20190921『平成金融史』西野智彦

『平成金融史』西野智彦

※安土編への掲載を検討
■八〇年代
p6
一九八〇年代後半の五年間で六大都市の商業地の価格は四倍に膨らみ、株価との両輪で市場の「強気」と「楽観論」を支え、新たなバブルのエネルギーを生んだ。だがはるかに大きな要因は、空前のカネ余りを生み出し、バブルの膨張を支えた「日銀の金融緩和政策」である。
八五年プラザ合意後の円高不況に対処し「為替相場安定の国際協調をリードする」というお題目で、日銀は八六年一月から五回、公定歩合を引き下げ、当時最低の二・五パーセント水準を二年以上続けていた。
(略)
バブル期の日銀副総裁・三重野康は、総裁退任後「口述記録」で「金融だけでバブルが生じるわけではないが、金融もバブルの片棒を担いだ」と認めた。(略)日銀は平成に入るや一気に引き締めに走った。

■八九年
八九年一月の平成入り直後から、政策変更(公定歩合引き上げ)を目指し、大蔵省への働きかけを本格的に開始した。(バブル前後の金融政策を総括した日銀の内部資料による)
問題点がいくつかあった。
一、世界的な利上げ競争を回避する。そのためには、債権国で黒字国日本が低金利を続けてアンカー(錨)の役割を果たすべきだ。この意見が盛んで、有識者も一定の支持をした。
二、米国当局も利上げに難色を示していた。
三、それ以上に日銀を当惑させていたのは、バブルにもかかわらず、国内物価が上昇しないどころか、マイナス基調を続けていたこと。国内の卸売物価指数は、バブル膨張の一九八七年以降も前年比マイナスを続け、公定歩合の利上げの議論が行われた八九年一~三月期もマイナス〇・一%だった。原因は
①円高効果で原油など輸入物価が大きく下落
②規制緩和や生産性の向上、女性労働力の本格参入など労働市場の構造変化を受けて賃金上昇圧力が抑えられていた
「物価の番人」を自任する日銀が、一般の物価ではなく、資産(土地、株式)価格の上昇を理由に利上げしたいと言っても簡単に理解は得られなかった。
p8
「(一般の物価上昇による)インフレの恐れがないのに、なぜ公定歩合の利上げが必要なのか」
こう問い詰める大蔵省などに、日銀は説明ができなかった。
三重野は口述記録で言う。
「」
「」
大蔵省の反対理由はもう一つ、長年の悲願だった消費税導入を四月一日に控えていたこと。大蔵省は言う。
「消費税を前に、インフレ懸念などと言って、よけいな波風を立てるな」
三重野も口述記録で言う。
「」
p9
五月下旬、膠着状態が動き出した。日銀金融政策担当局長に、エース格の福井俊彦が就いた。福井が瞬く間に大蔵省を口説き落とした経緯を、当時蔵相秘書官だった黒田東彦が証言している。
「」
五月三十日、
p10
十月、〇・五%
十二月、さらに〇・五%
十二月十九日、
総裁に就任したばかりの三重野
蔵相の橋本龍太郎が情報漏れをめぐって衝突
白紙撤回事件
「大人げない意地の張り合い」
三重野「」
p11
バブル退治に奮闘する「平成の鬼平」
三重野「褒められるとろくなことが起きない」
当時、バブルを意識しながら政策運営に当たっていたことは明らか
相次ぐ利上げにもかかわらず、株式相場は大納会で三万八九一五円八七銭の史上最高値をつけた。
十一月にベルリンの壁が崩壊
十二月のマルタ会談で冷戦終結宣言
国際情勢急変の中での、バブル最後の「燃焼」だった。

***

※江戸編以降に掲載
第一章 1990-1995 危機のとばくち(バブル崩壊と大いなる先送り)
■九〇年

■九一年

■九二年
p44
一九九二年(平成四)十二月二十五日、大蔵省四階の銀行局長室で、日銀理事の小島邦夫が寺村と向かい合った。「住専は整理するしかない」提案は次の四項目。
一、住専七社を一〇年ほどで整理
二、分割償却・受け皿会社の設立
三、融資金融機関がロスを分担
四、公的資金の投入
(略)
大蔵省銀行局の公式回答は「ノー」。さらに、関係金融機関に対する金利減免案の説得に協力せよ、と日銀に要求。

■九三年

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google フォト

Google アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中