20230509『読まずに死ねない哲学名著50冊』平原卓【第四部】現代〈Ⅰ〉ニーチェ~ハイデガー

第四部】現代〈Ⅰ〉ニーチェ~ハイデガー
■28悲劇の誕生 ニーチェ
■29道徳の系譜 ニーチェ

p246
■30権力への意志 ニーチェ(1844-1900) p247 ニーチェの認識論は、「認識とは主観が客観を写し取るようなものではなく、〈欲求に相関した価値解釈〉である」。 p250 価値そのものは、客観それ自体と同じく存在しない。価値は可能性の領域を拡大するか否かという観点において現れる。だからこそ、カネは価値をもつ。
p251
客観それ自体、真理それ自体は存在しない。あるのはただ欲求に相関した解釈だけである(p248 反カント。相対的。ただしニーチェは相対主義者ではない)。p252 生を肯定する原理は〈芸術〉と〈永劫回帰〉。芸術は美の陶酔をもたらし、生に完全性と充実をもたらすから。p253 では永劫回帰は? キリスト教的「最後の審判」に代わる世界観。永劫回帰には、ゴールもなければ「救い」もない。苦悩も快楽も等しく経験される。ここに、生を肯定するきっかけがあるとニーチェは考える。※わからんな。魂の輪廻転生で、自己あるいは記憶が継続するならわかるが。 p256 生をどう受け入れるか。

■31空想より科学へ エンゲルス(1820-1895) p266 資本主義がもたらす経済格差は、資本家の搾取による必然。しかし資本主義は人間の欲望が必然的に生み出す(ヘーゲル)。※さて、どうする?
■32時間と自由 ベルクソン(1859-1941) p269 生の哲学(ベルクソンやニーチェ p21参照)=人生は概念や論理という形式では捉えられず、〈生の深み〉でしか理解できない。この立場から、合理主義(デカルト、スピノザ、ライプニッツ)や唯物論(マルクス、エンゲルス)を批判。p269 意識のあり方を「持続」と呼ぶ。意識はつねに変化する〈流れ〉という主張が、近代の閉塞感に応える思想としてはたらいた。※それで応えられたのか?

■33プラグマティズム ウィリアム・ジェイムズ(1842-1910)
p276
主観は客観を正しく認識できるか(※人は世界を理解できるか)という近代哲学の問題は、まずニーチェによって大きく変えられた。
一切の認識は「力(欲望)」に基づく価値である。※欲望の役に立てば価値あり、立たねば価値なし、と認識する。
これがニーチェの認識原理。
一九世紀のアメリカで、先ほどの「主格一致」問題を変えようとする「プラグマティズム」が登場。
パース~ジェイムズ~デューイ
p277
プラグマティズムの背景には南北戦争がある。意義は「真理」という観念の転換。
p278
近代哲学の認識論では、「主観が客観を正しく捉えられたら、その知識は真である(※主格一致)」とされた。これを転換した。
真理とは、客観についての知識が私たちの生を「よく」導くとき、その知識は真〈となる〉。生をよくしない知識であれば真ではない。「道具的真理観」。
p279 つまり、〈役立てば真、役立たなければ真ではない〉。※つまり相対主義。主格一致は時代遅れに。

p282
■34現象学の理念 フッサール(1859-1938)
p285
世界像をいったん「判断停止(括弧入れ)」して、意識に還元する。
p286
判断停止の目的は、誰もが合理的に考えるかぎり受け入れざるをえないような認識論のスタート地点をつくることにある。
デカルトの『方法序説』の「方法的懐疑」すなわち、一切を疑っても、その疑っている自分が存在していることは絶対に疑えない。フッサールの判断停止はこれを参考にして考え出された。
※目にラーメンが映っていることは、絶対疑えない。脳の機能の範囲でしか世界や自分を認識できない。それが精一杯なのだ、ということか。だとすれば、死後の世界については、もちろんわからない。デカルト「考えている存在(自己)は疑えない」、フッサール「目に映っているものの存在(現象。対象とは言わない)は疑えない」。てな感じか。

■35『イデーン』フッサール(1859-1938)
p291
現象学は、近代哲学における主格一致の構図を再検討し、対象についての認識を意識の内側で構成される「確信」として論じる、認識論の本質として現れてきた。※〈確信〉という言葉が生まれたのは、客観の存在証明は不可能とわかったからか。

■36『一般言語学講義』ソシュール(1857-1913)
言語には差異しかない。 p301 言語問題は、認識問題から派生。言語(主観)客観(対象)を正しく表現できるか。※直感で言えば「無理」。言葉にはもちろん限界がある。20230505 p302 ソシュールは、世界のあり方と言語が対応しているという考え方を批判。言語は欲望や関心に応じて〈切り出される〉記号の体系。(p314 ヴィトゲンシュタイン 言語と世界は厳密に対応している)
p304
ランガージュ(言語能力)
①ラング(言語体系)社会制度。差異の体系。※言葉は他の言葉との差異で成立する。当然だ。これは「資本主義は差異である(差異がなければ売れない)」と関連するか? 商品は言葉である。そゆことか。※生命世界は差異(エントロピー(乱雑さ)大?)。それをAIが壊す。エントロピー(秩序)が大きくなり死の世界になる。 ※秩序=死。ここが昔からよく飲み込めない。
②パロール(言語使用)ラングの実践
p309
ラング(言語体系 ※辞書みたいなものか)はシーニュ(言語記号。体系の要素)からなる差異の体系
シーニュ(言語記号)には二つの側面
①シニフィアン(音)意味するもの ※言葉そのもの
②シニフィエ(意味)意味されるもの ※何か心的なもの。客観的な存在ではない。 ※シーニュって、要するに「単語」。それを〈記号(=単語)〉と学者業界で定義されているなら、〈記号〉には、〈①音〉と〈②意味〉がある、と。しかし、ある模試では「記号」という言葉を別の意味で使っていたような。ややこしい。そんなにきれいに統一されるものではないが。ま、そゆことだな。
p310
記号(シーニュ? いやシニフィエか?2023.5.5)は純粋な価値であり「心的なもの」である。記号は客観を写し取るものではなく、「言わんとすること」を示す表現。

p310より。
欲望が世界を解釈し、世界をつくる。
欲望は刻まれ、切れ端に記号(言葉)があたえられる。

■37『論理哲学論考』ヴィトゲンシュタイン(1889-1951)
語りえぬものについては、沈黙せねばならない。(『論理哲学論考』)
p314
ヴィトゲンシュタインの洞察は、「言語と世界は厳密に対応している」ということだ。※ソシュールとは違うのか。 p314 これまで哲学は、魂や神といったありもしない事柄について〈おしゃべり〉をしてきたが、それらはすべて哲学から取り去らなければならない。語りえないものについては、沈黙しなければならない。
p314
ヴィトゲンシュタインは、分析哲学(言語哲学)の第一人者。
分析哲学は、現象学ポストモダン思想に並ぶ、二〇における哲学の大潮流の一つ。認識や社会ではなく、言語に注目するのが特徴。フレーゲ、ラッセルにより創始。プラグマティズムと並び、英米における哲学の主流。

分析哲学の中心テーマは、「言語と世界はどのような関係か」。※つまらん。しかし言語が人間である。神はもはや完全に哲学から消えたか。それでは死に到る病に罹患する哲学者も多かろう。
p314
分析哲学の初期では、「言語を正しく(論理的に)使えば、世界は正しく記述できる」と考えられていた。しかし、「言語は世界を写し取るようなものではなく、使い方で意味を変えるものだ」という考え方が現れてきた。
ヴィトゲンシュタインは、その両方を一人で示した。カント(*1)とニーチェ(*2)の業績を一人でやったようなものだ。(*1)p176 カントは、合理論と経験論のいいとこ取りで対立調停し、より普遍的な認識論を。(*2)p247 ニーチェの認識論は、「認識とは主観が客観を写し取るようなものではなく、〈欲求に相関した価値解釈〉である」。

■38『哲学探究』ヴィトゲンシュタイン
p328
言語において人間は一致する。それは意見の一致ではなく、生活様式の一致である。『哲学探究』
*「これはペンです」と言われても、そもそもペンが何であるかを知らなければ、その意味を理解することはできない。では、どこからそれがペンであることを知ったのか。言語ゲームの営みからである、とヴィトゲンシュタインは考える。
p332
*慣習…相対主義の立場に立つポストモダン思想は、ヴィトゲンシュタインのゲーム論を次のように受けとった。
「〈意味〉は、言語ゲームで〈たまたま〉成立している慣習にすぎない」
〈意味(=真理の絶対的な根拠)〉は存在しない、とする相対主義にとって、言語ゲームはきわめて手頃な考え方。
p332
言語ゲームのあり方は私たちの生活様式(※慣習?)に依存しており、(※言語ゲームの?)規則もまた同じである。生活様式の共通性が、言語ゲームの規則の根拠である、と考える。
p334
人間のようにふるまうものについてのみ、ひとは、それが痛みを感じている、と言うことができる。『哲学探究』
※犬は? アンドロイドは?
p335
生活様式を共有しており、振る舞いの一致が見られるなら、理解が成立していると言えるはずだ。
しかし、言語ゲームの概念は諸刃の剣だ。
「言語が世界を写し取る」という考えを突き崩したという点では、ニーチェの認識論(p274 )と並ぶ意味を持つ。だが、ニーチェの「遠近法」が相対主義に受け取られるのと同様、言語ゲームもまた、こんなふうに相対主義に受け取られることがある。
「言語に真理はない。あるのは言語ゲームにおける〈たまたま〉の一致にすぎない」※先述のポストモダン思想。
p336
偶然の一致しか存在しないという(ポストモダン思想の)主張は、普遍性をめざす哲学を相対化してしまう。(※無効化?)
求めるべきは、相対化にあらがい「どのような条件が共通了解を可能とするのか」についてあきらかにすることだ。※どうすれば幸福になれるかを世界の全員が納得できる言葉で示すこと?
民主主義と修正資本主義、とか。

■39『存在と時間』実存哲学の最高峰 ハイデガー(1889-1976)
p338 ハイデガーは現象学を用いて人間(現存在*1)に迫る。(*1)現存在とは、人間は、そのつどの欲望や関心に規定され、世界(モノや他者)と関係を取りながら「いま・ここ」という〈現場〉を生きている存在である、という意味。(略)本書は未完。しかし本書の実存論は金字塔。〈近代社会の原理論〉がルソーとヘーゲルで頂点に達した。それと同じように、本書は、実存論としては不朽の業績である。※近代社会の原理論とは? 実存論としてなぜ不朽なのか?
p339
*世界…世界は、客観的な事物の集合体である以前に、その都度の関心や欲望(気遣い)に応じて「道具」が意味を現してくる実践的な〈現場〉である。こうした考え方は、ハイデガーが初めて。※わからん。
p340
世界は最初から客観的な意味をもつものとして存在しているわけではない。私の関心や欲望に相関して意味を現すような「道具」を通じて、自分の生き方を選択する可能性の場所である。(※イチローにとってのバットとか?)これは認識論としても実存論としても、きわめて画期的な考え方である。
※聖書という道具を通じて神を信じるという生き方を選択する。選択はできるが、神の存在はわからない、とか? あるいは民主主義と資本主義を信じて生きるが最上かどうかはわからないし、死後もわからない、とか? 行き当たりばったりじゃん。

20180621
ダー・ザイン(現存在)
あとなくさきなく
いみもなく
#廃句

■40『形而上学入門』ハイデガー

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