20111117ミシェル・フーコー 重田園江#本

ミシェル・フーコー: 近代を裏から読む (ちくま新書) [新書]
重田 園江 (著)
出版社: 筑摩書房 (2011/9/5)

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何度も頭をよぎるのは、フーコー自身が生涯にわたって、この「価値を変えろ」を追い求めたのではないかということだ。「価値を変えろ」とは、見方を変えるということだ。だが言われているほど簡単ではない。
(ミシェル・フーコー P23)

博士学位請求論文『狂気の歴史』(一九六一)は「狂人」を特異な対象として浮かび上がらせる精神医学と精神医療がどのように生成してきたかを描いた。また、狂人や浮浪者の「閉じ込め」をテーマとしている点で、『監獄の誕生』(一九七五)へのつながりが明白な作品でもある。
(ミシェル・フーコー P28)

医学史を扱った『臨床医学の誕生』(一九六三)に続いて、一九六六年に『言葉と物』が出版される。この本がベストセラーになったため、フーコーはサルトル後のフランス現代思想を代表する人物として、ポストモダンの「アイコン」になってしまった。
(ミシェル・フーコー P28)

フーコーは、六八年以降の新しい思想の代名詞となった「構造主義者」と呼ばれることを嫌う。『言葉と物』は構造というより概念間の関係とその変容、概念の継承と廃棄の複雑な交錯に注目。そして「人間を主題とする科学の歴史」を描いている。
(ミシェル・フーコー P29)

そして「フランス科学認識論(概念史の哲学)」の中での自分の特異な手法について解き明かそうとした『知の考古学』(一九六九)を出版。
同年末、フランスで最も名誉ある教授職コレージュ・ド・フランス教授に就任する。
(ミシェル・フーコー P29)

『監獄の誕生』が七五年に出版されるが、助手時代からのフーコーの関心、そして『狂気の歴史』以来のテーマからすると、「フーコーはなぜ監獄を選んだのか」を説明するすっきりした答えは見あたらない。なぜ病院や医療でなく、監獄だったのか。
(ミシェル・フーコー P29)

必要なのは、経済/文化/政治といった既存の分類そのものを疑問に付すこと。フーコーが示したのは、刑務所の中で起こっていることは、 経済/文化/政治のどの分類にも収まらない何かだということだった。
(ミシェル・フーコー P53)

フーコーは既存の見方を変える。彼の著作が難しいと言われるいちばん大きな理由はここにある。 彼が見ている場所は見慣れた場所ではない。というより、見慣れた場所を全く見知らぬ場所へと変えてしまう。
(ミシェル・フーコー P54)

フーコーは、彼独特のレトリック(言い方) を動員して、まだ誰も見たことがない世界を表現しようとした。彼が言葉を尽くすほどに、その特殊な用語や言い回しに読み手は混乱する。何を言おうとしているのかますますわからなくなる。悪循環だ。
(ミシェル・フーコー P55)

(近代以前の権力のスタイルである)〈君主〉の至上権は、「死なせるか、生きるままに放っておくか」(『知への意志』一七二頁)の形で行使される。生殺与奪の権利だ。その行使のされ方を劇的な形で明示するのが身体刑だ。中でも君主権力の侵害に対して。
(ミシェル・フーコー P64)

王の権力とはつまるところ「自らを見せる権力」である。王位につく際の壮麗な戴冠式にはじまり、(略)王が自らの姿を誇示し、その身体に重ねて王朝の力と繁栄を表現する儀式を、王権はさまざまな場面でくり返す。
(ミシェル・フーコー P64)

ひるがえって囚人の身体とは、不可侵の存在である王の身体のちょうど裏側にある。それは暗く、汚らわしく、権力の責めに対して無力で、完膚なきまでに打ち砕かれなければならない。
(ミシェル・フーコー P64)

とくに重罪の場合は、王権はあらん限りの力で犯罪者の身体を攻撃し、跡形もなく消滅させねばならなかった。犯罪は、法の絶対的保障者たる王の権利の侵害へと結びつけられたからだ。
(ミシェル・フーコー P64)

逆に考えると、王権は些細な罪にはそれほど興味を示さない。近代以降の「生きさせる」権力とは全く違っている。(一人一人の生のあり方に介入し、より強く、より長く、より生産的に生きることを促す権力)
(ミシェル・フーコー P65)

王の権力は、規律型の権力、たとえば子どものちょっとした「逸脱行動」を見逃さず、ほんの少しの「異常」を周到に監視し矯正することに最新の注意を払う(近代の)権力とは対照的だ。
(ミシェル・フーコー P65)

中世からルネサンスにかけて、ヨーロッパでは(科学とは)別の真理体系が流通してきた。それは教会の権威が発することばこそ最高の真理だと主張する体系だった。そして(略)近世王朝は糾問型の裁判様式を洗練させてゆく。
(ミシェル・フーコー P70)

一八世紀末に要請されていたのは、まず、処刑をめぐる暴力的な対決をやめさせ、囚人と公権力とが対峙する場の視覚化を避けること。それによって、民衆の権力への反感が処刑台の周りでの騒擾(そうじょう)と無秩序に発展するのを阻むこと。
(ミシェル・フーコー P81)

そしてまた、相対的に増えつつあった盗みや詐欺、つまり商品から利益を得るブルジョワジーにとって死活問題であった、所有権を侵害する新しいタイプの犯罪に有効な対処法を示すこと。
(ミシェル・フーコー P81)

フーコーは考える。「啓蒙主義の刑罰改革」はこれらの要請に応えるものだ。文明が進歩してやっと人間たちが真に人間らしい段階に到達し、身体刑の野蛮さに気づいて自らを恥じ、死刑囚を思いやるようになったからではない。
(ミシェル・フーコー P82)

啓蒙主義者は人道主義でも何でもなく、司法権力の非効率、惹起される無意味な対立と騒乱、新しい犯罪への不十分な対処など、一言でいえば身体刑の時代錯誤を批判した。より有効に人を裁き犯罪を飼い慣らす方法を考案しようとした。
(ミシェル・フーコー P82)

近代(啓蒙主義)の刑罰は自由を、そして自由のみを剥奪する刑である。なぜなら自由こそが、近代が掲げる最も重要な価値だからだという理由づけがなされる。フーコーは問う。監獄は近代啓蒙主義に相応しい刑罰か。本当に自由のみを剥奪するのか。
(ミシェル・フーコー P92)

裁判での法の優位と訴訟手続きの一元化、人権の尊重といったでは、近代の刑罰改革は多くを達成した。だが問題はそれ以外のところにある。
判決後の刑の執行では、啓蒙主義者が好きな法の支配も人権の尊重も関係なく、別の人間管理テクニックが幅を利かせるのだ。
(ミシェル・フーコー P93)

規律の体系において高く評価される者とは、他より抜きん出た者や類を見ない才能を持つ者ではなく、規格に合わせる能力と判断力を持ち、集団そのものが設定する基準=規格に適合する行為や発言ができる者だ。
(ミシェル・フーコー P111)

フーコーは「近代における異常者の扱い」というテーマに返っている。彼は自身の経験から、自分が生きている社会が「異常者」に強い関心を持ち、その人たちに干渉するのが大好きだと感じていた。
(ミシェル・フーコー P111)

そのことを余計なお世話だと思うだけでなく、誰がどのようにしてある人を「異常者」だと名指すのか、異常者を定義し、研究し、そのための専門の学問を作り、そして治療対象にするといったことが、歴史上どうなされてきたかに関心を持った。
(ミシェル・フーコー P111)

規律の場で繰り返される規格化のプロセス、位階に応じて細かく設定された基準に合う者を高く評価し上位に取り立てる仕組みは、一方で規格に合わない者に制裁を加え、処罰を与えるとともに、その人たちを「異常者」としてくくり出す仕組みでもあった。
(ミシェル・フーコー P111)

近代の権力=規律権力は、身体と空間と時間の区割り・活用に作用する。一九世紀以降、児童心理学、精神医学、臨床心理学、犯罪精神医学等の学問が生まれ、大量の「患者」「被験者」を見いだし、発展していった。
(ミシェル・フーコー P112)

規律は異常者をターゲットとする。その対極は、剣による権力、王の至上権と生殺与奪権だとフーコーは言う。この権力と結びついた「軍人の理想像」で『監獄の誕生』第三部は始まる。その軍人像は、古今東西の数々の神話や伝説で繰り返し伝えられてきた。
(ミシェル・フーコー P114)

戦いの日に備えて日頃から訓練を怠らず、生活は簡素でいつでも戦地に赴けるよう準備。死に備えて常に身を清め、居ずまいを正し、最期の時まで潔さを持つ。
一転して、規律化された近代軍の兵士はどんな存在か。
(ミシェル・フーコー P115)

近代社会は、都市、学校、工場などを近代軍に似たものにする。もともと規律型の権力は、軍隊、修道院という閉鎖的な場所でひっそりと受け継がれてきた。フーコーは、それがフランスでは一七世紀末以降様々な場所に急速に広がったという。
(ミシェル・フーコー P133)

『監獄の誕生』が多くの人に訴えかけた理由の一つは、一般的で日常的な場面に広がる規律型の権力をフーコーが描写したからだろう。しかもそれは、独房の囚人が中央の監視塔にひれ伏して祈る印象深い画像とともに読者に差し出された。
(ミシェル・フーコー P135)

「パノプティコン(一望監視)」は、囚人にも生徒にも労働者にも都市の住民にも、人が集まる多種多様な場面に応用可能なテクニックで、読んだ者は誰もが、自分の身近に多少なりともそれに似たものを発見し、はっとさせられた。
(ミシェル・フーコー P136)

ペスト(非日常の災害)に見られる規律権力は、例外的でネガティブな状況下で惨事の拡大を止め、最悪の事態を回避し、秩序を取り戻すこと。しかし規律が一般化して、学校や工場のように、ポジティブな目的に変わる。いかに生産性を上げるか、優秀な生徒を作るか。
(ミシェル・フーコー P136)

積極性や生産性が求められ、規律は日常へと浸透していく。学校で品行の悪い生徒に対しては、必ず家族が疑われ、監視と介入の標的となる。(略)規律の背景の存在こそが「近代国家」だが、ここが理解の難しいところだ。
(ミシェル・フーコー P137)

規律化を通じて従順な国民の形成を進めたのは近代国家だという理解では、「誰が権力を所有しているのか。最終的には合法的暴力を独占している国家だ」という、どうしようもなく退屈でフーコーが忌み嫌った権力観へと逆戻りしてしまう。
(ミシェル・フーコー P137)

フーコーは「知」という言葉は、国土や都市の状態など全てを記述する「記述統計学」の様相を呈する。(略)また、人口、出生、死亡について数値で記録する人口統計学を発達させ、都市の衛生と安全についての公衆衛生・都市政策学へと結実する。
(ミシェル・フーコー P153)

だがそれは、もっと曖昧でおよそ「学」とは呼べないような多様な言説も含んでいる。嘆願書の呻きや悲嘆、浮浪者の状況、施療院に収容された者の報告、売春婦による当局への密告、罪人の尋問調書。これらの言葉の集まりを、フーコーは特に「ディスクール(言説)」と呼ぶことがあった。
(ミシェル・フーコー P154)

こうしたディスクールが規律権力の行使に際して参照されるとともに、無数に蓄えられていく。これらの文書は、そこに関わる人の思惑=欲求から生まれた。そこでは知を欲することと権力を欲することが、解きほぐせないほど密に絡み合っている。
(ミシェル・フーコー P154)

ここで再び注意。知と権力の複合体としてのグロテスクな近代国家という理解はいいとして、フーコー自身がその国家を「冷酷な怪物」として思い描くなと言っているからだ。
(ミシェル・フーコー P156)

埃のように些細な事柄にまで手を伸ばし、全てを掌握しようとするポリスの装置。そこで使用されるのは、悪意に満ちたちんけな工夫の積み重ねとしての規律権力である。なのに、近代国家を冷酷な怪物ではないというフーコーの意図はどこにあるのか。
(ミシェル・フーコー P156)
次回、フーコーの近代国家観

一九六八年、日本でも全共闘運動に火がついたように、欧米はじめさまざまな場所で、学生による異議申し立てに端を発する社会運動が時を同じくして起こった。日本政府の対応は日米安保の延長と「所得倍増計画」。要求に応えない強い姿勢を読める。
(ミシェル・フーコー P220)

六八年五月以降、フランス政府は毛沢東主義の極左集団「プロレタリア左派」を非合法化。地下に潜った運動家達を次々投獄。彼らは刑務所で、当時フランスになかった政治犯の地位を求めてハンスト決行。二度のハンストで、塀の外のハンスト喚起。
(ミシェル・フーコー P223)

ここから一九七一年二月にはGIP(監獄情報グループ)結成に至る。このグループにフーコーは結成準備から参加し、組織のあり方や運営、声明文などには彼の方針が大きく反映している。ここでのフーコーのスタイルは彼の「特定領域の知識人」の言葉と共に流行。
(ミシェル・フーコー P224)

自分が関わっている特定の領域について、そこで起きていることに疑問を抱き、そこで自分がルーティンワークをこなしつづけるだけでは事態は変化しないと思ったなら、その人たちは発言し、行動すべきなのだ。
こうしてフーコーは多種多様な職業の人たちを集めようとした。
(ミシェル・フーコー P226)

明らかになったことは、刑務所で日常化していた暴行の類、陰険な手段で日々強化される権力関係、その物理的な道具や隠語の数々、刑務所を出た後まともな職に就けなくなる理由、家族が晒される誹謗中傷とつきまとう貧困など、さまざまな事柄が含まれていた。
(ミシェル・フーコー P227)

フーコーはこれらの事実をまとめたり代弁したりするのを嫌い、受刑者自身の証言や書かれた言葉をそのまま公表するよう努力した。フーコーがどうしてもこだわったのは、自分が運動の代表者であるかのごとくふるまい、叡智に満ちた言葉で語る「人権派の」知識人と一線を画すことだった。
(ミシェル・フーコー P227)

フーコーは、単純で表面的な熱血では、事態は何も変わらないことを知っていた。彼は当事者に語る場を与えることを重視した。知識人の役割は、彼らの「自助」の手伝いをすることだ。自助がうまく回れば、日常的には知識人は必要ない。
(ミシェル・フーコー P228)

偉大な思想家は時代でタイプが違う。ボダン、ホッブズ、スピノザなど、一六・一七世紀の巨人たちは、得体の知れないものを内に秘めていて、宇宙の神秘と彼らの言葉が闇の奥深くでつながっているような恐ろしさがある。
(ミシェル・フーコー P233)

一八世紀には、思想家たちは「啓蒙」されて闇から光の下に出てくるが、その分一人ひとりは小さくなって、物わかりよく自分の居場所に収まるようになる。一九世紀前半には奇想天外だが独りよがりな思想家がたくさん出て、それが世紀末にかけてくそまじめな思想に収斂していく。
(ミシェル・フーコー P234)

では二〇世紀はどうか。出発点にあったのは、大仰なまでの仮想敵作りだ。ニーチェもハイデガーも、古代ギリシャ以来のヨーロッパ思想全体を敵に回したつもりで巨大な聖剣をぶんぶん振り回す甲冑の騎士のようだ。
(ミシェル・フーコー P234)

フーコーもまた彼らの一味として出発しているが、彼が生きた時代には、もはや「形而上学批判」を壮大なタイムスパンで行うことのリアリティは失われつつあった。
(ミシェル・フーコー P234)

戦争による大きな喪失に深く傷ついた二〇世紀後半のリアリティは、ヨーロッパ的伝統全体との格闘よりも、むしろ「断片」を提示することで懐疑を呼び起こす事へと変貌していたからだ。フーコーはこの変化をよく理解していた。センスのある思想家だからだ。
(ミシェル・フーコー P234)

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