20220420 『伝説のやくざボンノ』

『伝説のやくざボンノ』※1990年8月に三一書房より刊行 p16 第一章 ドンとボス p10 ヤクザ社会のスーパースター、ボンノこと菅谷政雄は大正三年、神戸市生まれ。p29 昭和二十一年五月、国際ギャング・ボンノ逮捕。昭和二十六年に服役し十年あまりで仮釈放。p31 田岡から子分の盃、昭和三十四年十一月のこと。組内では最初から別格。田岡は刑務所に美空ひばりなどを連れて三度も面会。山口組の三代目を継いだ田岡をボンノはかつて救ったこともあった。p34 ボンノの息子正彦(昭和二十年生まれ)は父親が次から次へと女をつくることに怒りを感じていた。亡き母親への冒涜と思われた。妻芳子は、ボンノが未決にいるときに五歳の正彦を残して肺結核で死んだ。p36 ボンノは四十八歳、酒も煙草もやらぬ彼の精力に衰えはなかった。p41 菅谷組の基礎を作ったのは、赤坂一男(殺された兄は芳子の妹婿)、若頭の上田亨、舎弟頭の浅野二郎と言われる。 p41 ボンノが盃を受けた時代、山口組は、若頭の地道行雄(地道組)、ボンノ(菅谷組)、小西音松(小西組)、柳川次郎(柳川組)という四つの大組織が競って他府県へ進出。その他、田岡の舎弟安原政雄が、広島で山村辰雄と対立する打越信夫と義兄弟。p42 山口組は神戸港の港湾荷役を制し、資金源に。荷役会社二十二社のうち十四社まで田岡の息が。田岡自身も甲陽運輸経営、横浜港を握る笹田照一、藤木幸太郎、鶴岡政次郎らと全港振(全国港湾荷役振興協会)をつくり、その副会長兼神戸支部長。さらに神戸芸能社によって芸能界に影響。西日本の興行を独占支配。後発の菅谷組は必然的に外へ。 ※若中…暴力団における若中とは杯事(さかずきごと)を通じて結ばれた親子関係(若中)や兄弟関係(舎弟)のうち、親子関係の子分をさす。p46 灘の嘉納健治(かのう けんじ、1881年〈明治14年〉9月24日 – 1947年〈昭和22年〉10月31日)神戸生まれ。日本の興行ヤクザ、ボクシングトレーナー。嘉納治五郎の甥(但し血縁関係については現時点で未解明。従弟という説もある)。通称:ピス健(ピスケンとも)。 p47 波谷守之は、博徒として自身を縛る掟を持っていた。生き様がストイックに見えた。ボンノは「波谷は自分にないものを持っている」と思う。p56 淡路島出身の山口組初代の山口春吉は、兵庫運河の人夫供給業を始めた。大正十四年、春吉は実子の登に稼業を譲り引退。p57 登は昭和初期の不況を生き残るため強引な手段で神戸市の中央卸売市場の荷役を独占した。それによって浪曲や相撲などの興行に進出した。三代目田岡一雄にとって大きな遺産。関東の親分衆とも縁。横浜の博徒笹田照一は山口登の兄弟分。田岡売り出しのため五分兄弟の盃。山口登の抗争のとき仲裁した東五郎(もと松竹浅草の大プロデューサーで自由党院外団の最高幹部)の行為を徳として、田岡は交遊。東五郎の義兄弟の一人の山本五郎(関東姉ヶ崎四代目)とも田岡は義兄弟に。山本五郎の兄弟分には、東京の戦後裏面史に名を残す博徒岡村吾一、新田新作、入村貞治、藤田卯一郎、テキ屋芝山益久、安田朝信などの親分衆がいた。彼らは田岡と回り兄弟。p58 団体等規制令でヤクザ団体が逼塞させられた時期、田岡一雄は港湾荷役と興行で合法的な資金をつくり、昭和三十年代の初め、山口組は西日本最大ヤクザ団体に。神戸に本拠を置く本多会と熾烈な争い。東京進出は難しかった。■昭和三十五年、岸内閣末期、日米安保をめぐり、六月十五日、蒲美智子死亡。右翼の児玉誉士夫は、全国の博徒を集めて反共の組織「東亜同友会」結成計画。関東親分衆が理解を示した。児玉誉士夫は田岡一雄に町井久之(東声会会長。東京のヤクザ社会で孤立しかけていた)との結縁を勧めた。狙いは東声会の孤立を救い、田岡に恩を売ることで東西の爆とを一気に糾合しようとした。p59 ■昭和三十八年二月十日、田岡を兄、町井を弟とする結縁儀式が神戸市須磨の料亭「寿楼」で。関東から親分衆、住吉会顧問・阿部重作、松葉会顧問・関根賢、住吉一家四代目総長・磧上義光(せきがみ? いしがみ?)、並木一家三代目総長・波木量次郎、錦政会会長・稲川角二など。犬養毅の息子・犬養健の私設秘書だったこともある波木量次郎は、戦前からボンノの親友。犬養健は、昭和二十九年の造船疑獄で、自由党幹事長・佐藤栄作の逮捕阻止のため指揮権発動し引責辞任した法務大臣。p60 その夜、京都市東山「都ホテル」で、東亜同友会の関西地区発起人会。宴が終わり、ボンノは波木を木屋町の高級クラブへ誘った。彼らの古い友人の妻が経営していた。p76 ■昭和三十八年頃、菅谷組が福井県に楔。金沢市へ復帰した中村直秀は、刑務所を出てきたばかりの川内弘を、北陸の温泉町でボンノに会わせた。p81 ■昭和三十九年五月二十一日の朝、田岡一雄は上京、芝の高輪プリンスホテルで開かれた「全港振」会合に副会長として出席。そのころ広島の抗争は、兵庫県では抗争を起こさない約束ができた。広島ではその後も、共政会と山口組系打越会の殺傷事件が続いたが、それぞれの幹部たちが逮捕されて終息に向かっていた。田岡は上京の夜、高倉健と江利チエミ夫妻、清川虹子、宮城千賀子らと赤坂のチャンコ料理「吉葉」で食事。スターたちは利益のために媚びる。その晩、田岡は狭心症で倒れ、渋谷のセントラル病院に入院。奇跡的に回復し、九月十日、尼崎の関西労災病院に転院。p85 東京入院中の六月、兵庫県警は山口組壊滅作戦スタート。その年の後半、警視庁は、大親分の錦政会会長稲川角二、住吉会会長磧上義光、日本国粋会会長森田政治を逮捕。戦後の混乱期にはヤクザを治安のために利用し、法務大臣木村篤太郎は賭博の取り締まりを現行犯に限ると親分衆に約束。それが破られて非現行で逮捕されるのはこの頃から。p86 ■昭和三十九年六月七日、四国の松山市で山口組系矢嶋組と地元の郷田会が市街戦。組長矢嶋長次は、今治市の博徒森川鹿次の娘婿。p87 双方多数検挙。山口組の松山進出はいったん挫折。p88 しかし戦力誇示により周辺の弱小組織吸収効果。菅谷組系浅野組が愛媛県八幡浜(やわたはま)市に支部を出したのもこの頃。次いで南伊予の宇和島市進出を。波谷守之の兄貴分博徒山口浪之助がいた。波谷は大阪の浅野二郎に引き上げ依頼の電話。p90 浅野はボンノに電話。浅野「波谷がそういうてるなら、何もかもあらへん。すぐ引き上げさせ、とボスがいうてますわ。兄貴はあんたが好きでしょうがないんや」波谷は呉へ帰った。ボンノに二度目の借りができたといっている。p91 田岡の病気に関係なく組織は膨張。p92 ■昭和三十八年三月、警察庁発表、全国の暴力団は3944団体、156,000人。p93 ■昭和三十五年、岸内閣「六〇年安保」激動後、経済重視の池田内閣で安定期になり、ヤクザ排除開始。背景は、自民党内の党人派vs. 官僚出身派の争い。党人派は、児玉誉士夫主唱の「関東会(博徒系)」と近い。 ※党人派(とうじんは)とは、官僚、軍人、皇族等の出身ではなく、一般人の政党員である政治家の一群を指す。 政治家の分類における俗称の一つ。 p93 党人派の大物、大野伴睦や河野一郎の死による勢力衰退期と重なる。■昭和三十九年三月、広域十大暴力団指定、取り締まり目標明示。神戸、山口組、田岡一雄。神戸、本多会、平田勝市。大阪、柳川組、谷川康太郎。熱海、錦政会、稲川角二。東京、松葉会、藤田卯一郎。東京、住吉会、磧上義光。東京、日本国粋会、森田政治。東京、東声会、町井久之。東京、日本義人党、高橋義人。東京、北星会、岡村吾一。■昭和四十年、警察の攻撃本格化。 p95 首藤新司。浅野組の盃。昭和二十六年頃、自由党の衆議院議員だった首藤新八の甥。第三次吉田内閣の通産政務次官。昭和三十二年「売春汚職」連座で失脚。

第二章 壊滅作戦 p108 田岡一雄が三代目山口組を継いだ時、僅か九人の舎弟と十一人の若衆しかいなかった。万を持って数える山口組にしたのは、田岡一雄の器量。(略)兵庫県警は、神戸港湾荷役を握る三友企業の岡精義と戦闘部隊の地道行雄を重点的捜査。p110 田岡がまだバラケツの頃からの親友の岡精義がまず崩れた。■昭和四十一年四月二十五日、逮捕勾留されていた岡は入院中の田岡に、山口組から身を引きたいと手紙。田岡は認めたばかりか、港湾事業を持つ組関係者全てに「山口組を脱退して、事業に専念するよう」指令を出した。※うまいな。流れを読んで先手を打っている。 ※バラケツ 愚連隊の古称。 関東で使用。 「私は上方へ流れて来ましたが、昔は東(関東)ではバラケツで名のある男でした」。p111 通称「マンマン」安原政雄は面倒見が良い。山本健一や尾崎彰春が集まった。p112 ■昭和二十八年一月、ヤマケンこと山本健一は地道系の梶原清晴らと天王寺区大道町の旅館「備前屋」で映画スターの鶴田浩二を襲撃。■昭和二十九年九月二日、対立していた野沢修(谷崎組若頭)を、梶原と二人でピストルと日本刀で襲い瀕死の重傷。■昭和三十七年二月、夜桜銀次事件では、百五十人の山口組組員を率いて福岡に。同年に始まった広島の抗争でも安原の下で役割。広島抗争では買ったばかりの自宅を売って資金をつくり、打越会の応援に。ヤマケンは貧しかったが、間尺に合わぬことができた。ボンノは好意。ヤマケンが福岡の事件で逮捕後、彼の「さんちかタウン」警備利権を地道と吉川勇次が奪い、鹿島建設と藤田組から五百万円を受け取った事件が、岡精義の自白でわかった。■昭和四十一年七月、恐喝事件として吉川と地道が逮捕。p115 ■昭和四十二年一月十一日、尼崎市尾浜東末の石浜病院に入院中のボンノは逮捕されかけるが、収監に耐えられる状態ではないと院長が説明。その日は在院のまま取り調べして刑事は帰った。p136 ■昭和四十三年、解散を唱える地道行雄は若頭を降りたいと、田岡に申し入れ。p138 翌年五月十五日、地道行雄は肺癌で死亡、享年四十七。p139 混乱の時期が、遅れて出てきた者にチャンスを与える。※明治維新しかり。セオリーだな。 p140 若頭には大正十四年生まれの梶原清晴が就任。十年来の盟友若頭補佐のヤマケンと同年。地道の若頭辞任時、補佐は梶原清晴、山本健一、山本広、ボンノ。p143 そういう時期に、菅谷組は膨張し続けている。大阪西成のテキ屋系で、初田組組長の初田節夫が舎弟に。ミナミでは、富士会大幹部だった佐々木竜二が舎弟に。ともに浅野二郎の引き。p144 菅谷組というだけで飯が食える、と大阪の極道たちに言われた。安原政雄が引退し地道行雄の亡き後、ボンノは頭抜けた存在。かつての柳川組に代わって菅谷組は殺しの軍団と恐れられた。ヤクザの生き方は、基本的に己の甲斐性。いちいち親分には知らせず、事件が起こってからボンノに知らされる。p145 枝の抗争がボンノの悪名を上げた。しかしボンノは不利な手打ちには応じない。枝に輪をかけたくらい無茶を押し通す。それを菅谷組の幹部は知っている。p147 その頃の菅谷組は十六団体で三百五十人を超えるといわれていた。p149 資金繰りにいきづまった会社の「整理屋」は大阪が発祥の地で、昭和二十八年頃に金融業の「山富」が債権の買取屋を始めたのが前身だといわれる。p155 ■昭和四十四年、ボンノは三年前の大阪の賭博事件で懲役六カ月の判決。が、糖尿病を理由に福井県芦原町の「北城温泉」で療養。川内弘の縄張り。■昭和四十五年四月から半年間、神戸刑務所服役。同年十月十七日、ポートターミナルのレストラン「フィッシャーマンズ・ポート」に千二百人の組員集結。p154 ボンノの放免祝い。神戸市の公共施設で放免祝いがされたのはそれが最後。 波谷「一億ほど出しないや」理由は言わない。ボンノが電話をかけて金を集める間、波谷は黙って座っている。「いただいておきますけん」二、三日後に苦笑。一晩の博打でスッたらしい。しかしボロ勝ちすると「兄貴、小遣い銭にしてくんないや」とボンノの出したカネの二倍も届けてくる。(略)

p180 第三章 絶縁 (略)p211 ■昭和五十一年十月三日の昼前、しばらく膠着した大阪戦争が一年余り経って噴火する。(略)■昭和五十二年、ボンノ絶縁(p488解説より。引退して堅気にならなければ殺されても文句が言えない。p499 〔波谷守之の手記〕五十二年四月十五日、菅谷は絶縁されて死にもまさる屈辱を受けた。それでも、「おれが持った田岡親分だからしょうがない。只一つのわがままがかたぎにならないということだ」と決心した。それには菅谷の声明が投げ出されている。こんな性根の男がわが弟(筆者註・川内(※殺害された組長)は波谷同様、菅谷の舎弟)を殺すのに、影で教唆、指示、汚いまねができますか。そんな男なら私は惚れません(『最後の博徒』より)p493 ボンノは、男の華である。)。

p260 第四章 セントルイスブルース

p370 第五章 府中刑務所

p402 第六章 男の墓標(略) p475 ■昭和五十六年十一月二十五日、ボンノ死す。同月十一月二十八日、神戸市中央区「仏教会館」で告別式。※ちょうど神戸に住んでいた時だな。(略)p478 昭和六十二年十一月二十四日、大阪府茨木市内で、菅谷政雄の七回忌。

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