20220518『昭和史の10大事件』半藤一利、宮部みゆき


※詳細を知ることができる。ページはp65までは文庫本のページ、それ以降は単行本のページ。 p15 昭和金融恐慌 昭和二年三月十五日 p32 二・二六事件 昭和十一年 p34 本庄繁侍従武官長 p37 天皇の耳にすぐ、襲われた鈴木貫太郎の奥さん、たかさんからの電話によって入った。p38 手当てが早かったので命は助かった。でなければ、終戦のときにどうなっていたか。(鈴木貫太郎は終戦時首相)p40 宮城に黙っても入れる、たった一つの部隊である近衛兵に、その前に高橋是清暗殺をやらせるのは、青年将校の作戦計画が杜撰。人間の心理として、一ぺん、人を殺して、もう一ぺんさらに大きなことをやるというのは、無理がある。(略)宮中に乗り込んで陛下に決起の趣旨を直接上奏しようとした中橋基明中尉は、行く手を阻んだ陸士の同期、大高政楽少尉に拳銃を突きつけたが、彼を撃てなかった。両方同時にピストルを抜いたが、中橋の方が先にガクッと膝が折れてしまい、自分だけ宮城から出て行っちゃったんだね。(略)p43 五時の時点で決起の情報を知って、本庄繁が七時十分に報告に来たときに、もうこれは反乱である、と天皇は判断していた。私に対して刃を向けているのと同じだ、という判断をパッと下したのですから、本庄さんも驚いたんじゃないですか。(略)p47 この機会を利用して一気に、軍国主義国家にしてしまおうという陸軍の一方の狙いが、海軍側から見えたのだと思う。一番野郎としたのは石原完爾じゃないか。でも、彼の動きはよくわからない。石原は、最初は、青年将校からの暗殺目標。ところが、すぐに青年将校側になっている。信頼されている。当時の海軍参謀の書いたものを読むと、石原完爾を監視している。p48 陸軍の動きが怪しいと、海軍は品川沖に戦艦を派遣。そのときの陸戦隊の師団の横須賀鎮守府の長が米内光政、参謀長が井上成美。あの連中は陸軍を「危ねえ」とよく見ている。p49 皇道派は、天皇を崇めて君主国をつくる。想定敵国はソ連。統制派は天皇機関説だから、元首として戴くが、自分達でナチスドイツのような上からの軍事的統制国家をつくる。その方が、国防に有効だと。ソ連とはいずれやるだろうが、後顧の憂いをなくすために中国を叩く。中国一撃論。蒋介石の国民政府は、まだ統一国家になっていない。まだ軍閥が山ほどいるし、共産党もいるし、今のうちだと。満州事変の体験で中国軍をなめきっていた。(略)p51 皇道派と見られて飛ばされた中に、牟田口廉也や小野寺信。小野寺信の奥さんの百合子さんは「小野寺がドイツは勝てないと電報を送っても、大本営、参謀本部は認めず、握り潰された」。外へ出された牟田口廉也は、ならばと東京凱旋のために、日中戦争を起こした。その後は、東条英機にベタベタになる。東条英機は二・二六のときは満州にいたので火の粉はかからず、統制派が天下を取ったところに戻ってきて、統制派の親方永田鉄山の子分格になっている。二・二六がなければ、どちらかというと出世街道から外れていた東条英機が早々と内地に戻ることもなかったかも。それほど優秀な軍人ではなかったから、たちまち陸軍大臣になんて、普通なるはずない。(略)p54 ヒトラーが暗殺されずに存在していたから、現在のEUができているのかも。暗殺されで戦争が悲惨な形で終わらなければ、またドイツとフランスが睨み合ったままだったかも。(略)アフリカ戦争なんかないだろうし、ロンメルがあんな風に頑張ることもない。そうすると戦後のアフリカ独立問題なんてどうなっていたかわからない。(略)p56 イギリスは「アジアは日本の海軍に任せる」というのっぴきならない事情で、日英同盟を結ぶ。日露戦争は独仏対イギリスの代理戦争、という見方も。(略)p57 二・二六というテロを梃子にして、陸軍は政治進出を強めた。翌年、もう日中戦争。中国一撃論が罷り通る時代。それから日本は大政翼賛会へと。p58 大政翼賛会と三国同盟 昭和十五年十月十二日/九月二十七日 昭和の戦前は、経済恐慌(※昭和二年の日本の恐慌)、資源的な貧しさ、国家総力戦時代なのに、国力がどうしようもなく貧しかった。それで満州事変を起こして満州国をつくった。残念ながら石油は当時は見つからなかった。でも石炭、錫、その他の金属、農産物などは、国力回復のために役立った。昭和六年がGDPどん底だったけど、そこから満州事変、第一次上海事変、満州国建設などで少しずつ景気向上して、昭和十二年が、たしか戦前の最高の時期なんです。驚くなかれ、経済成長率が七年から十一年まで平均七パーセント、十二年は、二十三・七パーセント。ウォール街発の世界大恐慌から、世界で最初に抜け出したのが日本。p61 そこで一番じゃまのはワシントン体制。英米の二国がつくる世界の秩序。大正十一年(一九二二)以来、それが世界秩序の基本。ところが、ワシントン体制の外側には、共産主義国家ソ連という新秩序。だから日本も、ワシントン体制に縛られて、英米というアングロサクソンの下に小さくならなくてもいいんじゃないか。という昭和七、八年頃から革新運動が起こる。それで日本はワシントン海軍軍縮条約を破棄・失効。ロンドン海軍軍縮条約からも脱退。昭和十一年(一九三六)です。日本は独自の道を歩くんだと。国際連盟は昭和八年に脱退しちゃってますから。そして新秩序「東亜新秩序」というスローガンなわけです。p63 近衛文麿が第二次近衛内閣(昭和十五年七月)で言っていることがこの「東亜新秩序」。のちの大東亜共栄圏。「英米主体のワシントン体制から脱却すべし」途方もない夢。(※実態は)要するに覇権主義。 p65 うまくいくと思ったんでしょう。ペリーに強制的に開国させられた国が、わずか四十年ほどの間に五大強国の一国ロシアに勝ったから。※そこで真の道義国家として振る舞えていたら最高だったけどな。ちなみに当時の五大強国は英独仏露米。列強。p83 (四)東京裁判と戦後改革 p117 (五)憲法第九条 p125 (六)日本初のヌードショー p140(七)金閣寺消失とヘルシンキオリンピック挑戦 p182 (八)第五福竜丸事件と『ゴジラ』 p192 (九)高度経済成長と事件~公害・安保・新幹線 昭和二十八年頃~ p193 半藤「昭和三十年代以前に公害病がもうすでに始まっている。日本の高度経済成長は六〇年安保前後から始まったのではなく、戦後に朝鮮戦争(1950)で大金持ちが儲けて、途端に、もう高度成長は始まっていた。(略)もはや戦後ではないと言われたのが昭和三十一年(1956)。(略)p194 戦後日本が変わっていった。風景が変わりだした。太平洋の海岸線に、ぼんぼん大工場を建てた。原料を海外から持ってくるのに都合のいい所。(略)一生懸命、国家を豊かにしようということで走ったけども、大事なことを解決しておこうとは全然、思ってもなかった」宮部「川に流して、海に流したら、何でも全部きれいになると思っていたんですかね」半藤「すべて太平洋に流し出されていって、きれいになると思っていた。(略)p196 日本の高度成長とは何だったのかと考えると、まさに三大公害(※イタイイタイ病、水俣病、新潟水俣病、四日市ぜんそく、4大公害病)が象徴するような、大事なことを後回しにしちゃって、とにかく繁栄を目指して、大国をめざして、という太平洋戦争中と同じような形でやっちゃったのかな、と」p197 宮部「(※経済については)高度成長一辺倒から公害問題などが表面化し、(※このままでいいのか、と)こじれてきて、その一方で(※政治については)安保闘争などの問題が…ということで、次へ移りましょう」 p214 ※少年ライフル魔事件は、1965年7月29日に発生した、事件当時18歳の少年によるライフル乱射事件。少年と警官隊との間で銃撃戦が繰り広げられた。最終的に警視庁の警察官に逮捕された。 「犯行当時未成年」かつ「1人殺人」で死刑判決が下った稀有な事件である。 ウィキペディア ※この本の購入決定。 

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