20191104『独裁と民主政治の社会的起源』バリントン・ムーア

『独裁と民主政治の社会的起源』バリントン・ムーア
副題「近代世界形成過程における領主と農民」
【上巻】
p15
前産業世界(農業社会)から近代世界の移行には三つのルート。
一、ブルジョア革命。英仏米で近代産業デモクラシーへの移行過程での変動(清教徒革命、フランス革命、アメリカ南北戦争)。特徴は、独立した経済基盤を持つ一集団(会社社長。ブルジョア。中産階級)が社会の中に発達してきて、民主主義型資本主義の発展を妨げるような、過去から引き継がれた障害(王、貴族、地主)を攻撃すること。
二、ファシズム革命
三、共産主義革命

***

第四章 中華帝国の衰退と共産主義型近代の起源
p248
プロイセンのリーダーシップのもとで、ドイツは一九世紀に上からの産業革命を遂行。そこに存在したブルジョア革命に向かう力は(革命的だったのはブルジョアではなかったが(?))一八四八年に消滅した。一九一八年の敗北によってさえ、前産業的な社会システムの基本的な特徴は損なわれずに残った。不可避的ではなかったにせよ、その窮極の結果がファシズムであった。
ロシアでは、一九一四年以前には近代化の原動力はほとんど効果を上げなかった。そこでは主要な破壊力の源泉を農民とする革命が、旧来の支配階級(一九一七年に至るまで、なお主として農業社会的階層であった)を打倒し、共産主義型の上からの産業革命へと道を開いた。
※農業社会→産業社会という前提があるのであろう。
p261
土地財産制は官僚制によってつくられた。
地主にとっては科挙制(官僚制)は、自分が社会的地位を持ち、肉体労働をしないことに正統性を与えた。
p262
中国は絶え間ない軍事競争という問題はなかったので、常備軍が社会的資源の相当部分を消費することはなく、フランスでそしてプロイセンではより一層みられたように、常備軍が国家の発展に歪みを与えることもなかった。
p263
前産業社会において官僚制を確立するためには、官僚が上司に従うに充分な報酬を人々から引き出せねばならない。※見返り。美味しいかどうか。
一、フランス 官職の売買
二、ロシア 勤務の代償に能動つきの領地を与える
三、中国 公然たる収賄の黙認
マックス・ウェーバーは官僚の法規外収入は正規の四倍といい、現代研究によれば一六ないし一九倍という。
p264
(官僚制という)この体制がそもそも作動するためには搾取的にならざるをえなかった。ゆえに、下層の人々は全く放任され、自分の才覚によって生きていかざるをえなかった。※現代においても、か。

p266 二、紳士と商業世界
なぜ中国官僚制は西欧封建制後期に現れた商工業階級を生めなかったか。
一、中国が統一に成功していたから。西欧は、教皇と皇帝の間に、また王と貴族の間に戦争があった。都市の商人はこの戦争において力の源泉になったから伝統的農業社会から抜け出た。封建制が弱かったイタリアで農業社会の殻が最初に破られた。※ヴェネツィア、ジェノヴァ。
二、商工業の営利活動が読書人(官僚)に脅威だったから。口で綺麗事を並べても、金を得た者は幸福になれるという単純な事実は隠せない。ゆえに官僚は商業に課税した。あるいは専売にした。
※帝国主義=農業の商工業化? そして中国の農業も西欧によって商工業化された?
p269
アヘン戦争以降、(中国人と外国人の仲介者すなわち買弁の)混成社会を食い止めようとする中国側の試みと、それと正反対の諸列強の試み(=混成社会を自らの利益のために中国に打ち込むくさびとして使おうとする努力)との歴史になる。

p282
西太后の行動の型から、彼女は、ドイツあるいは日本式の、自分が個人的に直接支配権を行使しうる強い中央集権的な官僚政府を確立したかったことがわかる。
※日本のファシズムは個人ではない。個人だとすれば誰のことを言っている? 天皇は戦争をしたくなかったし、首相は交代し続けた。

ファシズムの基盤が中国にはなかった。ロシアよりもなかった。
ファシズムのためには、イタリアやスペインを見てもわかるように、次の連合が必要。
一、相当な政治権力を持ちながら経済的立場は不確かな旧来の農業社会的支配諸階級
二、ある程度の経済権力はもつが政治的・社会的には劣っている新興の商工業エリート
※地主と社長の連合がファシズムには必要? ①社長が地主を倒したら英仏米型のデモクラシー革命で、②地主と社長が連合したら日独型のファシズム革命で、③農民が地主を倒したらソ中型の共産主義革命か。

西太后の頃から四半世紀ののち、都市商業集団は国民党の保護下でファシズム革命の試み(原文: そのような反動的試み)が行われる。
p283
太平天国の乱(1850_1864)後、政府は収入増加のため官職の購入を許した。一九〇五年、科挙制は廃止。多くの地域で、紳士(地方暴力組織の長)は自分のための税を徴収し、政府に納めることを禁止。
p284
一九一一年の清朝滅亡と一九一二年共和制宣言は、真の権力が地方のボス(原文:総督)に移っていた事実を認めただけのこと。あと一五年はこの状態が続いた。紳士の背景は破壊された。彼らの後継者は純然たる地主か、無頼漢か、その両方だった。地主と無頼漢には共生関係があった。
p286
旧来の支配階級の後継者(国民党蒋介石)は新たな同盟者(日本)に頼って失敗する。

p286 五 国民党による幕間劇
p286
最初、中国の商工業利益(中産階級)は、外国人に依存し、かつ、農業利益(労働者階級)に従属していた。しかし、一九二〇年代、重要な要因となる。この間、港湾都市に住む少数だが政治的に重要な地主階級が、これら商工業階級とまじりあい、金利生活者となった。また都市労働者が極めて荒々しい形で登場してきた。(※暴力団か)
p287
国民党が活動的になった背景である。
国民党は、中国生まれの共産党とソヴィエトから援助され、一九二七年の終わりには、南部の根拠地から発展して、中国のかなりの地域を支配していた。成功原因は「農民と労働者者の不満を利用」したこと。だから、国民党は軍閥に対する優位を得た。一時は軍閥に勝ち、中国統一すると思われた。
しかし、国民党による民族統一の部分的成功により、民族内の争い、すなわち地主と農民の争いが表面化する。
軍に将校を送っていた地主は農民がこわくなってきた。皮肉だが、中国共産党はモスクワの「国民革命(民族統一)が社会革命(共産党革命)に優先する」指令により(※日本や英米仏らが邪魔だった)、地主の後継者を支持した。都市商工業階級が、地主階級以上に幸せにはなれなかっただろう。
p288
蒋介石が革命との関係を絶つことに成功。最後に、蒋介石は農業=ブルジョア同盟(という古典的な形式)で労働者に対抗した。(※地主+農民=農業の意味か? とすれば、地主+農民+社長vs. サラリーマンか)
一九二七年四月一二日、蒋介石の代理人たちは、その場にいた他の人々(英仏日の警察や軍も含む)と共に、共産党の同調者とされた労働者、知識人、その他の集団の虐殺した。(※上海クーデター)蒋介石はまた、投獄と処刑の威嚇により、資本主義的諸勢力(※具体的には誰?)に徴発と強制貸付を強要し、彼らにも敵対した。
***
上海クーデター Wikipedia
4月22日、宋慶齢、鄧演達、何香凝、譚平山、呉玉章、林祖涵、毛沢東ら39人は国民党中央執監委員、候補執監委名義で連名で蒋介石打倒を通電し、全国の民衆及び革命同志に、「(孫文)総理の叛徒、国民党の腐敗分子(敗類)、民衆に対し有害な人物(蟊賊)である蒋介石の打倒」を呼びかけた。
4月18日、蒋介石は南京にて国民政府を樹立し(南京国民政府)、共産党を受け入れている汪精衛(武漢国民政府(*))と対立した(寧漢分裂)。
だが、1927年7月、汪精衛率いる武漢国民政府は、ソ連から派遣されたミハイル・ボロディンが国民政府を分裂させて中国共産党に政権を奪取させることを企図していることを知った。このため武漢国民政府は共産党の言論取り締まりを決定し、「共産取締議案」を通過させ、ミハイル・ボロディン等ソ連から来た顧問を罷免した。その後、武漢では7月15日に清党が開始され、第一次国共合作は7月中旬に完全に崩壊した。
一方、蒋介石の軍功が武漢・南京の両政府の合流への障壁となり、また北伐軍が徐州で敗戦したことも相俟って、1927年8月蒋介石は一旦権力の座から退き、翌9月、武漢国民政府は南京国民政府に合流した。
その後、同年11月17日国民党内部の政変である広州張黄事変(zh)が勃発した。これにより蒋介石は政権に復帰し大権を掌握、そして、翌1928年には北伐を完成させ数十年に渡る中国の統治を開始したのであったが、この過程で李宗仁、白崇禧率いる新広西派の勢力が国民党内で拡大した為、蒋介石はかつての味方と政治闘争を繰り広げることになった。
***
(*)武漢国民政府
国共合作のもと、1927年に広東国民政府が本拠を武漢に移す。蒋介石の上海クーデター以降は南京国民政府と対立した。
中国国民党の国民政府として最初に樹立された広東国民政府(広州国民政府)が、北伐が進んで長江流域を制圧したので、1927年2月、武漢に移動してからを武漢国民政府、あるいは武漢政府という。第1次国共合作のもとで、国民党左派の汪兆銘(汪精衛)を中心とし、共産党員も加わっていた。
しかし、国民革命軍を率いて北伐を進めていた蔣介石は、1927年4月12日、上海クーデターを決行し共産党に大弾圧を加え、南京に武漢政府とは別に独自の南京国民政府を樹立し、国民政府は武漢と南京に分裂した。しかし、7月には武漢政府内でも国民党と共産党が決裂して共産党が排除され、第1次国共合作は崩壊した。その後、武漢政府は実質的に消滅し、南京政府に吸収される。
***
p289
一次世界大戦後の中国は信頼しうる統計はほぼ完全に欠如している。
p292
一九二〇年代の後半には(典型であるが)、商工業の影響が自作農の土地所有を浸食し、新しい社会組織(旧支配階級の主要部と、都市の新興集団との融合体)の手に富が集中されていく。
この融合体が国民党の基盤をつくったので、農業政策は「現状維持または部分修正」。対する共産党は正反対。
「共産党は農民反乱の後継者
国民党(と国民党政府)は官僚の後継者」
p294
国民党の改革は、地方におけるエリート支配を変えなかったので、まやかしであった。
p295
三〇年代初期から半ば、国民党批判が公刊できたこと自体が、ほんの二、三年前に蒋介石が血なまぐさい弾圧をしたことを思えば、重要な意味がある。(略)しかし、結局、国民党の農業政策は旧秩序の維持であった。
※そこで階級闘争(農民vs. 地主)を起こして共産党の毛沢東が一九四九年に勝つ。

p296
国民党支配期に旧制度が存在していたのは地域による。辺鄙な内陸では有閑階級(※地主など上層階級の別表現か?)の特徴を残す指導的家族がなお存在した。反対に大都市近郊村落は旧紳士(※上層階級の別表現)は事実上消え、都市の不在地主(※これは新興の中産階級または地主階級。すなわち非労働者または農民階級。であろう)が土地の権利の三分の二を持っていた。しかし、共産党の接収の直前(国民党支配末期。一九四七~八頃か)に調査された南京からそれほど遠くない別の村では旧制度が残っていた。
しかし県境地域は警察力が及ばず、「地主は無視され、小作料は一銭も払われなかった」。
p297
商工業利益は国民党のもとでは発展しなかった。日本の占領は一九三七年からなのでそれが原因ではない。中国が工業国に変わることに対する、農業からの反対があったのではないか。(略)優れた兵器がなかったため、中国はただ単に膨大な農民の人力を利用し、国を守れと激励しただけ。「死による抵抗」のため莫大な死傷者。一九四〇年だけで、中国軍の二八%が犠牲に、また、戦争の八年間に徴兵された者の平均二三%が死傷したといわれている。
p298
国民党統治の二〇年、ヨーロッパのような産業主義に反対する特徴がいくつかある。その中には全体主義が含まれる。
※ファシズム(全体主義)革命→日本、ドイツ、国民党の中国。という話か。(近代化=①資本主義、②全体主義、③共産主義の三パターンがあるという説)

国民党の基盤=①地主(紳士)後継者+②都市の商業・金融・工業利益層(資本家層)
国民党は暴力で①と②の連合を維持した。
※地主(旧支配者)と資本家(中産階級)の連合。ゆえにファシズム革命型。

暴力によって、国民党は都市の資本家層をおどかし、政府をあやつることができた。これら二つの点で、国民党はヒトラーのナチス党に似ていた。
p299
では違いは何か。ひとつは産業基盤がなかったこと。中国の資本主義は弱かった。日本による沿岸諸都市の占領が資本主義をいっそう弱くした。
もうひとつ、日本の侵略により(ドイツ、イタリア、日本のような)、対外侵略を伴わなかった。
以上の理由から、フランコのスペインに似ていると言える。スペインでもまた、農業エリート(※地主?)は頂点にとどまり続けることに成功した。しかしドイツやイタリアほど対外侵略できなかった。
p302
蒋介石は共産主義者を国民党に吸収しようとして門戸を開放し続けた。実際には、国民党はヨーロッパの左右の全体主義政党(*1)と同じで、国民の中では圧倒的少数派だった。
※ナチス党は四〇%を越えたのでは?
(*1)左、共産党。右、ナチス党。
p305
国民党が反動的道筋(*2)によって中国を近代国家にしようとした試みは失敗した。
(*2)地主と中産階級の連合のことか。日本やドイツのようにファシズムになり崩壊する道筋とされる。

しかしより成功しそうだったロシアでも失敗した。両国において、この失敗が共産党を勝たせた。ロシアは共産党が一級の工業国をつくった。中国は今なお不確定。
※鄧小平による修正が中国を工業国にした。76年毛沢東の死後。
p306
農民の反乱が両国を共産主義型で近代化した。資本主義の反動型(ファシズム)ではなく、資本主義の民主型(デモクラシー)でもなく。
※つまり近代化には3タイプある。①コミュニズム、②ファシズム、③デモクラシー。もちろん後追い分析である。予言ではない。

p306 六 反乱と革命と農民
p306
中国は一九〇〇年以前六つの大きな反乱。社会の基本構造を変えなければ革命ではなく反乱。
このもともとの構造的弱さ(しょっちゅう反乱)が、一九~二〇世紀に商工業の衝撃をうけて、真の革命を起こした。
インドと対比。前近代期に反乱はまれ。インドの近代化は少なくとも中国と同じくらい長期間、農民を貧しくさせた。※2018GDP7位。21世紀に成長開始。この遅さはなぜか。
日本との対比。農民は中国と異なる原理で組織化。よって近代化の過程の農民反乱を抑えられた。日本の支配者がこれによってドイツ同様にファシズムへ至る反動型の近代化。
p311
地方長官が農民と接することはない。犯罪者と結託した人間の屑である胥吏(しょり)が媒介。搾取的性格。農民は自身のルールで秩序維持。農民の脅威となる強盗行為は、多くの場合、官僚の行為。一九世紀、帝国官僚制による政策が農民の反乱を起こした。そして秩序維持の力を失った。
※1911辛亥革命。つまり中国は政府不要な世界。しかし近代化というか進んだ時間は戻せない。エアコンを味わうと扇風機には戻れない。サピエンスは次の大戦で強制的に時間を後戻りさせられるしかない。

p314
前近代社会の中国において無効であった福祉政策、治安監督、民衆教化。これは全体主義の先取り。前近代社会(農業社会)では全体主義は無力だった。
p316
支配者と被支配者の結びつきが弱かったので中国は農民反乱が多かった。
p317
村落の凝集力
インド、日本、欧>中国>現代イタリア南部
孫文や蒋介石「中国社会は散砂のよう」
p322
村落の成員であるためには土地の所有が絶対に必要。
親孝行という儒教原理は金持ちでなければ実行できず、貧しい農民には無理。西欧とは反対で、中国農民は貧しいほど子を持たず、あっても大人になるまで生きのびにくい。多くは貧しくて結婚すらできなかった。貧しい人は子を売った。
p324
中国農民は(家父長制の理想により?)潜在的エネルギーをたくわえ、共産党がそれに火をつける。
インドはカースト制度のために土地のない労働者にもそれなりの場所があり、村落内の分業体制に結びつけられていた。地位は働きにかかっており、土地持ちかどうかは直接は関係なかった。
ロシアは農民が強い連帯制度を発達させたにもかかわらず農民反乱が起こった。反乱を起こす連帯と反乱を妨害する連帯がある。
p325
二〇世紀、貧困がますます農民を苦しめる。農民層と上層を結ぶ絆は切れる。農民は家族を捨て、さすらい、盗賊となる。彼らは軍閥の兵士の供給源となる。
反乱は新しい連帯(宗教的。共通信条)を必要としたが、中国農民は家族とかクランの範囲を超えて共同行動することに慣れていない。革命はさらに困難。
(中国自体で生まれたものではないという意味で)偶然の条件がなければ、共産党はこの問題を解決(革命成功)できなかったであろう。

p326
法の力が弱ければ強奪行為はあらわれがち。ヨーロッパ封建制は強奪行為そのもの。それが社会になり、騎士道精神により高尚なものになった。封建制はローマの官僚統治制度の衰退から生まれた。他者を犠牲にする型の封建制のような自救行為は、官僚制と正反対である。(※なぜ?)
官僚制は、犠牲者をつくる機能を独占し(課税など)、自身を合理的な原則(儒教など)に従って作動させる。
帝政から軍閥政治、さらに国民党のもとで一時的に統一されると、体制は次第に強奪行為になり、不人気に。

p330
一八五二年の冬から一八五三年にかけて始まった捻匪の乱(太平天国軍と一時協力)は、最終的に一八六八年に終わった。※幕末

p334
一九二七年(*1)に始まり一九四九年の共産党の勝利に終わった革命の大衆的基盤は、土地をあまりもたない農民層。中国にもロシアにも、近代資本主義的な大土地所有(ラティフンディア(*2))ではたらく膨大な数の農民プロレタリアートはいなかった。
中国と違って、農民プロレタリアートはスペインやキューバでは反乱の源。
フランスの一七八九年の革命とも中国は違う。フランスには多くの土地をもたない農民がいたが、地方での革命は農民上層部で始められた。(富裕農民?地主とはどう違う?)農民上層部は革命が次のことを越えて進みそうになった時、革命を止めた。
一、所有権の確認
二、封建的痕跡の除去

(*1)上海クーデター(シャンハイクーデター)は、1927年4月12日に中華民国において、北伐に呼応し第三次上海暴動を引き起こした武装労働者糾察隊が、右派国民革命軍による武装解除の命に応じず抵抗を試みたため、革命軍から武力行使を受けた事件およびその武力行使に対して抗議のためのデモを行った労働者・市民に対し革命軍が発砲・虐殺し、国民党左派・共産党系労働組合の解散を命じ総工会の建物を占拠した事件。中国国民党は「清党」と称する一方、中国共産党は「四・一二反革命政変」、「四・一二惨案」と称す。検挙の過程で暴動を引き起こした多くの共産党党員と工場労働者が死傷した。
(*2)古代ローマにおける有力者にる大土地所有地をラティフンディア(大農園。単数形がラティフンディウム)という。主として属州からの奴隷労働力で経営された。

p335
地主=高利貸し
科挙の終わり=紳士の正当性の終わり=紳士(君子)を支えてきた儒教の終わり
革命によって君子がただの地主=高利貸しに落ちた。
p336
農民に対する旧支配階級の自尊心は消えた。
あやしげな輩が旧支配階級の隙間を埋めようとした。赤裸々で広汎な搾取が中国を潜在的爆発力に満ちた場所にした。
これが共産党に機会を与えた。
インドではこれまで中国のような上層階級の退廃は起こっていない。※著書は1960年。

p338
共産党は一九二一年創立。一三年後、江西にあった主要拠点放棄、延安への有名な長征。蒋介石は一九三〇年から三三年に五回も主な軍事攻勢をかけたが、根絶やしにはできなかった。
p339
一九二六年までは、共産党は革命の基盤として農民を考えていなかった。一九二七年に蒋介石と決裂後、共産党はなお都市プロレタリア蜂起によって権力を奪おうとした。しかし悲惨で血なまぐさい失敗。マルクス主義正統派の考えを放棄して、農民を使おうとする毛沢東の作戦採用は不可欠だった。
他にも、富農に対する穏健な態度。一九四二年にやっと採用。
決定要素は日本。日本の中国侵略と占領政策。
日本の占領に反発して、国民党の官僚と地主は農村から都市に移動し、農民には思うがままにまかせた。
第二に、日本軍の断続的な掃討作戦のおかげで、農民は結束し連帯した。
p340
つまり日本は共産党に二つ尽くした。
一、旧エリートを除去。
二、農民の連帯。
事実、日本が農民に保護を与えた地域では、共産党のゲリラ組織は全く進展しなかった。そして日本軍と接触のなかった地域でも共産党のゲリラ組織は進展しなかった。

*****

【下巻】
p13
現代中国は非常な困難と挫折にもかかわらず、前進するきざしを見せている。
※1979年の中越戦争を筆者は予見できなかった。完全な平和勢力はやはり幻であろう。

p532
「ブルジョアがいなければ、デモクラシーもない」
ブルジョアジー(※会社の経営者)が資本主義と民主主義(デモクラシー)の担い手である。
※プロレタリアート(労働者階級)が民主主義の担い手ではない。要注意❗
「農民は古い建物を破壊するためのダイナマイトを供給してきた」

近代の描き方
一、ブルジョア的近代(多数派)
二、地主上層階級(領主・貴族)と農民層が生み出した近代(ムーア)

p533
近代に至る経路
一、日本とドイツ…ファシズムに終わる上からの保守的革命の道
二、中国とロシア…共産主義に至る農民革命の道
三、イギリス、フランス、アメリカ…資本主義とデモクラシーに向かう道

三の条件
(一)国王も貴族階級も強すぎない権力の均衡
(二)商業営利化による農村の社会問題の消滅(具体的には農民層が変わること。地主上層階級が弱まること)※具体的ではない。
(三)犠牲を伴うが必要なのが過去との「革命的断絶」

p534
各国の事例
一、イギリス
二、フランス
p535
三、アメリカ
p536
四、中国
p537
五、日本
p538
六、インド

***
ブルジョアジー
※都市の会社社長(商工)。自由主義。
生産手段を私有し賃金労働者を雇って利潤を得る資本家階級。プロレタリアートとならび資本主義社会を構成する二大階級の一つとされる。本来はフランス中世自治都市の市民・有産階級bourgeoisを意味し,封建身分に対抗する第三身分として発達,近代の市民革命の主役となった。その後市民社会の発展のなかでプロレタリアートが出現するとともに,保守的な支配階級に転化した。
https://kotobank.jp/word/%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%83%BC-127249
***

p540 『社会的起源』への批判
p541
第四の点は「中小国の意義が認められていない」こと。ムーア後の比較政治学は、北欧、ベネルクス、中東欧、ラテンアメリカ、東南アジア、中東などの経験が豊かな事例を提供した。そしてデモクラシーや独裁の研究に「中小国」が不可欠であることを証明した。それによって「デモクラシーのためには農民層の消滅や暴力革命が必然」というムーアの残酷な命題は修正された。
p543
思想、イデオロギーについて。ムーアは次の思想を古代ローマのカトー主義まで遡る。
一、商業に対し農民を賛美するレトリック
二、「退廃的な」外国人の軽蔑
三、軍国主義
四、反知性を唱える反動思想
それらはドイツのユンカー(*1)、日本の農本主義(*2)、中華民国の蒋介石、フランスのヴィシー政権時代などに現代版としてみられるという。
また共産主義は「将来の約束(絵に描いた餅。南無阿弥陀仏)」に依拠しているだけ。現実のスターリン主義のテロルと抑圧(※毛沢東も)は「ひどすぎる」と述べる。
西欧自由主義に対しても、自由を口実に、帝国主義や途上国への介入にみられる抑圧を正当化、隠蔽していると批判する。
そして自由主義も共産主義も批判的合理性を謙虚に受け入れない、と結んでいる。
(*1)エルベ川以東の東部ドイツの地主貴族。ビスマルク宰相。ヒンデンブルク大統領。
(*2)農本主義のうほんしゅぎ。農業こそが社会、あるいは国の本であるという思想、およびこの農本思想に基づく政治上の主義、主張。元来は、封建社会の矛盾を反映して出現したもので、領主の苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)や、天災地変による飢饉(ききん)の惨状などの見聞を動機として考え出されたものが多い。江戸時代の思想家安藤昌益(しょうえき)、佐藤信淵(のぶひろ)、二宮尊徳などの思想や主張は、農民の窮乏をどう救済するかという発想から発展したものである。
明治維新以後、天皇制政府は、農業と農村を重視するかのような農本主義的思想をしばしば振りまいたが、寄生地主制など農村の封建的要素を取り除かず、これを天皇制の一つの経済的基礎として資本主義を発展させた。この半封建的土地所有制下の農村は、低賃金労働者と兵士の豊かな供給源となり、農民は収奪に苦しみ窮乏を続けた。とくに1927年(昭和2)から繰り返された大恐慌は、農村に壊滅的打撃を与え、なかでも東北、北海道などの寒冷地帯では、飢え死に、凍死、自殺、一家心中などの地獄絵が現出した。
こうした状況も反映して、昭和初期には、いわゆる昭和維新、国家改造運動と結び付いた農本主義が現れた。権藤成卿(ごんどうせいけい)、橘孝三郎(たちばなこうざぶろう)によって唱えられた農本自治主義である。権藤が1932年の血盟団事件に連座し、橘が同年の五・一五事件に7名の「農民決死隊」を率いて参加、無期懲役の刑に処せられたことから農本自治主義は一躍注目を浴びた。現代史のうえで農本主義とは、この農本自治主義をさすことが多い。農本自治主義は、権藤成卿の『自治民範』『農村自救論』、橘孝三郎の『日本愛国革新本義』『皇道国家農本建国論』などの著書のなかで展開されている。権藤のそれは、彼の「制度学」と結び付いた特異なもので、大化改新によって実現したとする「公民自制自治」を理想とし、資本主義の中央集権を排し、政治組織は農村を中心とする自治制にすることを主張している。国家主義を論難し、「我日本を賊する匪類(ひるい)、同胞庶民の仇敵(きゅうてき)」とまでいっている。橘のそれは、農村自治を主張する点では同じであるが、権藤ほど復古的、反資本主義的ではなく、また、ある程度機械工業や経済を統制する国家権力の存在を認めている。昭和初期の農村の危機、農民の極度の貧窮化の状況のもとで、農村自治主義が一定の影響を与えたことは否めない。ただ、これを日本ファシズム運動の支柱とまで評価する説もあるが、国家改造運動の主流をなした北一輝(きたいっき)、大川周明(しゅうめい)その他の思想には農本自治主義がまったくみられないことや、右翼運動の実態を事実に即してみれば、そのような評価は認めがたい。[大野達三]
『山本彦助「国家主義団体の理論と政策」(『思想研究資料特輯』第84号所収・1941・司法省刑事局) ▽木下半治著『日本右翼の研究』(1977・現代評論社)』

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