20220328『フェルマーの最終定理』

『フェルマーの最終定理』※おそろしくオモシロい。p86 デカルト(1596-1650)「フェルマーは大法螺吹き」。p91 パスカル(1623-1662)はフェルマー(1607-1665)と共に確率論の生みの親。微積分学の創設にも深く関わった。微積分学は「ある量が別の量に対して変化する率(微分係数)」を求められる。時間に対する距離の変化率は、速度という名前でよく知られている。加速度は時間に対する速度の変化率。インフレーションは物価の変化率。物価の微分係数で表される。p92 ニュートン(1643-1727)は「フェルマー氏の接線の引き方」にもとづいて積分法を発明したと書いていた。1934年にルイ・トレンチャード・ムーアがその覚え書きを発見した。 p102 ピュタゴラス、エウクレイデス、ディオファントス p119 1665フェルマー死す。p120 1670フェルマーの息子『フェルマーによる所見を含むディオファントスの算術』発行。※フェルマーの最終定理が載っている。  p133 オイラー(1707-83) ※ほか綺羅星の如き人々。 p171  ソフィー・ジェルマンは女性に対する偏見のせいで、研究するために素性を偽った。1776.4.1生まれ。フェルマーの最終定理の研究に革命を起こし、それ以前のどんな男性よりも貢献。p177 オイラーやニュートンを学ぶ。p179  1794年、ラグランジュ(1736-1813)が彼女を見出す。ラグランジュは友人に。p180 アイデアを得たジェルマンはガウス(1777-1855)に相談。偽名で。p183 1806年、ナポレオンはドイツを侵略。ジェルマンはガウスの保護を頼む。ガウスはジェルマンのことを喜んだ。p185 1808年、二人の文通は終わる。ガウスは興味の大賞を数論から変えたので、ジェルマンに返信しなくなった。ジェルマンは1年も経たないうちに純粋数学を捨て、物理学者に。 p187 フランス科学学士院は金メダルと3000フランの懸賞金 コーシー(1789-1857) p194 二世紀にわたって、フェルマーの最終定理の証明を再発見する試みはすべて失敗。十代だったアンドリュー・ワイルズは、まずオイラー、ジェルマン、コーシー、ラメ、最後にクンマーについて学んだ。ワイルズは、オックスフォード在学中にクンマーと同じ壁にぶつかった。 p202 1908年、ゲッティンゲン王立協会(ドイツの協会)が懸賞金10万マルク(約1億6,005万円)p228 1910年、ラッセル(1872-1970)、ホワイトヘッド『プリンキピア・マテマティカ』。1930年、ヒルベルト引退。1931年、クルト・ゲーデル「不完全性定理」。 p253 1954.6.10アラン・チューリング(1912-1954)の検視の結果は自殺だった。※コンピュータの生みの親の一人。ドイツの暗号エニグマを解読。 p288 1955年9月、日光で数学の国際シンポジウム開催。モジュラー形式と楕円方程式は同じではないかと日本の数学者谷山豊と志村五郎。p289 光は電磁場の調和振動。 ※全然分からないが何故かオモシロい。人間が宇宙というかこの世界の謎を解いていくストーリーが興奮を誘うのだろう。光、か。わかっているようで、まったく分からない。p293 1958.11.17谷山豊自殺。 p311 1986年の夏、p314 ケン・リベットは、谷山=志村が成り立てばフェルマーも成り立つことを証明できた。フェルマーの最終定理は谷山=志村予想と固く結ばれた。すべての楕円方程式がモジュラーになることを証明すれば、フェルマーの方程式には解がないことになり、したがって、フェルマーの最終定理を証明したことになる。p349 1832.5.30水曜日、ガロアは拳銃を手に決闘した。腹部を撃たれたガロアは翌日死んだ。二十歳だった。※群論と五次方程式。 p365 1986年(※チェルノブイリ)にフェルマーの最終定理の研究に取りかかったワイルズ。1990年、二児の父親に。闇の中でも一番暗い部屋にいるような気がしていた。p372 1993年5月も末、私はナーダ(※妻?)に言いました。フェルマーの最終定理を解いたよ、と。p379 ジョン・コーツは回想する。「1993.6.23アンドリューは三回目の、そして最後の講演を始めました。驚いたことに、これの証明を支える理論を生み出した人たちがほとんど全員その場にそろっていました。メーザー、リベット、コリヴァギン…」p382 志村教授が自分の予想が証明されたことを知ったのは『ニューヨークタイムズ』の第一面を見たときだった。「数学界長年の謎ついに解けた」友人の谷山豊の自殺から35年目のことだった。谷山=志村予想が証明されたことは、フェルマーの最終定理が証明されたことよりもずっと大きな快挙だとみる専門家は多い。というのも、谷山=志村予想が証明されることは、他の多くの定理にとってとてつもなく大きな意義があるからだ。ところがジャーナリストたちはフェルマーにばかり焦点を合わせ、谷山=志村には軽く触れるだけ、あるいはまったく触れなかった。p423 今回の証明には何の疑問もなかった。徹底的な吟味を受け、1995.5『アナルズ・オブ・マセマティクス』に掲載された。

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