20190826『超約 ヨーロッパの歴史』ジョン・ハースト

20190826『超約 ヨーロッパの歴史』ジョン・ハースト

第一章 ヨーロッパの誕生
p31
ヨーロッパの三つの混合物。
一、ギリシャ人「世界はシンプルかつ論理的・数学的である」
二、キリスト教徒「世界は悪であり、キリストのみが救える」
三、ゲルマン戦士「戦闘は面白いものである」
p32
三一三年、ローマ皇帝コンスタンティヌス一世がキリスト教を認めた。彼らの神が自分を守り、ローマ帝国がどこよりも栄えると考えた。その五〇年後、別の皇帝がキリスト教以外の宗教を禁じた。イエスの四百年後、ローマ帝国がキリスト教化された。
第一の絆。要素一と、要素二が結びついたのだ。
p34
ローマ帝国滅亡後も教会は生き残った。教会は政府のようになっていたから。教皇は皇帝と同じような力を持ち、聖職者を管理した。教会は「ローマ・カトリック教会」になった。
第二の絆。これも要素一と、要素二の結びつき。
p35
キリスト教の解釈と理論武装のためにギリシャの哲学と論理学が使われた。異教徒であるにもかかわらず、教会はギリシャ・ローマの学問を保護した。
第三の絆である。
p38
ローマ帝国滅亡後も生きのびた教会はゲルマン戦士を説得。「土地は差し上げます。管理には協力します。あなたがたがキリスト教を受け入れれば、より多くの敵を殺せるでしょう」※ゲルマン戦士は土地経営未経験。
そしてゲルマン戦士はキリスト教を支持した。
これが第四の、そして最後の絆である。
p39
ゲルマン戦士→〈支持〉→ローマのキリスト教→〈保護〉→ギリシャ・ローマの学問
四七六年、西ローマ帝国滅亡から一四〇〇年代まで、約千年間この絆は続いた。すなわち中世である。
p43
学問はキリスト教のもの、騎士たちもキリスト教のもの。一五世紀以後、これら奇妙な同盟関係は崩れていく。近代である。

***

第二章 近代ヨーロッパ
p47
ルネサンスは「古典古代(クラシック)は最上のものである」というメッセージによって、「ヨーロッパという混合物」を壊した。
p50
第二の崩壊は一六世紀のプロテスタントによる宗教改革。目的は、キリスト教の総本山がローマ(ヴァチカン)になる前の状態に戻すこと。

***

第三章 侵入と征服
p92
三世紀、ゲルマン人の侵入でローマ帝国は崩壊寸前。
三一三年にキリスト教を公認した皇帝コンスタンティヌス一世は、帝国の強化を試みた。
帝国内のゲルマン人はローマ兵士に採用された。五世紀の侵入者との戦いでは敵味方の双方にゲルマン人。ローマ軍の半分またはそれ以上がゲルマン人。しばしば将軍に。帝国弱体化の一因。
p93
ゲルマン人は帝国を奪い取るつもりはなかった。彼らの目的は戦利品の分け前にありつき、土地に定住し、いい暮らしを送ること。皇帝の支配を受け入れた。
ゲルマン人の侵入者は領土内に留まり続け、彼らの「独立国」ができつづけた。皇帝の支配する地域はほとんどなくなった。それでもゲルマン人は、皇帝は存在すべきものと考えて、ローマ人を皇帝として支持していた。そして四七六年、ついにゲルマン人の将軍オドアケルがこの茶番劇を終わらせた。彼は皇帝と名乗らず、イタリア王と自称した。そして西ローマ帝国のレガリア(王権の象徴となるもの)である帝冠と紫衣をコンスタンティノープル宛てに返上した。そこにはいまだ皇帝(東ローマ)が存在し、その支配権をオドアケルは認めていたからである。
p97
「ゲルマン戦士」が「ローマ教会」を支持し、その「ローマ教会」は「ギリシャ・ローマの学問」を保護した。

***

第四章 政治の第一形態 民主主義 p113
p115
ギリシャの民主主義の根源は軍隊にある。(略)民主主義は、戦う者たちの「連帯」として始まったものだった。
p131
かつてのローマが実践していた民主主義をアウグストゥスは復活できなかった。ローマ支配は、パートタイムの市民兵ではなく、有給の常備兵なしには達成できなかった。

***

第五章 政治の第二形態 封建制
p147
イングランドは宗教改革の時代にプロテスタントの国となった。宗教改革の母国ドイツとは違い、ルターのような人物はいなかった。きっかけはヘンリー八世。六人の王妃を持った。最初の妻キャサリン・オブ・アラゴンはカトリックだったが、男子を産めなかった。ローマ教皇に結婚を無効にしてもらうのが通常の解決策。しかし教皇はそうしなかった。王妃は歴代のスペイン統治者一族の出だったから、彼らの機嫌を損ねることを恐れた。
一五三四年、ヘンリー八世は、ローマ教皇ではなく自身がイングランドのカトリック教会の首長であることを宣言。※プロテスタントにあらず。
彼は自ら大司教を任命してキャサリンとの結婚を無効にさせ、彼女の侍女アン・ブーリンと結婚した。これ以後、イングランド教会(現在の呼称)はプロテスタントへの道を歩み始める。

※以降、桃山・江戸編で。

p146
一六〇三年、処女女王エリザベス一世死去。

p155
権利の章典(1689)は、立法府の議会が強い権限を持ち、永続的かつ独立した機関であることを保証した。また裁判官の独立をうたい、彼らの身の安全を確保した。こうしてイングランドはプロテスタントの国家だと確定。プロテスタントはもともと個人の自由を支持するところから始まった。新教(プロテスタント)は旧教(カトリック。教皇と司教ら)の権威への挑戦と、個人の良心や経験の相対的高まりから生まれた。
強い議会の国イングランドの宿敵である絶対王政のフランスとスペインはカトリック国だった。また議会を避けようとしたイングランドの国王たちもカトリックかカトリック寄りの人間だった。ゆえに、議会を保つこととプロテスタント信仰を保つことは、同じ信念となっていた。

p164
かつてのローマと同じように(ブルートゥス。ローマ共和政の創始者。自分の息子の処刑に同意した)、王政の復活を求めることは犯罪だった。
次のことが「妥協を許さぬ共和政の美徳」とされた。
一、すべてを国家(全体)のために犠牲にしなければならないという信念
二、流血を受け入れ、それを浄化と感じる心
これらが、近代で最初の全体主義国家フランスに対するローマ文化の貢献だった。

***

第6章 皇帝と教皇
p167
八世紀、ローマ教皇はランゴバルド人の侵入に対して東ローマ皇帝に助けを求めたが、皇帝は自国に侵入するイスラム教徒対策で手いっぱい。
教皇はアルプスの北のフランク人に助けを求めた。キリスト教徒のフランク王ピピンは南進し、ランゴバルド人を征服した。ピピンはローマを囲む帯状の領土が教皇のものであると確認。教皇領は一九世紀まで存続。
ピピンの子シャルルが後のカール大帝。
p168
西暦八〇〇年、ローマのクリスマス・ミサでカールの戴冠。教皇は自分を保護する独自の皇帝を作った。これは東ローマ皇帝に対する裏切り。
p172
カールの孫同士の争いと、ノルマン人の侵入でヨーロッパは西ローマ帝国崩壊後の状態に逆戻り。
九六二年、ドイツにあたる地域に王オットー一世。以後、ドイツの王なら誰でも、教皇から帝冠を授かればローマ皇帝になれた。後に神聖ローマ帝国になる。
p173
七人の選帝侯。
p174
一一世紀、教皇と皇帝の協力体制は崩壊。
p175
一〇七三年、グレゴリウス七世教皇就任。司教の任命は自分がする、と宣言。神聖ローマ皇帝ハインリヒ四世は、これまで通り自分がやると答えた。教皇は皇帝を破門。
一〇七七年、カノッサの屈辱

p180
一〇六六年、イングランドのノルマン・コンクエスト
(略)
教皇と皇帝という二大勢力が長く闘争を繰り広げ、戦いのために両者は各地方に幽していた権限を手放してしまった。その結果、きわめて小さな国や町は、失うものより得るものが多くなった。それらは巨大な勢力の影響をごくわずかしか受けない自治体だった。

p182
(ルネサンスと宗教改革の地)ドイツとイタリアは一九世紀後半まで小国家に分断されていた。この両国は国家的統一が遅れたために、古い国に比べて、ロマン主義運動の申し子である強烈なナショナリズムへと突き進む傾向が強かった。二〇世紀、ナショナリズムの名のもとに積極的かつ排他的にナショナリズムを採用したのが、この二つの国だった。※ヒトラーとムッソリーニ

p183
中世後半からハプスブルク家の出身者が常に神聖ローマ皇帝に。
p184
この家系は、スペイン、オーストリア、イタリアの一部、さらにオランダ、ベルギー、ルクセンブルクなどの君主を輩出。(略)この古めかしい帝国を滅ぼしたのは、ナポレオン・ボナパルト。フランス革命の一〇年後、フランスの運命を一手に引き受けた男。

p208 第八章 普通の人々
p217
文明を生み出したのは、全人口の八五%から九五%を占める農民たち。農民が自分の食べるだけの穀物をつくっていたら、都市も、領主や聖職者も王も、さらには軍隊も生まれなかった。彼らは皆、農民が作る食糧に頼っていたからだ。中世初期の農奴は穀物の一部を地代として領主(※地主階級)に納め、さらに別の一部を「十分の一税」として教会に納めた。時代が進むと領主や教会への支払いはカネ(非自然の人工物)になった。

***
導入 破壊的な諸力
p238
二〇世紀の二つの大戦に次の二つの力が大きな役割を。
一、ナショナリズム(知的起源はドイツ)
二、産業化(イギリスで生まれた)
※一は民主主義、二は資本主義
p240
一九世紀と二〇世紀、その数と信頼性を増した中産階級(都市の社長)は次のようなリベラルな政策を支持。王や貴族(土地持ち、地主階級)に挑戦。
一、代議政治
二、法の支配
三、個人の権利と自由
四、報道と団結の自由
五、営利を目的とする職業の自由

※田舎 保守派
一、地主階級(王・貴族・教会)
二、農民
※都会 革新派
三、中産階級(社長。ブルジョアジー)
四、労働者階級(プロレタリアート)

***

第9章 産業化と革命
p242
一八四〇年代、ドイツからやってきたフリードリヒ・エンゲルスがイギリスの都市労働者(マンチェスターなど)の生活を調べ、弾劾と予言の書『イギリスにおける労働者階級(プロレタリアート)の状態』を書いた。父の紡績工場の経営を手伝うためにイギリスに来たのだった。理論として共産主義を学んでいた。機械で商品を作ることは社会を二分化させる。中産階級の工場経営者(ブルジョアジー)と労働者(プロレタリアート)だ。エンゲルスはこんな劣悪な状態が続くわけがないと結論づけた。
p244
フランス革命が子どもの遊びに見えるほどの労働者の反乱が確実に起こる。エンゲルスの本をドイツの哲学者からジャーナリストに転向したカール・マルクスが読んだ。
一八四八年、マルクスとエンゲルスは共同執筆で『共産党宣言』を書いた。
すべての歴史はエンゲルスがイギリスで見たものと同じになる傾向がある。中産階級(金持ち)はかつて貴族(土地持ち。地主階級)と戦ったが、今度は労働者が中産階級を打倒する番。そして共産主義による労働者のための国家をつくらなければならない、と彼らは主張した。
※中産階級によるデモクラシー(英仏米)。
地主階級によるデモクラシー(日独)。
労働者階級(農民)によるデモクラシー(中ソ)。
p244
【イギリス】
p248
イギリス政府(貴族・地主階級&中産階級)はチャーティスト(労働者階級の指導者。政治的平等を求めた)たちに死刑を与えないことに決めていた。世論の怒りを買ったりしないため。これはイギリスが真の意味で自由な社会に達したこと。イギリス以外では、貴族・地主階級や中産階級を喜ばせたのは、労働者階級という敵を残酷につぶすこと。
p249
一九一八年、第四次選挙法改正で、成年男子普通選挙が達成され、女性にも三〇歳以上なら選挙権が認められた。
イギリスの統治者たちは、産業革命による混乱を収めた。古い憲法は段階的に労働者を受け入れ、イギリスは最も安定した国家と言われた。
p249
【フランス】
p254
パリ・コミューンを支えたのは工場労働者ではなかった。パリは工業都市ではなかったから。肉体労働者、建築労働者、小さな工房の熟練工。ここに学生、ジャーナリスト、プロの革命家が加わった。(略)それまでフランスはパリの労働者の思う方向には進まなかった。選挙になると、人口の大部分を占める農民は「私有財産の保全」や「教会の存続」を訴える候補に投票した。一八七一年、コミューン政府は農民の意志を理解し、自分たちがパリを統治するように、フランスの各地域の人間はそれぞれの手で自分の地域を統治するべきと宣言。しかしヴェルサイユの新共和政府は、王党派が多数で、パリに軍隊を送った。二万人のコミューン支持者が市街戦で殺され、続いて略式軍事裁判で死刑執行された。階級憎悪からの政治的浄化行為。(略)
p255
社会主義者と共産主義者(※違いは? あと全体主義と社会主義の違いは?)は、ほんの一時期(10週間)とはいえ労働者による政府ができた、という事実に大きな希望を抱いた。マルクスはフランスで階級闘争が起きたことを歓迎。その原因は彼とエンゲルスの予測通りではなかったが。マルクスは「コミューン支持者たちは非情さに徹しきれなかった。生まれたばかりの新しい共和政政府が足場を固めて自分たちの支配を全フランスに押しつける前に、コミューン支持者たちはヴェルサイユに向かって行進し、新政府を倒すべきだった」と考えた。
「支持者を求めるのではなく権力を維持すること。そのためには何よりも非情でなければならない」それがレーニンが引きだした教訓。この男がやがてロシアで共産主義革命を率いることになる。
***
社会主義者と共産主義者と全体主義の違い
https://ameblo.jp/a767483803/entry-11821551853.html
***
民主主義と社会主義の違いは?
別々ファイル参照
***
p256
【ドイツ】
ドイツは一八七一年までは統一国家ではなかった。その頃ドイツでは遅い産業革命が本格化。それ以前のドイツはいくつかの国のゆるい連邦。
一八一五年、ナポレオンを破った同盟諸国によって「ドイツ連邦」がつくられた。ナポレオンが滅ぼした神聖ローマ帝国に代わるもの。
p257
一八四八年、ドイツ統一への道が突然開かれた。パリの二月革命(ルイ=フィリップの君主政から第二共和政)はイギリス以外の全ヨーロッパに革命の火花をまき散らした。(略)自由主義者(都市の会社社長。中産階級。ブルジョアジー)は民主主義者(都市のサラリーマン。労働者階級。プロレタリアート)をおそれるようになった。
p260
一八七〇年
ビスマルク
ナポレオン三世
パリ・コミューン
南ドイツ諸国はドイツ連邦に加わった。
p263
一八七八年、皇帝暗殺未遂事件。ビスマルクは「社会主義者鎮圧法」を制定。
一八八八年、新皇帝ヴィルヘルム二世即位。(ヴィルヘルム一世の孫)社会主義をめぐり皇帝とビスマルクは対立。
※ビスマルクは厳しく反対。皇帝は穏やかに反対。
ビスマルク引退。
p266
【図48】英独仏の近代の歩みの違い

p270 第10章 二つの大戦(戦争の起源)
p272
当時のヨーロッパの列強は五つ。イギリス、フランス、ドイツ、オーストリア、ロシア。

p282
正しい議会政治が、ドイツの将軍からもたらされた。
ウィルソンは信用できなかった。彼は皇帝の退位を求めたが、一度は拒絶された。
(略)
ドイツ将軍発の上からの革命の次は恐るべき下からの革命。敗戦がわかると、ドイツの船員と兵士が暴動、労働者はストライキ。彼らは評議会をつくり、戦争の継続は望まず、皇帝の退位を求めた。評議会はロシアのソヴィエトに倣った。お手本はロシアだった。
ボルシェヴィズム(ロシア共産主義)の蛮行は、金持ちだけでなく、他の社会主義者にも向けられた。ドイツの社会民主党はまさにその対象。ロシア共産主義を止めることが、のちにヒトラーの目玉政策になる。
p283
革命はすべての権力を制限することで達成できる。これをヒトラーに教えたのはロシアのボルシェヴィキ支配であった。

※p287 あたりでまとめ
A 革命的社会主義者=労働者評議会(ソヴィエト)=共産党=バックにソ連=左翼
→革命を選びドイツを敗北させた。という理由で抹殺される。

最初は味方。後に敵。

B 社会民主党エーベル首相=ドイツ義勇軍=中間派(ほかにカトリックの中央党、中産階級の民主党)
→Aの抹殺遂行。しかし中層・上層階級や軍から感謝されない。それどころかドイツ敗北の原因にされる。つまり戦犯がAからBに転化された。

C 将軍ヒンデンブルクやルーデンドルフ=軍部=右翼
→一次大戦で軍を 背後から一突きしたのは政治家と主張。

のちに結合

D ヒトラー「Bは11月の戦犯だ!」

AはBを「資本主義の追従者」と非難。
AもBもDのナチズムには反対だが、組まなかった。
一九二五年、首相エーベルトの死後、右翼ヒンデンブルク大統領に。
一九三三年、ヒンデンブルクはヒトラーを首相に。

p293
ヒトラーは中産階級を軽蔑した。彼らは共産主義を憎んでいるのにその対処法を知らないから。「恐怖について対しては、ただ恐怖のみが勝つ」、これがヒトラーの信条。

これ以降p307まで、ヒトラーの話で終了。

p295
大恐慌が起こらなければ、そしてそれによってドイツが損害を受けなければ、ナチス党すなわちヒトラーによる大戦は起きなかっただろう。
一九三〇年、大恐慌の二年目、ドイツ連立政権崩壊。社会民主党は失業給付の引き下げに反対。(何百万人が頼りにしていた)
続く選挙でナチス党二・六%から一八・三%に。
一九三二年、不況のどん底の選挙でナチス党は三七・三%。四人に一人がヒトラーに投票。小都市や農村部。階級を越えて支持された。
ナチス党は、右翼のナショナリスト、中道の中産階級の政党の席を奪った。(ヤクザと社長)
労働者階級の政党(社会民主党と共産党)はもちこたえていた。
一九三〇年以降、ヒンデンブルク大統領は「緊急の権力」行使。連立政権ばかりで不安定だったから。
大統領は国会に依存しない政府(政権)を考える。大恐慌に対処し、共産主義者があおる「失業者の反乱」を止めるため厳しい法律をつくれるから。大地主、軍、大企業の一部は「民主主義を制限または停止」を求めていた。
p296
ナチス党と右翼ナショナリストの党が連立すれば議会で多数。ヒトラーは首相ならオッケー。ヒンデンブルク大統領は最初避けたが、最後は受け入れた。条件は、ナチス党から閣僚は三人まで。誤算。ヒトラー人気。古い政治家たちは疎外。
一九三四年、ヒンデンブルク死去。ヒトラーは自身を首相兼大統領に。
※ここタイムラグか?
見かけ上の合法性で、ナチス党独裁。法律は政府が作るという法律。議会三分の二以上必要。ヒトラーは早期選挙を大統領に迫る。(この大統領だれ? だからタイムラグ?)
選挙前日、共産主義者が国会に放火。ヒトラーが大統領に迫り、「共産党活動禁止」「共産主義者は強制収容所」。
p297
ここまでやってもナチス党選挙で四三・九%。ナチス党が全権委任法(授権法)成立のため、ナショナリスト政党とカトリックの中央党の支援必要。社会民主党は反対。共産党代議士は拘束か逃亡。法は成立。まず社会民主党やその他の政党の活動禁止。合法政党はナチス党のみ。
p298
水晶の夜

p299
チャーチル「宥和主義者は、食われるにしても自分が最後だと期待してワニに餌をやる人間のようなものだ」

p300
イギリス首相チェンバレン
一九三九年九月、ヒトラーがポーランド侵攻

p301
フランス
イギリス チャーチル
ロシア スターリン

p302
ホロコースト

p303
アメリカ ローズベルト
一九四五年四月

p304
ヒトラー自死

p305
一九四六年、チャーチル「鉄のカーテン」
一九五一年、ドイツとフランス、石炭と鉄
一九九三年、EU

p306
一九九一年、ソ連崩壊。ヨーロッパの解放。
二〇〇四年、欧州憲法は先行き不透明。批准までには程遠い。

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