服王のあと、ノルマンディー公領とイングランド王国は分けて相続された。一二世紀半ばの内戦を勝ち抜くのは、征服王の孫マチルダ(一一〇二~六七)。このマチルダ(別名モード)の時代の王族の骨肉の争い、聖職叙任権、そして尖塔アーチと飛梁を特徴とするゴシック様式を担う建築職人集団をめぐる歴史ドラマが、K・フォレットの『大聖堂』である。
 マチルダは前夫・皇帝ハインリヒ五世(カノッサの屈辱?)と死別したあとに、フランス中央部のアンジュ伯ジョフルワ(ジェフリー)と再婚した。この再婚がもたらしたのは、プランタジネト家の伯領と強い意志のDNAである。プランタジネトとは黄色い花(ジネト・プランタ)に由来するあだ名である。なお、アンジュ、メーヌ、トゥレーヌの三伯領を合わせて「アンジュ」と呼ぶ慣行である。マチルダとジョフルワの子アンリ(ヘンリー)は一一五二年、一九歳のとき、アキテーヌ女公アリエノル(エレナ)と結婚した。アリエノルは三〇歳、フランス王ルイ七世と離婚したばかりだった。成熟したアリエノルと若いアンリとの結婚であるが、アリエノルは美しく才気にあふれていた。熱愛する二人の間には計八人の子が生まれることになる。二年後、アンリは妃とともにウェストミンスター修道院教会で戴冠し、ヘンリー二世(在位一一五四~八九)となった。アンジュ(プランタジネト)朝の始まりである。

p47
複合君主ヘンリ二世
 ヘンリー二世は母方からイングランド王国を継承したが、父ジョフルワからノルマンディー公領とアンジュ伯領を、また妃エレナからアキテーヌ公領を継承し、これらを統一する複合君主になった。その領土/家産は、北はハドリアヌスの壁から、海峡をまたぎ、南はピレネ山脈までつらなる、南北一四〇〇キロメートルにおよぶ広大な領域で、これはイル・ド・フランスを中心とする中世フランス王国よりはるかに広かった。ときに「アンジュ帝国」とよばれるが、近代帝国のように中央政庁が統一的な政策をおこなったわけではない。同君連合てま結ばれていたが、それぞれの文化と法をもつ複数の政治社会がそのまま存続した。(図3-2 アンジュ朝の複合領域)
 ヘンリー二世がウェストミンスターの戴冠式に神とイングランド人民の前で誓約したのは、エドワード証聖王の先例によって教会を守り、父祖の地を守り、法/正義(ジャスティス)をおこない、悪弊を抑止することであった。州には州奉行(シェリフ)をおき、重大案件については中央から判事団が派遣されて六つのサーキット(巡回区)をめぐり、判決を下した。全国的に法と行政がととのい、機能し始めた。ヘンリー二世はウェールズには数度にわたり、アイルランドには教皇の承認を得た上で一一七一~七二年に侵攻した。両地域に対する一〇〇年遅れのノルマン征服のような企図であった。
 ヘンリー二世が最も信頼した友人は、ノルマン系のロンドン商人、トマス・ベケット(一一一八~七〇)だった。国王はトマスを尚書部長官(大法官)に任じ、さらにカンタベリー大司教に推挙した。だが、大司教ベケットは、ときのヨーロッパを席巻していた教会改革の熱心な担い手となり、教会の浄化、世俗権力からの独立をはかった。あの教皇と皇帝のあいだの「叙任権闘争(カノッサ?)」から九〇年ほど。同じような係争が大司教と国王のあいだで再演されるかのようだった。ヘンリー二世としては、旧友との楽しい思い出があったればこそ、妥協しないベケットに裏切られたような気持ちだった。激昂した国王の意を体して四人の騎士がカンタベリー大聖堂におもむき、礼拝中のベケットを殺した。厳冬の一一七〇年一二月である。

p47写真3-1王位継承図。アンジュ朝(プランタジネト朝)

p48写真 3-2アンジュ朝の複合領域

p49
骨肉あいはむ
 ヘンリー二世の苦難はこれでは終わらない。エレナ妃との結婚生活が十数年をこえるころ、ヘンリーの気持ちは他の女性に向かった。王公に婚外恋愛があったからといって、特に問題視されたわけではないが、ヘンリーの愛人たちへの執着は普通ではなかった。エレナは深く傷つき、夫に対して、成人した王子たちをことごとく造反させた。国王と王子が対立することも、また珍しくないが、この場合は、王と妃と王子の争いにフランス王の思惑がからみ、兄弟の間も疑心暗鬼になってしまった。
 二人の王子が早世したあと、妃、三男リチャード、末子ジョン、そしてフランス王フィリップ二世(尊厳王、在位一一八〇~一二二三)の組んだ反乱を知って、ヘンリー二世が憤死したのは一一八九年、このとき五六歳であった。ちなみに映画『冬のライオン』は、舞台を一一八三年冬のシノン城に設定して、ヘンリー二世をピーター・オトゥールが、エレナ妃をキャサリン・ヘッバンが、リチャード王子を若きアントニー・ホプキンズが演じる。ロワール川流域の美しい風景のなかにアンジュ王家の愛憎とアイデンティティ危機を描く、れきしてき名作ではないか。
 リチャード(在位一一八九~九九)は成長し、獅子心王(ライオンハート)とあだ名される勇猛果敢な軍将となった。旧知のフィリップ二世とともに十字軍を編成して聖地エルサレムに向かったが、フランス軍は途中で帰ってしまった。ムスリムとの戦いは困難を極め、二年後、獅子心王はシリアからの帰途に捕囚の身となった。これを知ったジョンは、あろうことか、王位を要求して挙兵した。フィリップ二世はこれに乗じてノルマンディーを手に入れた。やがて母エレナの工面した高額の身の代金によって解放されたリチャードは、その後、失地の回復に精力を使い果たした。
 こうして兄たちが死んだあとの王位を、末子ジョン欠地王(ラックランド。在位一一九九~一二一六)が継承するのだが、ジョンは小賢しく猜疑心の強い、非情な男と伝えられる。即位してただちに祖地ノルマンディーとアンジュをまたもフィリップ二世奪われたが、国王のために戦う戦士を糾合できなかった。海峡をまたぐアンジュ王朝は中核を失い、イングランドおよびフランス南西部アキテーヌ地方を保持するにすぎなくなった。

p51
マグナカルタと文書行政

p53
2 イングランドとウェールズ、スコットランド

諸侯の反乱と王国の共同体

スコットランド独立戦争
メルギブソンの映画『ブレイヴハート』

エドワード一世と議会

アーサ王と騎士の物語

*

コメントを残す