20220615『対決!日本史 戦国から鎖国篇』

『対決!日本史 戦国から鎖国篇』p67 スコセッシ監督の「沈黙(2017)」は1633年ごろの日本が舞台で、ドイツの宗教戦争「30年戦争(1618-48)」の最中。ドイツでプロテスタント絶滅政策を進めていたカトリックが、日本で同じことを考えていないはずがない。異教徒絶滅。スコセッシ監督はカトリックで、今のローマ教皇はイエズス会。カトリック戦略映画。p70 カトリックは世界中でレコンキスタをやろうとして、イエズス会の世界布教が乗っかっていて、その裏には、帝国主義と植民地獲得の欲望。※手段として資本主義による貿易。佐藤|キリスト教の布教で常に問題になるのは帝国主義化。線引きは。第二次大戦後に本格的議論。p154 安部|信長の安土政権と足利義昭の鞆の浦政権は勢力拮抗。信長は(※明攻略に利用されることを見抜いて)イエズス会とスペインを手放したから不利。明智光秀はこのまま信長についていっていいのかと考えた。(略)p157 本能寺の変の1582.6の理由は、信長が上洛して将軍になったら、足利義昭の大義名分を失うから。義昭はその前に信長を殺すしかない。(略)本能寺の変では毛利氏が一番得した。『徳川実紀(徳川幕府公式記録)』に、秀吉が安国寺恵瓊と交渉時、信長が討たれたことを話したと記されている。秀吉は毛利と同盟。足利義昭から秀吉に鞍替え。最大の理由は、イエズス会とスペインが秀吉の後ろについていたから。キリシタン大名黒田官兵衛による計略。p158 佐藤|うまいことやりました。現在も健在。安部|毛利家の長州藩を地盤とする首相が何人も。p165 佐藤|カトリックは、プロテスタントから押されたので、イエズス会を結成しトリエントの公会議(1545-63)を開き、力を取り戻した。安部|プロテスタントの否定、ローマ教皇の絶対的正義、免罪符の有効、宗教裁判の継続など決議。p166 佐藤|結果、日本では既存の仏教や神社を否定し、戦闘的に宣教。これが秀吉の「バテレン追放令」に。p169 安部|アウグスティヌス(354-430)は正戦論の創始者。11世紀にスコラ神学と正戦論が結びつく「自衛戦争も、不正を罰する攻撃戦争もやってよい」。これは、13世紀、キリスト教とアリストテレス哲学を融合してスコラ神学を完成させたトマス・アクィナスにつながる。さらに、16世紀から17世紀初頭のスペインイエズス会神学者フランシスコ・スアレスに。新スコラ学派を創設、国際法を学問体系として構成。佐藤|スアレスの理論で、軍隊そのものであるイエズス会は後ろめたさなく戦争をし、征服を正当化した。p176 天正14(1586)イエズス会日本布教担当ガスパール・コエリョ(ポルトガル宣教師)が大坂城を訪ねたとき、秀吉「明国に出兵し、キリスト教化する。ガレオン船のような大型船(通称ナウ船)を二隻売ってくれ」コエリョ「斡旋しましょう」。ところが1587年の九州征伐で、長崎が教会領となり、キリスト教徒の結束が固いことに秀吉は危機感。そこにポルトガル海軍の司令官は秀吉の軍艦調達に反対「オレたちを攻めてくるかも」の話。そこで秀吉「約束が違う。20日以内に宣教師を国外退去(バテレン追放令)」。

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