20201217奥右筆秘帳11天下

『奥右筆秘帳11天下』 2012.12.14発行
人物 18世紀
・田沼意次(1719-88)吉宗(1684-1751
の紀州藩足軽から旗本になった田沼意行の長男。明和4年(1767)板倉勝清の後任として家治の側用人。のち大名になり老中就任。1779家基急死。天明4年(1784)田沼意知が江戸城内で佐野政言に暗殺。天明6年(1786)将軍家治死去、老中辞任。1787定信寛政の改革。1788没。
・徳川家治(1737-86いえはる)10代将軍(在:1760-86)。父は言語不明瞭だった第9代将軍・徳川家重。父の遺言に従い、田沼意次(1719-88)を側用人。祖父・吉宗から帝王学。
・一橋治済(1751-1827はるさだ)一橋徳川家の第2代当主。8代将軍吉宗の孫。第11代将軍家斉の実父。治済は松平定信ら反田沼派の黒幕。天明6年(1786)10代将軍家治没。治済長男家斉が11代将軍に就任、意次の罷免、田沼派の一掃。
・松平定信(1759-1829)8代将軍・徳川吉宗の孫。1787-93年まで寛政の改革。28歳から6年間。天明8年(1788)意次没年に家斉は治済を大御所待遇に。が、当時朝廷で光格天皇が実父に太上天皇の尊号を贈ろうと老中松平定信と対立。尊号一件。結果、治済「大御所」待遇も没。治済・家斉父子怒り1793定信、失脚。※事件5年後に失脚? 
治済より2年長生き。1829没。70歳。※34歳以降は治済との暗闘?
・徳川家基(1762-79)10代将軍徳川家治の長男。将来の第11代将軍として期待されていたが、急死。治済が暗殺か。
・徳川家斉(1773-1841いえなり)第11代将軍(在:1787-1837)治済実子。50年治世。
・徳川家慶(1793-1853)。12代将軍。そうせい公。父・家斉の傀儡。家斉亡き後は水野忠邦や、まだ若かった阿部正弘などを登用。
・島津重豪(しげひで)十一代家斉の正室(御台所)茂姫の実父。

p8
奥右筆は幕政いっさい、表右筆は将軍家の私が管轄だが境界はあいまい。
p10
お広敷は、大奥をつかさどる役所。女中出入りから、将軍が大奥にいる間の雑用、警護を担う。
p12
長崎奉行は一度やれば三代喰える。
p14
幕府の花形といわれる勘定方、将軍家の身の回りのことをする小納戸は栄達の道に近い。余得だけで考えれば、奥右筆の足下にもおよばない。
p15
茂姫(広大院) 島津家から最初に将軍家に嫁いだ薩摩藩の姫
https://loungecafe2004.com/historical/kodaiin
茂姫の実父島津重豪は田沼意次と親しかった?
p35
銭は相場で変動する。一両はおおむね銭四千文から六千文になった。一分は一両の四分の一である。銭に換算すると一千文から一千五百文になる。
p216
由井正雪の乱で、紀州徳川頼宣は、正雪を知っていたということで十年の帰国禁止を言い渡された。家康の子だからそれですんだ。
・徳川頼宣(1602-71)徳川家康の十男、紀州徳川家の祖。常陸国水戸藩、駿河国駿府藩を経て紀伊国和歌山藩主。8代将軍徳川吉宗の祖父。
p309
祖父が孫の後見となる。父である二代秀忠から、将軍世子(せいし)の座を奪われそうになった家光は、祖父家康を頼り、三代将軍となった。
p316
正統を排除するのは後の災いのもと。正室(御台所)の子が世継ぎ。
幕府には悪例。二代秀忠の兄秀康の血を引く越前松平家という。他家へ養子に出たとの理由で、二代将軍になれなかった秀康にも、その子孫にも不満はあった。幕府は越前松平家を、武家諸法度の対象からはずす制外の家として遇すことで宥めようとしたが、それが増長を招いていた。
※つまり「次男より三男を優先した」ので増長という災いを招いた、か。

p340
過去、薩摩藩は宝暦の木曾三川治水工事で四十万両という大金を消費した。

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