20220615『国家の罠』

『国家の罠』佐藤優 2005.3.25発行 ※2002.9.17から始まる。小泉訪朝だ。国民的人気を飛躍させるために外交的効果を狙った、と書かれている。結局、そんなものなのか。拉致被害者全員の救済など100%の優先度では考えていなかったのかな。でも、まあ、しょえがねえのかな、と…どっかでは思っている。この日、佐藤優氏は独房暮らし127日目。p13からモスクワ時代の回想になる。1991.8.19、ソ連共産党守旧派によるクーデター。やはり面白い。 p13 ソ連国営タス通信が「ゴルバチョフ大統領が病気のため執務不能になり、ヤナーエフ副大統領が大統領代行に就任した」と発表した。ソ連共産党守旧派によるクーデターの勃発だ。全世界の関心がゴルバチョフの生死に集まった。当時、ソ連の政界は、中道改革のゴルバチョフ派、クーデターを起こした共産党守旧派、急進民主改革のエリツィン派に分かれていた。p14 守旧派の牙城はロシア共産党ナンバー・ツーのイリイン中央委員会第二書記(ソ連共産党中央委員兼ソ連最高会議議員)。(略)ソ連共産党幹部にゴルバチョフ派が多かったのに対し、ロシア共産党幹部はより保守的だが、マルクス・レーニン主義がイデオロギー的有効性を失っていることを深く自覚していた。イリイン第二書記やジュガーノフ(イデオロギー担当書記。現ロシア共産党議長)、ソコロフ(農業担当書記)は、「ロシア正教の遺産を再評価することで、共産主義イデオロギーを再活性化できるのではないか」と考えていた。しかし、宗教や神学について、簡潔に説明できる専門家が共産党関係者にいない。※それがきっかけで佐藤優氏はロシア共産党幹部に「お茶を飲みに来い」と誘われるようになった。p16 イリイン第二書記があるときこう言った。「あの戦争で神風攻撃をしたのは日本人とロシア人だけだものな。スターリングラードでロシア人も地雷を背負って戦車に突っ込んだんだよ。(略)僕たちロシア人は原理原則を譲らない外国人を尊敬する。ただし日本政府の発言要領を繰り返すだけではダメだ。自分の頭で徹底的に考えて、ロシア人の心に訴えることばを見つけるんだ(略)」p21 ※クーデター翌日の91.8.20佐藤優氏はイリインに直接会えた。 「イリイン先生、端的にお聞きします。これはクーデターなんですか」「違う。これはクーデターではない。今日(91.8.20)署名する予定になっていた連邦条約のことは君も知っているだろう」ソ連では、バルト諸国が独立傾向を急速に強める中で、連邦構成共和国の主権を強くする新連邦条約を二十日(※佐藤優と話している当日)に調印する予定にしていた。調印されると、ソ連は「ソビエト社会主義共和国連邦」ではなく、「ソビエト主権共和国連邦」になり、国名から「社会主義」が外される。「ペレストロイカを進めるのは、社会主義国ソ連を強化するためで、それを解体するためではない。この連邦条約が調印されれば、ソ連はソ連でなくなる。ゴルバチョフ抜きでペレストロイカを推進する。だからこれはペレストロイカ政策の継続であり、クーデターではない」※そういうことか。 p23 「サトウさん、この書類(「ソ連国民に対する呼びかけ」)を見てごらん。明日の『ソビエツカヤ・ロシア』紙(ロシア共産党中央委員会機関紙)にこの声明文が掲載されればわれわれは勝利する」「必ず掲載されるでしょう。僕はあなたたちをお祝いしたらよいのだろうか」「いや、状況はそう単純じゃない。いわゆる民主派の策動を許してしまった。これはわれわれが勝つか奴らが勝つかという次元ではなく、ソ連邦が生き残るかどうかという死活的問題なんだ。民主派の策動を許してしまったので、どうなるかわからない。サトウさん、明日の『ソビエツカヤ・ロシア』を見れば状況を正格に予測できる」 ※民主派ってのは、エリツィンのことか? (略)結論から言うと、翌朝の『ソビエツカヤ・ロシア』にこの声明は掲載されなかった。クーデター未遂事件は三日間で終わった。勝利を宣言したエリツィン・ロシア共和国大統領はロシア共産党とロシア領内におけるソ連共産党の活動を禁止した。※共産主義の理念が死んだわけではないようだ。近年また〈コモンズ〉という言葉が広がり始めているから。 p25 当初、ゴルバチョフ派だったクプツォフ第一書記は、守旧派陣営に加わった。クプツォフ「ゴルバチョフはソ連の理念に殉じるべきだった。エリツィンなんかに擦り寄らないでね。僕は確かにゴルバチョフとペレストロイカに賭けた。それでソ連が真の社会主義国になると思ったからだ。そもそもあいつ(ゴルバチョフ)は社会主義を信じていなかったんだよ。そういう奴がソ連共産党のトップになった。そして国が崩壊した。ロシア共産党には、時代錯誤があるよ。それでも、〈人間の平等と尊厳を求める〉共産主義の理念を掲げ続けることには意味があると僕は考える。僕は共産主義の理念とロシア国家に残りの人生を捧げることにしたんだ」クプツォフ氏、イリイン氏、ジュガーノフ氏たちは、エリツィン氏に対して「命乞い」はしなかった。しかし自分の部下たちについては、頭を下げて、再就職運動を行った。エリツィン政権の幹部たちも旧共産党幹部の高潔さには一目置き、これらの人々の大多数はロシアの政府機関や議会に再就職した。p26 クプツォフ氏、ジュガーノフ氏は政治活動を続けた。レオーノフ補佐官は銀行幹部になり、ビジネスマンとして再出発した。共産党幹部からビジネスに進出し、大金持ちになった人も少なくない。しかし、イリイン氏は政治活動からも距離を置き、ビジネスにも転出せず、世の中との交わりを避けるようになった。(略)1998年初夏、ロシアから知り合いの共産党幹部が訪日した際にイリイン氏が前年に死んだと教えられた。「最後の二年は、アル中患者専用病院の入退院を繰り返していたよ。家族も見放していた。ある日の夕方、ウオトカをたくさん飲んで、その後、敷地で車を乗り回していた。家族は『また酔っぱらっている』と放って、そのまま寝てしまった。翌朝、奧さんが庭に出てみると夫が車の中に死んでいた。心臓麻痺だった。モラルの高い男だったので、自分が崩れていく姿を共産党時代の同僚には見せたくなかったんだと思う。それだからみんなとの交遊を断っていたんだよ。共産党第二書記時代、サトウさんについては、『ああいう人材が党のイデオロギー部にいれば有り難いんだけど』といつも冗談半分に言って、あなたと会うことを楽しみにしていたよ」p27 独房のラジオからは日朝首脳会談のニュース。それからイリイン氏を偲びながら、私は自身に言い聞かせた「人間はまず内側から崩れる。決して自暴自棄になってはいけない。常に冷静さを失わないことだ。この独房が人生の終着駅ではない。最も重要なのは自分との闘いだ」。p30 ※逮捕の前触れ 2002.5.13、東京・港区麻布台にある外交史料館で書類に目を通していると、本省人事課の大菅岳司首席事務官(外務省では課長の次のポスト)からなれなれしい電話。(略)p32 逮捕が既定方針になっていると見た方がよい。(略)今振り返ってみると、東京地方検察庁特捜部は、この時点ではすでに国際機関である「支援委員会」絡みの背任容疑で私を逮捕し、そこから鈴木宗男氏につなげる事件を〈作る〉という絵図を描いていたに違いない。p33 「支援委員会」について説明しておく。1991.12にソ連は崩壊し、旧ソ連邦構成共和国は全て独立した。これら諸国にとって社会主義的計画経済から市場経済に向けての構造転換が最重要課題に。支援委員会は、バルト三国を除く旧ソ連邦構成共和国(独立国家共同体[CIS]加盟諸国)十二カ国の改革を支援するために93.1に作られた国際機関。同委員会は2003.4.18に廃止された。通常、国際機関は各国から拠出金を募り、国際機関が独自の判断で事業決定するが、支援委員会に関しては、資金を供与するのは日本政府だけで、しかも日本政府が決定した事業を支援委員会が執行するというきわめて変則的な国際機関だった。モスクワの日本大使と外務本省のロシア支援室長が日本政府代表だが、その他諸国政府の代表は空席という状態が続いていた。支援委員会の活動で特筆すべきは、北方領土関連業務。北方四島は日本領なので、厳密に言えばロシアに対する支援ではないが、四島住民への人道支援も支援委員会の重要な任務のひとつとなっていた。では、何を検察は問題視したか。彼らが目をつけたのは、外務省が改革促進事業の一環として、2000.1にロシア問題の国際的権威であるゴロデツキー・テルアビブ大学教授夫妻を訪日招待したことを端緒とした有識者の国際的な学術交流だった。(略)これら二つの事業が支援委員会設置協定に違反し、総計三千三百万円の損害を支援委員会に与えたので、この事業で主導的役割を果たした私を背任罪として刑事責任を追及する、というのが検察の論理だった。東郷和彦元大使にも危険が迫っている。携帯電話で東郷夫人に連絡。p35「(略)僕は入口で、敵のターゲットは東郷さんと鈴木さんなので、(略)この事件のケリがつかないうちは日本に帰ってきてはならないという私の見立てを伝えて下さい。(略)これは政治事件なので、検察はどんな無理でもします」p36 ※ここで東郷和彦氏、前島補佐、佐藤優氏のプロフィール。 p36 私たち三人は、94年から95年にモスクワの日本大使館に勤務するという共通の経験をもっていた。東郷氏は特命全権公使、私と前島氏は政務担当の二等書記官だった。(略)95.4、7年8カ月のモスクワ勤務を終え東京に戻った私は、外務本省国際情報局分析第一課に配属された。それから二カ月ほどして、前島氏が分析第一課の総務班長に就任した。(略)96年秋、東郷氏が欧亜局審議官(局長に次ぐポスト)に就き、対露外交の司令塔としての機能を。97.7、経済同友会における演説で橋本龍太郎総理が日露関係を「信頼」「相互利益」「長期的な視点」の三原則によって改善すべきという「東からのユーラシア外交ドクトリン」を提示するが、これは東郷審議官が起案した。これを契機に(略)東郷審議官、前島補佐、私は同じ対露外交戦略で結びついた盟友になった。p37 ※2002.5.13 勤務終了し、外に出ると三十人以上の記者が待ちかまえていた。(略)p38 不思議なことだが、この記者たちとは親しくなった。私が東京拘置所独房に512日間勾留されている間にもしばしば差し入れをしてくれ(略)今でも親しく付き合い(略)。話を戻すと、記者たちとおでん屋に行って酒盛りをした。※オモシロいね。佐藤さん。笑 ※「刑務所」は、「刑事裁判において自由刑(受刑者の身体を拘束することで自由を奪うもの)に処せられた者を収容する刑事施設」。刑事裁判が確定していることが前提。 他方、「拘置所」は、「まだ裁判が確定していない被告人や、死刑判決が言い渡されて、死刑の執行を待つ受刑者」を収容する場所。p41 鈴木氏が「俺や周囲のことはどうでもいいから、自分のことだけを考えてくれよ(略)」「(略)ただ、鈴木大臣を外務省が日露平和条約に巻き込まなければよかったのに。申し訳なく思っています」※いい話じゃん。信じたいねえ。  p48 小泉内閣(2001.4.26)生みの母(※田中眞紀子)p50当初、鈴木氏は田中女史と対決する気持ちを全くもっていなかった。※このあたりオモシロいが面倒なので記録はしない。 p52 日露関係の経緯。45.8 ソ連は当時有効だった日ソ中立条約を侵犯して、日本に戦争を仕掛けてきた。51年、米英などほとんどの国とはサンフランシスコ平和条約で戦争状態は終結。 〈1〉56年、日ソ共同宣言(鳩山一郎首相、ブルガーニン首相らが署名)で、戦争状態は終結し、外交関係は再開したが、領土問題が解決されないので平和条約は結ばれなかった。日ソ共同宣言で、ソ連は平和条約締結後に歯舞群島と色丹島を日本に引き渡すことを約束した。しかし60年にソ連政府は、日本からの全外国軍隊(米軍)撤退という追加条件を付け、この約束を一方的に反故にした。共同宣言という名前ではあるが、これは両国国会で批准された国際条約で、法的拘束力をもつ。〈2〉93年の東京宣言(細川護熙首相、エリツィン大統領が署名)で、北方四島の名前を列挙し、四島の帰属の問題を解決して、平和条約を締結すると約束している。〈3〉2001年のイルクーツク声明(森喜朗首相、プーチン大統領が署名)で、56年の日ソ共同宣言を「平和条約締結に関する交渉プロセスの出発点を設定した基本的な法的文書であることを確認」し、同時に東京宣言の内容も確認している。(略)73年の田中・ブレジネフ会談では、日ソ共同声明(同年十月十日)、(略)外交の世界では、双方が合意した上で文書に記録したこと以外は「言った、言わない」の水掛け論になった場合、解決は不可能である。田中・ブレジネフ会談以降、日ソ(露)関係は冷え込み、十八年後のゴルバチョフ大統領の訪日まで首脳会談は実現しなかった。冷戦時代の象徴である「田中・ブレジネフ会談」を田中女史が今後の日露関係の基礎にすると述べたことをロシア側が小泉新政権の対露外交の根本的変化と受け止めた。それには以上のような根拠がある。(略)p64 ※このあたり時系列に並べると…。 98夏、小渕政権下で官邸特命で活動開始。99.4省内決裁で正式発足「ロシア情報収集・分析チーム」。チームリーダー佐藤優。2000年までに日露平和条約の締結を目指す。(略)p68 2000秋以降、対露関係で、官邸絡みのいくつかの重要案件に関する指示が小寺ロシア課長を迂回して、東郷欧州局長から直接なされるようになった。私は東郷氏に対して「このままだと、ただでさえ複雑な私のチームとロシア課の関係がいっそう複雑になります。その点について配慮して下さい」と要求した。これに対して東郷氏は、「ロシア課にはあなたを慕っている人も多いので、心配しないでよい。小寺は僕がきちんと抑える」と答えた。※小寺の嫉妬だな。小寺本人はそう認識していないだろうが。p69 200.12.25(略)渡しと小寺課長の関係は決定的に悪化。(略)p74 「状況は独ソ戦直前の国際情勢に似ています。田中眞紀子はヒトラー・ドイツ総統。外務省執行部はチャーチル・イギリス首相。小泉純一郎はルーズベルト・アメリカ大統領。そして鈴木先生がスターリン・ソ連首相です。ドイツとイギリスは既に戦争開始。アメリカに助けてほしいが動きそうにない。好きではないがソ連を味方に。外務省執行部は、鈴木先生と田中大臣が戦争開始なら大喜び。」 p83 2001.6.27(略)鈴木氏と田中女史は停戦。翌2002.1のアフガニスタン復興支援東京会議へのNGO出席問題まで続く。 p87 2001.8.10野上義二新事務次官就任。 p90 2001.9.11 米国同時多発テロ。 ※これ以降の頁数は文庫版 p159 専門家以外の人にとって、イスラエルとロシアが特別な関係にあることはなかなかピンとこないにちがいない。※以降p162までその説明。 p163 ある偶然により、九七年頃から私はイスラエルとの関係を深めることになった。(略)頻繁にテルアビブやエルサレムを訪れ、閣僚級を含む多くのロシア系イスラエル人と交遊。

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