20220728『はじめての宗教論 左巻 ナショナリズムと神学』佐藤優

2010.12月著者あとがき p257 人間は社会的動物で、理屈抜きで助け合う。近代資本主義は合理計算による競争社会。p258 助け合いが非合理になり、人々は分断され、社会が弱くなり、国家も弱くなる。日本は、一〇年以上、新自由主義が進められ「まずい」と国民の意識が働いた。2009.8政権交代。しかし民主党も「社会と国を強くする方法」が分からない。危機である。この危機は何なのか。それを見極めるためには、「見えない世界」を考えることが不可欠だ。人間は、理性や経験の範囲を超えた「何か」を信じなくては生きていけない。(※何かの物語とも換言可)この「何か」をキリスト教神学者は神、哲学者は超越性と呼ぶ。合理主義の限界に気づき、超越性を回復すれば、社会と国は強くなれる。落とし穴は「国家と民族がセットになったナショナリズム=超越性」という勘違い。ナショナリズムは人間によって「つくられたもの」。超越性は人間によって「つくれないもの」。p259 キリスト教の神は、偶像(人間によって「つくられたもの」)崇拝を厳禁する。近現代の偶像がナショナリズムだ。ナショナリズムの起源。ナショナリズムは「敵のイメージ」が必要。中国の敵のイメージは、日本(※とアメリカ?)。ナショナリズムでは尖閣諸島問題を処理できない。ナショナリズムは宗教だと明らかにする。同時に宗教を批判する。この二つが絶対必要。日本人が「新自由主義の罠から脱出する」途中で、「ナショナリズムという別の罠にはまる」危険を避けるために。

序章 役立つキリスト教神学 p9 十八世紀に流行した啓蒙主義の結果、1789仏革命。啓蒙主義の限界が、1914第一次世界大戦勃発。長い十九世紀、啓蒙の時代。啓蒙主義の危機を、すでにシュライエルマッハー、カント、ヘーゲル、シェリングは感じ、その克服をしようとした。p11 シュライエルマッハーは、近代プロテスタンティズムを、啓蒙主義と併存させることに成功。p13 シュライエルマッハーは、晩年の著作『キリスト教信仰(1821)』で「宗教の本質は(直観と(1799))絶対依存の感情」と定義。(※親鸞の絶対他力?)結果、神は天ではなく、各人の心の中にいる。「見えない世界」にうまく隠した。ここから二つの危険性。一つは、心に神(絶対的存在)を認めることによる「人間の自己絶対化」の危険性。二つには、神を直観で察知するというロマン主義による「神がロマン主義に回収される」危険性。(※ロマン主義…ロマンチックの初出は17世紀中葉のイギリスであり、すこし後れてほぼ同時期にドイツ、フランスに入り、主として小説的で幻想的(※妄想、反知性)な印象を与える風物や芸術作品の形容詞に用いられていたが、やがて18世紀最末葉から19世紀初頭にかけて文学・芸術の革新が叫ばれるに及んで、伝統文化をよぶクラシックclassic(古典主義、理性)の対立語として定着するに至った。 Kotobank 抜粋) 近代はナショナリズムの時代。心の絶対者としてネイション(民族)が忍び込み、国家・民族のために命を捨てる構えができる。そして第一次世界大戦。これが前述の啓蒙主義の限界。シュライエルマッハーに代表される自由主義神学を終わらせたのも第一次世界大戦。各国の自由主義神学者たちは、自国の戦争政策を支持したから。その結果が大量殺戮。神学は無力さを露呈した。 p14 結果、カール・バルト(1886-1968)たちの弁証法神学(危機の神学)誕生。シュライエルマッハー批判。人の心理作用とは無関係の、〈超越した神〉の再確立運動。(※人の心理作用=親鸞の自力)バルト「神が語ることを聞け」「人は神を語れない。が、不可能でも、語らざるを得ない」「〈不可能の可能性〉が神学の課題」。p15 宗教そのものが、人間の願望(※心理作用。自力)を映した偶像崇拝。「神の圧倒的な啓示の力によって、宗教批判を徹底する」ことが、神学の課題に。(※神の圧倒的な啓示の力?)第一次世界大戦の教訓から「非宗教的なキリスト教」の確立が求められることに。弁証法神学は一枚岩ではなかった。バルトと並ぶフリードリヒ・ゴーガルテン(1887-1967)。人間の決断を重視。(※他力ではなく自力。人間の思考は似るんだな。)ドイツ民族を糾合できるアドルフ・ヒトラーに賭ける。ゴーガルテンはナチス神学をつくることに努力。 p25 シュライエルマッハー「宗教は〈形而上学〉と〈道徳〉とに対立する」。形而上学(メタフィジカ)とは「目に見えるものを超えた世界の学問」。純粋な三角形は形而下の世界(われわれの世界、現象界、フィジカ)では書けない。アリストテレスの考え方が神学に入ってきて形而上学が生まれた。キリスト教信仰はそもそも形而上学的発想がなかった。ギリシャと出会ってから、アリストテレスを使ってキリスト教を説明。 p27 形而上学的には神は「上」にいる。われわれは「月下界」にいる。p29 これは科学が発達した近代の世界観に合わない。ウソをつくような宗教はダメ。シュライエルマッハーは〈宗教の本質は、思惟でも行為でもなく、直観と感情である〉と、神の居場所を人間の心の中に定義し直した。※ここまでが「宗教は形而上学に対立する」か。ここからが「宗教は道徳に対立する」 p29 単純に考えると、道徳「一般に正しいとされている考え」で、倫理「自分がこうあるべきだという考え」。p30 道徳において、シュライエルマッハーはカントを念頭に。 ※先取りして書くと、キリスト教信仰は、アリストテレスではなく、カントでもない、か。

第二章 宗教はなぜナショナリズムとむすびつく?(歴史学者エリー・ケドゥーリー『ナショナリズム』に即して) p52 カネとナショナリズム~二つの主流宗教 p53 主流は宗教は、宗教としてではなく、慣習として意識される。現代はまず「拝金教」。カネ(貨幣)は、共同体と共同体の交換から生まれた。人間どうしの具体的関係が反映されたもの。その後、社会的関係の仲で、カネに購買力が備わると、この共同主観性がカネに強い価値を与えた。もう一つは「ナショナリズム」。国家と民族が一致するという発想。民族は二つ考え方がある。原初主義と道具主義。原初主義は、日本民族が2600年続いているとか、中国なら5000年続いているとか。これは、実証的な歴史学ではナンセンスとされる。民族は近代の現象で、せいぜい250年の伝統。仏革命以降世界に広まった。 p57  民族と国家の一致を是とする国民国家、ネーションステートの基本が、カレル大学のボヘミアのナチオから出てきた。(15世紀のフス派の反乱から。p56 ) p61 道具主義。エリートが目的のための道具としてナショナリズムを利用する。操作主義や構築主義と密接に関係。近代はナショナリズムが先行して国民国家ができる。出発点資本主義は、世俗語の本で大儲け。その本を読む人を中心とするグループができる。ベネディクト・アンダーソンはこれをナショナリズムの起源と考えた。p62 小説が読まれなくなるのはナショナリズムの解体にも通じる。(※SNSによる世俗語の話し言葉のグループもナショナリズムだとすれば、〈世俗語の消滅〉しか〈ナショナリズムの解体〉はありえないのでは? それは世俗語のない世界? 想像が困難。世界が単一言語になる、とか?)p62 前述のようにできた国家をアンダーソンは「主権的」と捉える。一方的に国民に〈徴税〉と〈徴兵〉を強制できること。徴税は国民の財産を強奪すること、徴兵は国民に「死ね」と要求すること。こんなこと時代は短い。かつては戦争は傭兵が実行。市民(※国民?)ではない人もたくさんいた。市民はそもそも特定の地域と結びついていなかった。パウロはユダヤに住んでいたが、ローマ市民。ローマの中にも市民でない人はたくさんいる。奴隷でない一もたくさんいる。そういう人たちに国家は「死ね」と命令できなかった。戦争は傭兵が実行していたから。(※現代の傭兵はAIになる?) p65 アンダーソンによれば、国民国家の建設(ネイション・ビルディング)には、「敵のイメージ」が不可欠。滴への抵抗によって「われわれ」は一丸となる。中国にとって日本。チェコ人にとってはドイツ、ポーランド人にとってはロシア、アイルランド人にとってはイギリス。中国の近代化が完結するまで続く。小泉政権下の靖国問題が沈静化したところで、尖閣問題(2010.9)が浮上。いくら譲歩して火種をなくしても、また別の問題が吹き出す。目を背けてはいけない。p66 日本の政治エリートは、ナショナリズムをめぐるアンダーソンらのようなアカデミズムの成果を応用して、現実を見て、実務に生かさなくてはならない。ナショナリズムは、人間が作り上げた国家という偶像崇拝を強制する、きわめて危険なもの。p74 ロマン主義者たちが死に取り付かれていることはよく知られている。(※なるほど) p75 ナショナリズムの理想は、生への拒絶と死への愛である。このケドゥーリーの指摘は問題の本質を衝いている。ここに、第一次大戦の大量殺戮が予見されていることは言うまでもない。(※なるほど)死へ向けてのこの過剰な煽りはどこから生じるのか。 

第三章 キリスト教神学①知の全体像をつかむ p105 霊と魂の違い(シュライエルマッハー『神学通論』) p96~98 ※バルトと愛人キルシュバーム~ヘーゲル~少し前のカントの逸話がなんともはや。 p117 第一次大戦後、神の問題を教義学的に考え直す必要が。そのとき天才カール・バルトが登場。p118 自由主義神学が崩壊して、はじめてバルトの天才に神学部の学者たちも気づいた。 p120 マルクスの考えだと、古典派経済学は基本的に正しい。労働価値説は基本的に正しい。経済学はリカードの経済学および課税の原理によって完成している。それを発展的に批判する、盲点を補足し高めていく、それが批判の仕事。批判は、否定的意見を述べることではなく、対象をよく吟味すること。

第四章 キリスト教神学②近代の内在論理(シュライエルマッハー『神学通論』)p142 ディルタイはシュライエルマッハーを読むことで、解釈を主導とする形での哲学(=解釈学)を提唱した。解釈は、ものごとを類型で見る発想でもある。世界史の哲学は実は類型的なものの見方。(※「世界史の哲学」? 世界史を哲学する学問?)いくつかの価値観が並存するからこそ解釈が主体になる。(※世界にいくつかの哲学があるのは、価値観がひとつではないから。だからこそ、解釈がとても大事だよってこと? 解釈って〈「A」が言っているのは「B」ということです。〉ってやつだよな。通訳? 正しく通訳しましょう?) p142 解釈者によって構成が異なる。だから、世界が一つの歴史になることでは全くない。それぞれの文化圏の解釈に基づいた複数の世界史が並存する。 p142 世界史という類型的考え方は日本の京都学派が提唱した日本独自のものと思っている人は、厳しく言うと、世界史の哲学について論じる教養の基本が欠けている。レベルが低く無知蒙昧な人は強弁ができるので、一見、強そうに見える。(※強烈。経験談かな。笑) 京都学派の世界史という類型的考え方は、哲学ではディルタイのエピゴーネン(コピー)であり、教会史で言うとゼーベルクの構成である。 p143 純粋な世界史は存在せず、各文化圏の世界史しかない。同様に、人類全体に共通する神学やキリスト教もない。 p144 弁証学(対異教)は、キリスト教以外の人に「キリスト教が正しい」ことを証明する。論争学(対異端)は、キリスト教内部のグループに「私のグループが正しい」ことを証明する。 p150 教権制度(ヒエラルキー)とは、ピラミッド、聖なる秩序。頂点はローマ教皇。他方、プロテスタントの頂点はキリスト。指摘はヤン・フス(14~15世紀)。だから私は、フスを、本質において〈プロテスタンティズムの祖〉と思う。

第五章 宗教と「戦争の世紀」(バルト『十九世紀のプロテスタント神学』)

第六章 神は悪に責任? 危機時代は倫理(ゴーガルテン『我は三一の神を信ず』)

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