20220708『真説日本左翼史1945-1960』

『真説日本左翼史』池上彰、佐藤優 2021.6.20

【序章 左翼史を学ぶ意味】▼議論の準備①左翼とは何か? p20 佐藤|左翼とリベラルは全然別の概念。本来はリベラル(自由主義者)といえば、むしろ左翼とは対立的概念。今は同じもののように考えられている。 池上|左翼と呼ばれることを嫌ったオールド左翼たちが、自らをリベラルと称するようになった。p21 佐藤|左翼は極めて近代的概念。何よりも理性を重視。 池上|理性で社会を人工的に改造(※革命)すれば理想的社会に近づけると信じた。 佐藤|そうです。だから〈平和〉重視は本来的には左翼と無関係。ソ連建国者レーニンは「現在の帝国主義戦争(一次大戦)を内乱に変えろ」と言ったくらい。左翼は人民武装支持。国家の横暴への対抗手段。p23 佐藤|右翼=保守派も、教育基本法を改正し、〈愛国心〉を憲法に書けば国民に愛国心が育つ、と言い始めている。しかし「国民の心情・精神を人工的に改造しよう」という発想は、もともと左翼の〈構築主義〉で、右翼=保守派はこんな発想はむしろ嫌う。 池上|日本の左翼と右翼のねじれの原因は? 佐藤|社会党(現社民党。1945結党。1990年代半ばまで最大野党)の影響大。 p24 佐藤|社会党の基本理念・社会民主主義(*)は資本主義体制の格差や貧困を解消する思想。理論家の清水慎三『日本の社会民主主義』で独自に、レーニンの武力革命拒絶、平和革命を目指す。絶対譲らなかった。(*)社会民主主義…暴力革命とプロレタリア独裁を否定。議会制民主主義によって社会主義を実現しようとする。多義的。日本社会党はプロレタリア独裁を肯定。(*)社会主義…生産手段(資本)を社会の共有(国のもの)とする。生産物や利益は、国が管理して分配する。私的所有はない。(*)共産主義…社会主義の次の段階。すべての利益をみんなで共有する。国が管理する制度自体もいらない。無政府主義に通じる。 ※以上、ネット情報(kotobank、hugkumなど)を編集。 p24 池上|そのこだわりは、戦争に疲れ切っていた戦後左翼の多数派の心情に合致。また一貫して核反対。 佐藤|重要です。本来、左翼は理性ある人間の手元なら技術はコントロールできると考える。核や原発自体に抵抗はない。 池上|2011福島原発事故の時も、一部の左翼セクト(小集団、分派)は「ブルジョア(資本家階級)東京電力が管理していたから爆発した。プレカリアート(非正規雇用と失業者階級)が管理すれば事故は起きない」と言った。※どういう論理? 佐藤|同じ理由で、冷戦時代の1963年、米英ソの三カ国が「部分的核実験禁止条約」に調印したとき、日本共産党は中国共産党と合わせて反対した。彼らの見方では、社会主義国の核は資本主義国への抑止力で「良い核」。1957.11ソ連で社会主義各国首脳会議のとき、毛沢東は「三次大戦は必然。核戦争で中国人が半分死んでも三億人は生き残る(当時約六億人)。恐れる必要はない」とまで言った。比べれば、日本社会党は「左翼らしくない」と言えるほど〈非核〉で一貫。p27 佐藤|平和・非武装を一貫して持ち続けたグループが左派の中でずっと多数派を占めていたことは、戦後の日本左翼史の重要なポイント。これを正確に誰かが伝えなければ、2022年に100周年を迎える日本共産党のバイアスがかかった歴史が左翼史として流通して定着するおそれがある。p28 池上|佐藤さんは高校二年から大学二年まで、日本社会党の青年組織「社青同(日本社会主義青年同盟)」の同盟員だったと明らかにしていますし、社会党の表も裏も知り尽くしています。社会党の役割を捉え直すのに適任。p29 佐藤|最も怖いのは、誰も左翼のことをよく知らないまま、左翼思想の時代が来て、また昔の左翼の誤りが同工異曲で繰り返されること。〈枝野革マル説〉にしても、問題は(立憲民主党)枝野氏が左翼かどうかではなく、左翼のことをよく知らない〈ノンポリ〉であること。ノンポリだからJR総連の献金の意味を考えずに受けてしまうし、共産党との選挙協力の誘いにも応じてしまう。 ▼議論の準備②共産党とは? 社会党とは? p30 池上|1922.7.15『萬朝報』の元記者で、日本で初めてマルクス・エンゲルスの「共産党宣言」翻訳の堺利彦ら8人の社会主義者が、日本でもロシア革命のような社会主義革命を起こすために共産党結成。数カ月後、社会主義革命推進国際組織「コミンテルン」加盟。私有財産制度否定、君主制(天皇制)廃止。戦後は合法政党、二七万人党員(2019)、衆院12、参院13議席。革命政党だと綱領。いまの日本に必要なのは社会主義革命ではなく、「異常な対米従属」「大企業・財界の支配」を壊して、真の独立を勝ち取り、民主主義革命。これを資本主義の枠内で行うことが当面の使命。p32 池上|1945.11 非共産党系の労働運動家や無産政党、つまり戦前の合法的社会主義政党の関係者が日本社会党を。※無産政党とはプロレタリア政党か? 池上|メンバーの考え方にバラツキ。左派は共産党とは違う方法論を志向、マルクス主義的な社会主義革命を目指すのは同じ。天皇制には否定的。対して、右派は反共的。※右派は保守派だからか。わかりにくいな。p41 (*)社会ファシズム論…コミンテルンは社会民主主義を「資本主義の手先」とし、「社会ファシズム」と批判した。1935年に「反ファシスト統一戦線」で解消された。 ※社会民主主義は、1848年のフランスの二月革命において誕生した言葉。多種多様な形態。 池上|ここまでが基礎知識。第一章は、敗戦後にGHQ統治下に置かれた日本。釈放された徳田球一や宮本謙治、中国から帰還した野坂参三。第二章は、占領統治下の日本で、なぜ左派が躍進したか。p42 佐藤|社会党が多くの国民に支持されていたことは、今では考えられないでしょう。共産党が再軍備を主張した時期があることも意外に思う人が多いかも。歴史を知り、理解することが大切。 池上|ですね。世界と絡めて日本を理解する「俯瞰の視点」が大切。第三章は、スターリン死去が左派に与えた事件、1950年代。 佐藤|左派は歴史的に離合集散を繰り返す。第四章で、60年安保を背景に、なぜ「新左翼」が台頭したか。

【第二章 左派の躍進】p120 池上|コミンフォルムの成り立ち。二次大戦後の国際共産主義運動の拠点組織。源流は、1864マルクス、エンゲルスらがロンドンで設立した「第1インターナショナル(通称)」。中心人物バクーニンがマルクスと思想的にぶつかって分裂、1876解散。※西南戦争の頃。 マルクスの死を経て1889「第2インターナショナル」ドイツの社民党らが結成。一次大戦長期化により崩壊。当時スイスに亡命していたレーニンらが分派して、大戦後の1919「第3インターナショナル」結成。ロシアの社会主義革命を世界輸出をしようとした。別名「コミンテルン」。 p121 佐藤|スターリンはドイツ戦を理由に1941コミンテルンを事実上停止、1943解散させた。 p122 池上|レーニンの死後、スターリン指導のコミンテルンに対抗して、1938レフ・トロツキーの「第4インターナショナル」結成。トロツキーはロシア革命を成功させた指導者のひとりだったが、1920年代にスターリンとの権力闘争に敗れて共産党を除名されメキシコ亡命、スターリンの刺客によって1940暗殺。 佐藤|二次大戦後につくられた国際共産主義運動の拠点組織がコミンフォルム。(略)1956ソ連共産党第20回大会でコミンフォルム廃止。その後、各国共産党の連絡はプラハの『平和と社会主義の諸問題』誌編集部。 池上|世界各国の共産化を主導しているのはコミンフォルムだと、ソ連は建て前を維持。二重構造。 佐藤|今の共産党も得意。野党と連合政権を組んだら天皇制に賛成するとウェブサイトに追加記述。二重構造。 p140 池上|この章では、共産党の50年分裂まで。※所感派の徳田球一、野坂参三。国際派の宮本顕治(殺人者)。 共産党が占領軍内部の路線対立やソ連(コミンフォルム)に振り回され、暴発を余儀なくされた。左派の思考の原点が、占領統治下の日本で育った。 【第三章 社会党の拡大・分裂と「スターリン批判」の衝撃1951-1959】p159 池上|日本の労働組合は三層構造。ピラミッドの下から、企業別組合、産業別組合、ナショナルセンター。現在は「連合」が最大のナショナルセンター。 【第四章 新左翼の誕生】p189 佐藤|1960の日米安保条約改定で岸が目指していたのは、むしろ日本の対米自立でした。 池上|そう。1952年に締結された旧日米安保条約では、条約に基づいて米軍が日本に駐留することを認める一方でアメリカが日本を守る義務を規定していなかった。だから日本が攻撃されてもアメリカは日本を守る義務は負っていなかった。また驚くべきことに、日本で暴動が起きて、日本政府が押さえ込めなければ、米軍が出動できた。だから岸は、米軍駐留の代わりに日本が攻撃されたら米国が守る義務があることを認めさせた。日本国内暴動を米軍が鎮圧・弾圧する規定も除外させた。 ※いいじゃん、岸。米追放&自立武装、または、岸の策しかないだろ。 (略)p195 佐藤|だから、社会党という大きな傘の下に様々な新左翼セクトがあつまることがなければ、実は安保も盛り上がらなかった。新左翼はある意味で、社会党という傅育器の中で庇護され、育てられた。その意味では、自社体制だけではなくて、新左翼や共産党(55年の六全協)の体制も定まった。つまり1955,1956の二年間で、その後の日本の政治・思想の方向性が定まった。 佐藤|社会党はもともと社会民主主義を掲げる政党。中核は社会主義協会という、党の理論構築を担っていたグループ。労農派。山川均、向坂逸郎、大内兵衛など知識人。(略)民主党政権で財務副大臣の峰崎直樹(略)※このあたり面白い。〈職業革命家〉とか〈労働者が最も正しい生き方〉とか。 p196 佐藤|社会党はど真ん中に社会主義協会があって、その左に新左翼という不思議な政党に。※何が不思議? p197 池上|社会党が戦闘的になったのを好機と見て、反スターリン主義を掲げる新左翼セクトの第4インターナショナルが〈加入戦術〉で社会党に入ってきた。一方で、社会党がもともと擁していた〈社青同〉が労働者と学生混在だったので、学生のみの「学生班協議会」という新組織。これが急激に左傾化。特にローザ・ルクセンブルクに依拠して〈社青同解放派〉というセクト立ち上げ。 佐藤|若い人は「ふーん」でしょうけど、当時は大変なこと。だってレーニン否定ってことだから。(略)ローザ・ルクセンブルクはロシア革命も本当の革命ではないと批判していた。だから左翼がみんな、「マルクス・レーニン主義」を名乗っていた時代に、社青同解放派が「我々は共産主義者であってもレーニン主義者じゃない。レーニンはむしろ人民を抑圧する体制をつくった」と言い出したことはものすごいインパクトがあった。でも国際標準だとヨーロッパ左翼にけっこう多い。日本でも、最近話題の『人新世の「資本論」』を書いた若手哲学者の斎藤幸平さん。基本的にヨーロッパ・マルクス主義の流れを汲んだもの。かなり社青同解放派の主張に近い。鉄の規律による前衛党を否定して、感情に基づき一人ひとりが疎外された状況に反発し行動するという発想。p108 池上|解放派が飛び出した後の社青同では、社青同協会派が主流派として残る。それも1967年には向坂派と太田派に分裂。太田派を率いたのが、総評の議長太田薫。総評議長在任中に〈春闘〉という闘争方式を日本に定着させた。春闘も死語になりつつあるので説明。春先に大企業各社の労組が賃上げ等を一斉に会社と交渉する。 佐藤|太田の名言「クソがついていても千円札は千円札」。 池上|どんな手段でも結果的に労働者の給料が上がるなら交渉過程なんてどうでもいい。p200 佐藤|向坂派からは忌み嫌われたが、個人的には嫌いではなかった。現場感覚のある冴えた表現。 池上|太田薫は1979東京都知事選挙に美濃部亮吉の後継候補で落選。 佐藤|その頃の社会主義協会向坂派は真面目に選挙応援しなかったんでしょうね…。当初は少数派の向坂派が何人か国会議員までも出すようになると、太田派は関西圏の限られた勢力に転落。※釜炊き論。ひたすら理論の下支え。釜を炊き続けてお湯の温度を保つ。※太田派は自ら革命の担い手になるべきと主張。キーワードは〈主体〉〈変革〉。機関誌「人民の力」 p201 佐藤|太田派は長続きしなかった。対して向坂派は社会党の階級的強化(※なに?)を唱え、共産党に対抗。p202 佐藤|日本共産党は1974『社会主義協会向坂派批判』分厚い本。「向坂派は反共主義勢力。けしからん」 池上|理論闘争で劣勢だったことに対する危機感。 佐藤|その頃はまだ、共産党の学習指導文献一覧に『共産党宣言』が入っていなかった時代。共産党員が理論の論争をしても、社会主義協会の人たちに全然勝てなかった。当時の共産党は『学生党員の活動の手引』冊子。「話すときは丁寧語」「毎日歯磨き」生活指導マニュアル。対して社青同は「学習指定文献」で同盟員が読むべき本を指定。とにかく多かった。『資本論』『共産党宣言』『空想から科学へ』『賃金、価格および利潤』マルクス、エンゲルス、レーニンの基本文献はすべて読めと。読むための解説書も多い。労働大学新書から。 池上|労働大学は、社会主義協会が運営していた労働者教育を行うための部署。出版も。 佐藤|社青同は班会議が最低週一回、課題図書を読んでいないと討論についていけない。社青同は簡単には入れてくれない。共産党系の民青はその日のうちに入れる。体質はだいぶ違った。 p204 向坂逸郎の「革命家的」リアリズム まず日本で議会で多数派によって政権掌握、そしてソ連に後ろ盾になってもらえば平和革命は可能。そういうリアリズムが根底にある。 ※外患誘致罪か。なるほど。p205 佐藤|あれほど平和革命を強調していた社会党の浅沼稲次郎が暗殺までされなければいけなかったのだって(※誰が? 共産党? 自民党右派?)結局はやはり本気で革命を考えていたからですよ。私はソ連が崩壊した後に、社会主義協会や、社会党左派が全国でマルクス主義などの講座をしていた労働大学などとソ連共産党との関係を、自分自身のルーツ探しという意味もあって調べた。カネの流れに関する資料が出てくること出てくること。社会主義協会がハバロフスクで労働大学を開講した際の費用などもみんなソ連が出していたんです。だから受講料があんなに安かった。「社会新報」などの機関紙を発行するための紙までソ連が送っていたことを知りました。 池上|表向きは日ソ貿易の体裁。 佐藤|そう。このあたりは拓殖大学の名越健郎教授が中公新書『クレムリン秘密文書はカタルーニャ 闇の日ソ関係史』。p206 佐藤|社会党の平和革命論は、不破哲三「ソ連に依存。主体性なし」と批判されたが、向坂逸郎に言わせれば「それのどこが悪い」でしょう。向坂は日本はいずれ軍隊を持つべきと考えていた。社会主義革命をともに推進する同盟国となるはずのソ連を守り、アメリカ帝国主義と戦うための軍隊を。だから社会党の非武装中立は、あくまで条件付きの非武装中立。それがあまり理解されていない。(略)一九七〇年代中盤以降の社会党と共産党を活動家レベルで比べれば、社会党の方が左だというのは常識でしたよね? 池上|そうでしたね。だから社会党左派は、共産党よりはむしろ新左翼に体質が近い。 佐藤|向坂や新左翼はやることが極端。でも革命を突き詰めると最終的には極端なこと、突飛なことをやらざるをえない。p208 佐藤|面白いのは、新左翼の代表的論客で、革マル派最高指導者の黒田寛一は決してそういうタイプではない。 池上|頭が良く毛並みもよかったが(略)病気や視力の極端な衰えでキャリアを断念せざるを得なかった。 佐藤|黒田の思想は、自分を疎外から救い出すためには自分を変革、つまりインテリの殻から抜け出してプロレタリア的な人間、完全なる労働者に生まれ変わらなければいけないと考えた。共産主義社会をつくるために。これ似てますよね? 池上|創価学会とおなじですね。 佐藤|違いは、革マル派は殺人も許されるロジックができてしまう。その点、仏教徒である創価学会員は殺人を肯定しない。 池上|さて、同じ団体から分派して新左翼の二大党派となった「中核派」「革マル派」は、「内ゲバ」激化。 佐藤|内ゲバが殺人に発展したのが1970年「海老原事件」革マル派海老原俊夫(※佐藤優氏の先輩)が池袋駅で中核派に暴行を受け、そのまま法政大学に拉致されリンチされて死んだ。革マル派の暴力論はこのとき生まれた。(略)革命のために必要な殺人は肯定される。 池上|目的が正しければ手段は浄化される? 佐藤|革命を、マルクス理論の基礎にあるヘーゲル理論の弁証法で捉えると、革命実現過程での暴力行使は不可避とも言えるから。「平和な世界をつくりたい(テーゼ)」「支配階級による抑圧を受ける(アンチテーゼ)」ここで支配階級を除去すれば、「真の平和(ジンテーゼ)」という総合命題に辿り着ける。アンチテーゼを乗り越えるための暴力が暫定的に肯定される、という理論構成。p212 池上|右翼も過激化。1982年に「スパイ粛清事件」。右も左も行き着く最後は同じ。 p213 池上|社会党は、地道な活動(選挙実働部隊、労組組織など)は社会主義協会がやり、国会議員になるのは総評に加盟する労組で長年役員を勤めていたような人。彼らの「あがり」ポスト。(略)p214 二重構造。社会党の議員は温和なお父さん、秘書は社会主義協会の超インテリ。これだと議員の言動に裏表が出る。だから国会でも、自民党と社会党の国会対策委員が裏取引したり。ボス交体質。やがてぬるま湯体質に。最初は平和革命実現のため、国会の過半数の議席を目指した。無理なので改憲阻止のため三分の一の議席確保の党。護憲政党の地位に安住。p216 自民党も最初は三分の二を獲って憲法改正。それから過半数獲って政権維持でいいや。 佐藤|状況を本気で変えようとした政党は、公明党と共産党。六全協(1955)の頃から党を主導した宮本顕治は卓越。p217 ソ連べったりから中国べったり、やがて独自の道を。過程で時にはナショナリズムを煽りつつも、平和革命と暴力革命はどちらも放棄しない。敵の出方しだいで使い分けるというロジック。先行の議会政治に足場確保。1975年に「創共協定」。互いに敵視しない。宮本顕治は池田大作と対談。p218 池田は、宮本が12年間の獄中生活を耐えたことを自分の師匠戸田城聖との体験談と重ねつつ讃え、「もし戸田城聖との出会いがなければ(略)社会主義運動に入っていたかもしれない」 池上|初代会長牧口常三郎と二代戸田城聖は戦前、国家神道に帰依することを拒否して治安維持法および不敬罪で逮捕。牧口は、宮本が巣鴨に囚われていた時期に同じ場所で獄中死。 佐藤|宮本も好意的。(略)トップ同士の対話を、今ではお互いに封印。 p222 池上|1993.7のちに新生党をつくる小沢一郎グループが自民党離党で非自民政権。(※1993~94年細川内閣)ここで小沢と折り合いが悪かった社会党は政権離脱。1994.6「小沢憎し」で自民党と連立。国民は仰天。社会党は自衛隊は憲法九条違反と言えなくなった。総理村山富市は自衛隊の最高司令官でもあるのだから。社会党はガタガタに。p223 池上|社会党退潮要因に労働運動の退潮も。象徴は中曽根政権(1982~87)が国鉄民営化の際にやった国労つぶし。佐藤|ただ国労も、潰されても仕方ないことをやっていた。何度もストを打ち、スト解除の見返りとして経営側に「現場協議制度」導入を認めさせ、会社単位でなく駅単位、保線区単位で労働条件に関する細かい協定を結んでよいという仕組みをつくった。これで国鉄はものすごく混乱した。「さぼればさぼるほど革命に近づく」などとうそぶいてサボタージュを煽るダラ幹(堕落した幹部)までいました。総評に加盟する他の組合に対しては立派なことを言いながら、自分たちがそれではね。※総評…日本労働組合総評議会。かつて存在した日本における労働組合のナショナルセンター。1950年に設立。1989年11月解散。1987年に発足した全日本民間労働組合連合会(全民労連。後の日本労働組合総連合会(連合))に合流するため、1989年11月に解散した。※労働組合の歴史を何も知らない。勉強せねば。

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