20201218奥右筆秘長12決戦

奥右筆秘長12決戦

p66
徳川家は、一度他家へ養子に出たものは当主になれない。家康次男で結城家を継いだ秀康、六代家宣の弟で越智家へ養子に入った清武、家斉と十一代将軍の座を争うはずだった御三卿田安家の松平定信(1759-1829 吉宗(1684-1751)の孫)。田安家初代徳川宗武の七番目の男子として生まれた定信は、幼少の頃から聡明を謳われ、八代吉宗の再来とまで言われていた。田沼意次(1719-88)の策謀(※筆者の意見)のより、定信は田安家から奥州白河松平家の養子に出され、将軍にはなれなかった。
p69
将軍との仲が破綻した正室は、大奥を出され中の丸へ移る慣例。三代家光とその正室鷹司孝子が前例。
p86
書院番と小姓番は、両番組と呼ばれ、名門旗本から選ばれる。将軍そば近くに仕えるから番方旗本のあこがれ。書院番は将軍外出お供、江戸城諸門の警衛。小姓番は将軍居室の「御休息の間」に詰め身体警護。小姓組が出世しやすい。
p91
江戸城表の中枢ともいえる上の「御用部屋」は、老中以外の若年寄、御三家でも立ち入りを許されない。役目柄老中と面談が多い奥右筆は出入り自在。
p96
江戸城は大きく分けて三つからなる。
政務を執る表、
御台所を主と仰ぐ女の城大奥、
そして将軍の私を司る中奥。
中奥の奥が、御広敷。御広敷は、将軍の日常生活と大奥を管轄する役所。御広敷の奥、留守居部屋。
p104
当初は伊賀者上席として御家人あつかいされていたお庭番(八代吉宗が連れて来た紀州の根来)は、経過とともに身分をあげられ、多くは旗本に。組屋敷も、最初は浜町で百五十坪ほどの敷地だったが、仕事柄、城に近い方がよいので、日比谷御門外の鍋島家の隣に。建坪七十坪以上、部屋数もあり、伊賀者の四谷組屋敷とは大きな差が。

鍋島 日比谷
https://sagaprise.jp/thesagacontinues/loca01.html
http://www.mnagano.net/edo100/data/simage003.html
四谷
https://www.igaportal.co.jp/?page_id=2307
服部半蔵がこの門前に住んでいたため半蔵門と呼ばれる。

p353
幼かった家継のとき、間部越前守のような奸臣が幕政を。それを吉宗は正した。

・家継(1709-1716
第7代将軍。 第6代将軍・徳川家宣の四男。史上最年少で任官、史上最年少で死去した将軍。

p357
大坂の陣ののち、家康が豊臣家から盗んだ金銀財宝は途方もない額。先頭の荷馬が京都についたとき、最後尾の荷馬はまだ大坂城をでていなかったといわれた。

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