『力と交換様式』序論 p1 A互酬(贈与と返礼)、B服従と保護(略取と再分配)、C商品交換(貨幣と商品)、D[A]の高次元での回復 p6 ナチズムの勝利は(略)旧来のマルクス主義者が軽く見ていた、国家・ネーション・宗教など「政治的・観念的上部構造」に存する「力」に敗れたことを意味する。※ナチズム=宗教の一種で、例えばナショナリズム、か。貧乏にドイツ国民が耐えられなくて、キャピタリズムを超える選択肢として、ソーシャリズムとナショナリズムの二者択一になった。そしてナショナリズムが勝った。そんな話か。キャピタリズムとナショナリズムの親和性あるいは相関関係は? 同時登場ではなかったか。 p6 簡単に言うと、(フランクフルト派の哲学者は)政治的・観念的上部構造の相対的自律性を認め、さらにそれがいかなるものかを見ようとしたのである。※それ(政治・観念)を「神」「宗教」と表現するのか。 p6 そのとき、彼らは、それまでブルジョア的心理学として否定されていた、フロイトの精神分析を導入した。 p7 戦後、丸山眞男と吉本隆明(共同幻想)は、論法は異なるが、上部構造の相対的自律性を見ようとした。フランクフルト派と平行している。つまり彼らは、マルクスが『資本論』で見出した、経済的土台(交換様式)から生じる観念的な力(物神)に注目しなかった。※金から神が生まれる、と言っているのか。ならばごく普通の話になる。 p8 アルチュセールは、国家に関しても、それがたんに支配階級の暴力装置であるだけではなく、人々をそれに自発的に従うようにさせるイデオロギー装置でもあると考えた。※国や宗教からどうして力が生じるのか。現実(国・宗教)の不満(宇多田ヒカルのいうところの「どーにもならん」)に対して、人は妄想(現実にはないものを想像)する動物だから〈(反体制の)力が生まれる〉ならわかる。国・宗教という体制から生まれる力とは? 単なる国家権力や、教祖様~という力を言っているわけではないだろう。p15 《貨幣物神の謎は、商品物神の、目に見えるようになった、幻惑的な謎にすぎない》(資本論) マルクスはこれを、精神(霊)が自然的・直接的な形態から発展して自己実現するというヘーゲルの論理に忠実に従いつつ編成した。(略)『資本論』は、物神が自己実現するにいたる全過程を、ヘーゲル的論理に沿って書いたものだ。※物神の自己実現が現代社会すなわち資本主義社会か。物神とは? 目に見えないエネルギー? それは生命? オカルトだな。 p15 『資本論』で描かれるのは、物に憑いた得体の知れない霊が、産業資本として全社会を牛耳るにいたる過程である。マルクスは、それを宗教的倒錯として斥けるかわりに、それがどこからいかにして来るのかを唯物論的に明らかにしようとした。※オカルトではないのね。p29 A互酬(贈与と返礼)アフリカの氏族社会を形成するフェティシズム(神への攻撃)が基づく交換様式、B服従と保護(略取と再分配)国家を形成する偶像崇拝(フェティシズム2 神への屈服)が基づく交換様式、C商品交換(貨幣と商品)資本を形成する偶像崇拝(フェティシズム2 神への屈服)が基づく交換様式、D[A]の高次元での回復(『資本論』以後、マルクスは共産主義を「氏族社会の高次元での回復」とみる視点を示した。その交換様式) ※A=物神=この世の物質に神を見る(あの世の神への攻撃=あの世に神を見ない?)。B,C=偶像神=あの世(この世の物質以外)に神を見る。DがAの高次元での回復ということは、つまりD=物神=この世の物質に神を見る。てことか? ※序論(~p41)を読了。概略わかった気がする。やはり希代の知識人だな、と思う。交換様式Dの世界が来るのか、人が滅びるのか。いずれにしても〈永遠〉は、この本のどこにもない。 p31 マルクスに先立って、ホッブズが国家を論じたとき「リヴァイアサン」(怪獣)と名づけたものは「恐怖に強要された契約」すなわち交換様式Bから生じた霊である。(略)マルクス以後に、『贈与論』でマルセル・モースは、交換様式Aから生じた霊(ハウ)を見つけた。p32 ヴェーバー、デュルケーム、フロイトらは、史的唯物論だけでは、観念的な上部構造にある「力」を説明できないと批判した。彼らはその力は、個人とは異なる「社会」、あるいは意識とは異なる「無意識」から来ると考えた。彼らが「経済的下部構造から相対的に自律的な力」として見出すものは、実は「経済的下部構造」から来る。生産様式ではなく、交換様式から。マルクスは『資本論』でそれを明らかにした。すなわち、資本の物神性を明らかにした。それは、物質的に見え、そう理解されてきた市場経済が、観念的な「力」によって仕切られた場だということ。同じことが、共同体(交換様式A、氏族社会)や国家(交換様式B)にもいえるはず。『資本論』を〈導きの糸〉として、史的唯物論の公式では〈政治的・イデオロギー的上部構造〉として棚上げされてきた問題を解決できる。それらを経済的下部構造としての交換様式から見直すことによって。 p33 共産主義が交換様式Dなら、それは交換様式Aの〈高次元での回復〉。(略)晩年のマルクスは、共産主義を「古代氏族の〈自由・平等・友愛〉のより高度の形態における復活」として見るモーガン(『古代社会』)に共鳴した。 p35 私は交換様式Dに向き合うのは、本書が初めてだ。Dは厳密にいえば、交換様式というよりも、交換様式A,B,Cのいずれをも無化する力だ。重要なのは、Dが人間の意志や企画によって生じるものではない、むしろ、それに反してあらわれる、ということ。それは、観念的な力、いいかえれば、「神の力」としてあらわれるのだから。※いろいろ考えさせられるな。 p35 最後に「交通」の問題がある。p36 マルクスは人間と人間の間の「交通」と、人間と自然の間の「交通」を区別した。人間と人間の間の交通を「交換」に見ようとした。交換から生じて人を拘束する観念的な力、すなわち〈物神〉の活動・発展を考えた。「交換(人間と人間)」と「交通(人間と自然)」をマルクスは意識していた。前者からは観念的な力が発生するが、後者にはない。つまり、人間と自然の交通から生じる力は、純粋に物質的な力だ。p37 交換様式A(アニミズム)には、自然と人間の間に「交換(観念的・霊的な力)」が想定されている。それが消えるのは一八世紀以後、産業革命・産業資本主義の発展のもとにおいて。アニミズムは、交換様式Cの優越化とともに消えた。人間は資本の霊的な力に屈従するになった。(これとともに)マルクスは人間と自然の関係に、かつてない事態、いうなれば「交通」の消滅、すなわち、自然環境の破壊である。(略)p38 マルクスは、資本主義的生産が労働者を搾取するだけでなく、自然を搾取(開発)すること、つまり、人間と自然の間の「交通」を破壊してしまうことを指摘した。(略)p39 今日では、地球全体の環境が危なくなっている。太平洋の海底全域にプラスチックのゴミが堆積している。(略)p40 人間と自然の間の「交通」が完全に消えたのは、交換様式Cが支配的となった段階、すなわち、産業資本が石炭・石油などの化石燃料を使用するにいたった産業革命の後である。化石燃料とはまさに自然史の産物。人間と自然の交通関係を歴史的に刻印するもの。化石を燃料として使用するとき、まさに人間と自然の「交通」を燃やすことになる。自然はたんなる物的対象となった。人間が迷信(観念的・霊的な力)から自由になったからではない。カネ(資本物神)に従って〈考え、ふるまう〉ことが、〈理性的で科学的だ〉と見なされるようになったからだ。(略)過去にあった人間と自然の「交通」という観念は消えた。それは人間の生存をおびやかす現実の危機として戻ってきた。p41 交換様式C(資本主義)によって、それまで〈他者〉であった自然がたんなる物的対象と化した。カネ(交換様式Cの物神)は、人間と人間の関係だけでなく、人間と自然の関係も歪めてしまった。後者から生まれた問題が、人間と人間の関係をさらに歪める。すなわち、それは資本=ネーション=国家の間の対立をもたらす。つまり、戦争の危機が迫りつつある。