20190620『世界史の実験』柄谷行人

『世界史の実験』柄谷行人(2019年)
【第一部】実験の史学をめぐって

※第一部の眼目は次の文だと思う。
「柳田が歴史に関して実験というより言葉を用いるようになったのは、社会を変える空前の実験がなされた状況下。第一次世界大戦後の状況。実験を典型的に示すのが、ロシア革命(一九一七)と国際連盟の創設(一九二〇)。これらはマルクス(社会主義革命)やカント(永遠平和のために)が考えた理念を実験するもの。」p28

【Ⅰ】柳田国男論と私
p4
一九七三年ごろ、文学以外の評論を試みた。
「マルクスその可能性の中心」と「柳田国男試論」。
マルクスは体系的(※世界観になる)で、それは史的唯物論、弁証法的唯物論、あるいは『資本論』に見出される。
日本ではそのころ、吉本隆明が「初期マルクス(疎外論)」、廣松渉が「中期マルクス(史的唯物論)」によってマルクスを新たに体系的に理解しようとしていた。
私(柄谷行人)は彼らとは違うことを考え、「後期マルクス『資本論』」でマルクスを理解しようとした。それは宇野弘蔵とも違った。
p5
一八五八(日米修好通商条約)年、マルクスはラサール宛て書簡で、かつて学位論文として書いた「デモクリトスとエピクロスの差異」についてこう述べた。
「エピクロスについて(略)断片からの全体系の叙述をやった(略)(意識的に)作品に体系を与えているスピノザの場合でさえ、彼の体系の〈本当の内的構造〉は、彼によって体系が〈意識的に記述された形式〉とはまったく違っている。」
※具体例をあげてほしいねえ。自分の中にブルースのコード進行があったとして、それを使って雅楽の曲をつくったとする。そんなことができるかどうかはわからないがたとえばの話。そうすると他人には雅楽に見えるが、その奥底は実はブルース。みたいな話なのか?
p6
マルクスは交換を重視。
命がけの飛躍。
※米と金属あるいは貝殻を交換するなんでバカじゃないのか、と。そのバカになってあえて交換する。それを「命がけ」と言っているのか?
キルケゴールは、神への信仰を命がけの飛躍と呼び、それができない状態を「絶望~死に至る病」と呼んだ。マルクス的に言えば交換に失敗した商品(売れなかった商品)。
p7
柳田は多領域。文学、農政学、民俗学、人類学、宗教学、言語学。体系化は困難。柳田学。
吉本隆明の批判《柳田の方法では「抽象」の本質的な意味は生まれない。珠子玉と珠子玉を「勘」でつなぐ空間的な拡がりが続くだけ》。
吉本隆明は柳田の『遠野物語』を材料に『共同幻想論』を書いた。つまり「数珠玉」を集めた柳田の本をもとに、それらを「抽象」し、ヘーゲルにもとづく体系的な認識を提示しようとした。
※世界観の流れは、宗教→へーゲル→マルクス? そしてポスト資本主義。
私(柄谷行人)は吉本に異議があった。(略)
p9
吉本に啖呵を切った。「柳田国男その可能性の中心」を書こうとしたが書けなかった。
「内的体系」や「方法」を見出すことに成功した気がしなかった。
※その内的体系あるいは方法が「歴史の実験」か。ヒントをジャレド・ダイアモンドにもらって? 知りたいのは、その方法を実行して世界が変わるのか、どうなのか。

p10
「児童(童話)」「風景」「大人の文学(近代文学)」は、近代に作り出されたもの。 ※幻
p11
二〇一〇年『世界史の構造』で「交換」問題が一段落。
二〇一一年、東北大震災のあと、大勢の死者に震撼して、柳田を再考。柳田が第二次大戦末期に書いた『先祖の話』を読み返した。
p12
私の前年出版『世界史の構造』の観点では、柳田がいう「山人(やまびと)」を「原遊動民」として見ることができる。
(略)
中国の近代文学は、日清戦争後に日本に留学した人たちによって担われたもの。日清戦争で従軍記者として活躍し名声を得たのに、戦後、虚無感から北海道に移住しようとした人物、柳田の友人国木田独歩を中心にして論じたのが『日本近代文学の起源』(柄谷)。
※日清戦争が日中の近代文学を生んだ。
p13
魯迅は故郷の紹興に帰って説話を集めた。魯迅の小説はそこに根ざす。柳田的意味の近代文学批判をはらむ。※魯迅は中国の柳田。
p15
(私の)柳田の内的体系の把握はうまくいかなかった。しかしある本を読んだら閃いた。ジャレド・ダイアモンドら『歴史は実験できるのか』。
p20
私が『歴史は実験できるのか』(ジャレド・ダイアモンドら)を読んで、かつて柳田国男が似たことを考えていた、と思った。
柳田は海軍軍人で太平洋諸島の事情に通じていた。一九二一年、ジュネーブの国際連盟委任統治委員に就任したのは、太平洋諸島の委任統治を通して研究ができると考えたのだろう。

p26
※柳田國男は人類史をやりたかった。そのための郷土研究。蝸牛の名前が同心円状に分布する。周辺は古層である。日本列島は人類史研究には便利な地域。ジャレド・ダイアモンドにとってのニューギニア。
p27
「実験の史学」にこそ「真の地方主義」があると柳田は言う。しかし一九三五年以降口にしなくなる。
※昭和十年、戦争が原因か。それはさておき、人類史をやって、人間が生きる意味を見いだそうとしたか。とすれば同志。

p28
柳田が歴史に関して「実験」という言葉を用いるようになったのは、社会を変える空前の実験がなされた状況下。
第一次世界大戦後の状況。実験を典型的に示すのが、
一、ロシア革命(一九一七)
二、国際連盟の創設(一九二〇)
これらはマルクス(社会主義革命)やカント(永遠平和のために)が考えた理念を実験するもの。

※知りたいのは、その方法(歴史の実験)を実行して世界に永遠平和を実現できるのか、どうなのか。
ロシア革命は1990年に実験失敗。
国際連盟は二次大戦後に、国際連合に変わったという意味で失敗。
では、実験中のアメリカあるいは安保理常任理事国(※アフロ注意の五国)中心の国際連合は、永遠平和を実現するという目標を成功させることができるのか?
とまあ、この本はそんな話だろう。

p29
■カントの場合
カントの『永遠平和のために』は単なる平和論ではない。カントはルソーの市民革命を支持した。しかしそれは一国で起これば、周囲にゆがめられる。フランス革命はそうなってしまい、世界戦争(ナポレオン戦争)につながった。カントが目指したのは、「たんなる平和」ではなく、戦争を不可能にするような「世界同時的社会革命」でした。
このカントの考えは一九世紀無視されたが、世紀末、帝国主義戦争のときに蘇る。日本でも北村透谷がそれにもとづいて平和運動を起こした。
カントの考えが蘇った結果、第一次大戦後に国際連盟ができた。しかし無力。アメリカ大統領ウィルソンが提唱したのに、アメリカ議会で賛成されず不参加。
一九二八年、カントの考えはパリ不戦条約として実現。戦争放棄と、平和的手段による解決。しかしこれも無力。
※その年、日本では張作霖爆殺事件。
日本の戦後憲法、九条で実現された。
p30
■マルクスの場合(※社会主義による永遠平和の実現)
マルクスは言う。「共産主義は、主要民族が一挙に、かつ同時に遂行してのみ可能である。それは生産力の普遍的発展とそれに結ばれた世界交通を前提とする。」
※究極の生産力=人々の「一般的知性」リンクしたAIか。そして、それに結ばれた世界交通=インターネットか。 だとすれば、マルクスは現代でも生きている。ポストキャピタリズムの一つと言える。まあ人間が選ぶ新しい宗教候補の一つとして今でも有効。

要するにマルクスは「一国革命と永続革命(*1)」を否定した。
(*1)一度国家権力をとったら手放さずに革命を続けること。
※毛沢東あたりがそんなことを言ってたような?

しかし、一九一七年のロシア十月革命は一国革命また永続革命だった。そのあと結成の第三インターナショナル(コミンテルン)も、ソ連一国に従属するだけのもの。
カント(平和論)とマルクス(社会主義)の世界同時革命論は結びつけられたことはないが、近い。
p31
そのことは一九三〇年以後わかってくる。一九二〇年代、この二つは併存しつつ、世界を形作った。日本の大正デモクラシーはその現象。
柳田国男は、一九一九年に貴族院書記官長辞任、一九二〇年に東京朝日新聞社客員として論説、一九二一年にジュネーブの国際連盟委任統治委員に就任。国際連盟事務局の次長であった新渡戸稲造に誘われたから。
国際連盟は当事者でさえわかりにくかった。国際連盟を推進したウィルソン大統領の国(米)が入っていない。しかし、国際連盟事務局の事務総長ジェームズ・ドラモンド(英)は、ウィルソンの支持によって任命された。その下にドラモンドが任命した三人の次長(仏、伊、日)。それが新渡戸稲造。

p32
新渡戸稲造は書いている。
「これらの人々は本国を代表するものではなく、一種の国際人。本国の利害を離れて国際事務を処理。本国より俸給も受けない。連盟研究者はこの理解に苦しみ、やはり事務職員を各国の代表と思っている。」(『新渡戸稲造論集』)
ちなみに新渡戸稲造は、札幌農学校で内村鑑三と同期。共にメソジスト派に入信。のち渡米し、クエーカー教に改宗。英文で『武士道』を書いて、世界的に知られた国際人。
(※つまり有名人ではあったが)正式な日本代表ではない。この点からも国際連盟は「実験」だった。もう一つの「実験」ロシア革命とともに日本に大きな影響。
p33
柳田が委員になったのも、新渡戸に頼まれただけで、日本から派遣されたのではない。太平洋の島々に行き、調査がしたかった。
「島文化は知られていない。裏南洋の島は七百までは人が住んでいる。互いに違った歴史と生活をしていることが、大陸の連中にはわからない。〈人〉の発達を、歴史から考えることができるので、島国日本は恵まれている。しかしそれに気付かぬ者だけが政治をしている。だから我々は〈公平〉を話す資格はない。」
(「ジュネーブの思い出」『柳田國男全集』)
※柳田國男は、日本のジャレド・ダイアモンドだったのかあ。

p34
一九〇九年、柳田と新渡戸は台湾で知り合って、一緒に郷土研究会を始めた。一九一九年柳田は官僚をやめてジャーナリストに。それも新渡戸稲造との出会いに始まるといえる。柳田が始めた「郷土研究」は、日本の郷土を、世界人類史を見る実験の場としては見出すもの。それを彼はジュネーブで継続。
ソシュール(一八五七~一九一三)ジュネーブ生まれ~パリ大学から一九〇六年帰郷。死去まで一般言語化を講義。ジュネーブは現代言語学の故郷。
一九二〇年代の実験、エスペラント運動。一九二二年に柳田は新渡戸とともにエスペラント公用語運動~フランス反対で挫折
p35
エスペラント~
最初の言文一致小説『浮雲』(一八七七)二葉亭四迷、
一九〇二年ロシア滞在でエスペラント学ぶ、
一九〇六年に入門書出版、
一九〇四年に夏目漱石に先駆けて朝日新聞記者に。
のちに柳田国男が官庁をやめて朝日新聞に入社する遠因。
一九二三年、関東大震災のため柳田帰国。
積極的に政治活動開始。
民本主義政治学者吉野作造とともに朝日新聞の論説委員に。
普通選挙実現運動の先頭に。柳田は吉野作造とともに大正デモクラシーの一翼。
p36
吉野作造もエスペランティスト。
彼が東大で指導した学生団体「新人会」からマルクス主義者多数。
吉野の下で、カントとマルクスが接合されていた。それが大正デモクラシー。
一九二五年、普通選挙法成立。二八年(張作霖爆殺事件)、第一回普通選挙。柳田失望。人々は地域の親分に従っていたから。
p38
さし迫った一国共通の大問題(拉致問題とか?)なども、必ず理由は過去にあるのだから、これに答える者は歴史でなければならぬ。人がそういう史学を欲しがるときが、今まだ来ていなければ、近い未来にはきっと顕れる。(『実験の史学』)
しかし一九三一年満州事変、翌年満州国、国際連盟からの批判(リットン調査団)を受けて、三三年に国際連盟から脱退。
柳田は一九三五年『実験の史学』を書いたあと、それについて言及しなくなった。
※前年、五・一五事件
第二次大戦後、柳田は直ちに再開。

***

【Ⅱ】実験の文学批評
p48
柳田と島崎藤村
父は共に平田派神道の神官
平田派の復古=社会革命の運動は、維新以後五年で挫折、

p49
藤村の父、島崎和歌子正樹は、中山道馬籠宿で一七代続いた本陣・庄屋の当主。平田(篤胤)派の国学を学び、王政復古による世直し(※ユートピアの実現だね)を熱烈。特に、山林を古代のように共同所有する改革を求めた。
※マイケル・ハートの〈コモンズ〉。あるいはジャレド・ダイアモンドの本にもニューギニアかどこかの社会にその例があった。

森林使用を制限する尾張藩を正樹は批判。明治維新の結果、正樹は戸長(※いまの町村長)となり、木曽山林の解放運動に奔走。この時点では平田派の勝利。が、明治五年、神祇省の廃止。つまり明治政府は、西洋文化の導入(文明開化)を進め、山林の共有は禁止し、国有化(皇室財産化)を進めた。正樹は戸長解任。一八七四年(明治七)上京、教部省の雇になり、翌年、飛騨水無(みなし)神社宮司、そして帰郷。一八八一年(明治一四)天皇北陸巡幸のとき直訴を試み、叱責。挫折の末、発狂して放火し、座敷牢に。一八八六年(明治一九)五六歳で死去。
※なんか、壮絶だね。激しすぎだ。

ⅱ 柳田國男
p58
※「経世済民」という言葉は、要するにユートピアの実現を目指すこと。資本主義ではユートピアを築けないことがわかった現代、ポストキャピタリズムは、いかなる姿をあらわすのか?
p60
柳田國男は一六歳の時、森鴎外の門を叩いた。医者の三兄に連れられて。鴎外も軍医。

医学部から陸軍に入った鴎外は一八八四年、二二歳のとき、ドイツに四年間留学。ヨーロッパが、ロマン主義から自然主義に移行するのを感じた。代表例が自然主義のエミール・ゾラ。(『居酒屋』など)

*1 啓蒙主義=理性。17世紀後半から18世紀。
*2 ロマン主義=感性。盛り上がればいい。反啓蒙主義。18世紀後半から19世紀中頃。
*3 自然主義=社会を赤裸々に描くこと。19世紀末から20世紀前半。

p61
ゾラの自然主義の実験性
科学者クロード・ベルナールが物理に限られていた実験方法を征服研究に拡大したことに影響された。ゾラは実験方法を人類学・社会学に拡張。進路の末端が「実験小説」。
※実験小説って具体的にはどんな方法で書くのかね?

ゾラの自然主義の政治性
一八九五年のドレフュス事件で、ゾラはユダヤ人のドレフュス大尉を弁護して闘った。

日本の自然主義には、実験性や政治性がない。それは、一九一〇年の大逆事件のあと、石川啄木が『時代閉塞の状況』で痛烈批判。啄木は若くして森鴎外に依頼されて雑誌『スバル』の創刊時に発行名義人になったほどだから、ゾラのことも知っていたはず。

p68
柳田が実験と見なすのは、各地で採集した話を「比較」すること。
民族学とはそのような実験。

※ん? よーするに「比較」を「実験」と言っているのか。

p73
柳田の仕事「中農養成策」~受け入れられず、農商務省から法務省(法制局)に移される。
~炭焼きの男が二人の子供に殺してくれ~
この事件に柳田は深い絶望を見た。
~飢饉のせいだけではない。人々が互いに孤立しているからだ。「孤立貧」
~脱するには「協同自助」しかない。
p74
一九〇八年に柳田は調査旅行で宮崎県山岳部の椎葉村~協同自助が現に存在~深い感銘~焼き畑農業と狩猟の村
※ルソーの自然に帰れ、か。協同という言葉はポストキャピタリズムを連想させる。協働型経済。

富の均分というが如き社会主義の理想が実行
ユートピア~
トマス・モア~十六世紀末イギリス「エンクロージャー」羊が人を喰っている。
p75
トマス・モアはアメリゴ・ヴェスプッチ『新世界』に伝えられたブラジルのユートピアを見いだす。
椎葉村は柳田のユートピア~
平田派の活動家に近い~
木曽山林の農民運動~
一八四〇年代のドイツ~マルクス~材木窃盗罪
p76
エンゲルスは一八四八年の革命の挫折後、一六世紀ドイツ農民戦争をとりあげた。トマス・ミュンツァーによる千年王国運動~共産主義~一六世紀加賀百年一向一揆
p78
大日本帝国憲法(一八八九)神道はキリスト教や仏教などと区別され、「信仰」でなく「敬神」の対象。
※信仰と敬神の違いがわからん。

国家神道のもとで、大本教や天理教が弾圧~敬神の対象である神道を危うくすると見なされたから。
※やはりよくわからん。カトリックの宗派争いのようなものか? ネストリウス派とかの。
敬神の対象=神道=日本人全員が敬うべし
信仰の対象=その他宗教 ってことなら、よーするに「国教」でしょ。

皇室にも問題~
p80
一九〇六(明治三九)神社合祀政策から、柳田は国家神道の問題に直接関与。この政策は、小さな神社を廃して、一町村一神社とする。これは神社を宗教ではなく行政手段と見る。これによって一九一四(大正三)までに全国二〇万社のうち七万社が壊された。
p81
柳田の回想~三重・和歌山の二県などは、神の森に巨木があったために、大阪あたりの商人が(※神社を廃止して髪の森の巨木を手に入れて儲けるために)合祀の運動をする。こんな悪評さえあった。
南方熊楠(植物学者)は、怒ってあばれまわり、刑事問題まで起こした。(「氏神と氏子」『柳田國男全集14』ちくま文庫)
そのあと柳田と南方熊楠の交流~
日本の人類学・民俗学の起源~
南方熊楠は自然保護のため、柳田は本来の神道の手がかりを見たから。
柳田の考えでは、氏神とは先祖霊の融合体。神社合祀は、氏神殺し。神道の国教化で、神社は巨大化するが、そこに祀られるのは国家であって、神ではない。小さな村の氏神・先祖神にこそ神道がある。それが「固有信仰」であり、民俗学はそれを明らかにするために不可欠と柳田はいう。

※「固有信仰」を明らかにしたらどうなる? 日本人の心がわかる? わかれば「民衆の政治経済的な自立の鍵p83」が見つかる。その「鍵」に合う政治をしてユートピアをつくろうってか? p83に回答あり。柳田は民族学によってユートピアをつくろうとしていた。マルクスの社会主義論やカントの平和論のように。「協同自助」という言葉から、柳田の民族学ユートピアは、協働型経済(マイケル・ハート〈コモンズ〉)に類するものか。柳田も脱資本主義を考えていた。ここでもポストキャピタリズム。

p82
柳田はその後まもなく、郷土研究会(一九〇九)~雑誌「郷土研究」(一九一三)~

p83
一九二〇年代、柳田の研究は、
一、国学あるいは神道の面は目立たない
二、「公民の民族学」の面が目立つ

※「公民の民族学」=新たな社会体制としての民族学、すなわち「民族学の研究に基づいた国際的な新社会体制=グローバルな脱資本主義」ということか。ならば、現在のマイケル・ハート、マルクス・ガブリエル、ボール・メイソン、スティーブン・ピンカーと並ぶ国際的志向といえる。

一九三〇年代、満州事変をきっかけにして戦時体制が急激に進められた時代だから、柳田はジュネーブ以来の国際的志向を断念。あるいは、民衆の政治経済的な自立の鍵を民俗学に見いだすことを断念。「公民の民俗学」の面を断念。

※民俗学によって柳田はグローバルなユートピア思想をつくろうとしていた、か。なるほどね。

国学ないし神道の面が目立つようになる。その意味で柳田は「転向」した。柳田はこの時期から「一国の民俗学」あるいは固有信仰の探求を積極的に始めたといえる。

※世界のユートピアから、日本だけのユートピアってことかい? ユートピア=社会主義だから、政府にバレたら逮捕? これもp83に回答あり。逆。迎合ではない、と柄谷は言う。けど、「転向」=迎合でしょ。ああ、戦いの場を「世界」から「日本」に変えたってことね。だから、迎合ではない。世界を相手に思想確立という戦いをしていたが、居住地である日本がおかしくなってきた。だからまず足元を固めるために戦う相手を、時の日本政府に変更した、と。そういうことね。ならば、「転向」ではなく「変更」と書いてよ。「迎合ではない」ではなく「発表はできないからしないが、意見を変えたわけではなく、研究は変わらず続けた」と書いてよ。

この時期はマルクス主義者が弾圧され、ほとんどが転向した。
一九二八年の大弾圧(三・一五事件)に始まり、
一九三三年の共産党幹部である佐野学・鍋山貞親の転向声明で決定的に。
おもしろいのは、転向した中野重治をはじめとするマルクス主義者らが柳田の門を叩いたこと。彼らの運動に欠けていた認識を柳田に見いだそうとした。

※「欠けていた認識」とは?

柳田の固有信仰は戦争体制への迎合ではない。逆。むしろ柳田の弟子たちの比較民俗学が、「五族共和」や「東亜新秩序」が唱えられた情勢に迎合するものだ。

※なぜ「迎合ではない、逆」といえるのか? さっき柄谷は「転向」と書いたではないか? 国際的思考は断念せざるを得ないが、ならばまず目の前の問題である戦時体制日本を変えてやる、ということか。だから「一国民族学(日本の固有信仰)」を積極的に探求、なのか。ということだね。

また柳田の固有信仰あるいは原始神道の探求は、右翼の国学イデオロギーに迎合ではない。その逆。
※これまた、なぜ逆といえるのか? 右翼の国学イデオロギーはペケだとわかっていたから、か。そういうことだろね。

p84
柳田の固有信仰はつぎのようなもの。
人は死ぬと御霊(みたま)になる。死んで間もないときは「荒みたま」。子孫の供養や祀りをうけて浄化されて御霊になる。それは一定の時間がたつと、一つの御霊に融けこむ。それが神(氏神)。氏神すなわち祖霊は、故郷の村里をのぞむ山の高みに昇って、子孫の家の繁盛を見守る。生と死の二つの世界の往来は自由。祖霊は、盆や正月にその家に招かれ共食し交流する存在。現世に生まれ変わってくることもある。

このような考え(柳田のいう固有信仰)はありふれたものではない。日本人の多くは聞いたこともないはず。
具体的には、先祖といっても、近年に死んだ身近な先祖が大切で、それを祀るついでに先祖総体が祀られるだけ。これは差別。
柳田の固有信仰では、そんな差別はない。すべての霊が祖霊集団に融けこんでいると同時に、それぞれが個別的に存在する。

※よーするに古代以来の「あの世の宗教」。現代の新興「科学とIT教」をひっくり返せるものではない。いや、ここ五〇〇年蔓延している「資本主義教」すらひっくり返せないだろう。

『先祖の話』一九四五年四月に書き始められ、一〇月二二日に書き終えられた。
p86
柳田は一九三〇年代に「実験の史学」を断念して固有信仰の探求に。それが『先祖の話』。
p87
外地で死んだ若者たちが、国家神道が作った靖国神社のような空疎なところに行くはずがない。

※これは異論あるだろうなあ。てか、よーするに「死者を含めた社会設計をしろ」ということか。実際に死後があるとかないとかではなくて。いやそれなら今で十分でしょ。神社お参り自由だし。何が違うの?

p87
柳田がいう「あらたな社会組み」は、このような戦争を二度と起こさないようなものにすることを意味する。柳田が敗戦の三日前に「いよいよはたらかねばならぬ世になりぬ」と書いたとき、長く封印してきた「実験」の時が到来したことを感じていたはず。

※なるほどカントの永久平和か。戦争のない体系的思想(世界観)を設計しようってことか。現代ならAIを含めて設計。作家や漫画家たちがいろいろ書いて(設計して)いるなあ。戦時体制に「迎合してない」から、研究は続けていて、敗戦で戦時体制が消えたから「いよいよオレの出番だ」とこういうことか。

柳田は枢密院顧問として新憲法制定のみ審議に加わった。
九条は一九二八年パリ不戦条約に由来。
国際連盟と同じくカントの理念でつくられた。その意味で、一九二〇年代の「歴史の実験」の一環。
p88
柳田が戦争末期に、一九三〇年代に抑えていた「実験」の再試行の機会到来と考えたのは明らか。

※柳田の実験=カントの理念を日本で実験するってことね。現在2020年まで日本は戦争をしていない。そういう意味では「理念の言葉化(憲法九条)」は有効だと判定できるのか。いやあ、日本人の民族性では? 他国ならとっくに憲法を変えているのでは。自衛戦争はやるし、軍隊は持つ、と。カントの理念は一国で実験しても意味がない。世界同時でなければ。だから国連のパワーアップが現在望まれる。トランプや習近平やプーチンの独裁を止めるために。

占領軍の総司令官マッカーサーは、回顧録で、九条提案は幣原首相と書いている。幣原はかつて外交官としてパリ不戦条約に立ち会った。

※幣原が九条提案したというのは、うそ。

実際には、米占領軍内の左派(ニューディーラー)。彼らはパリ不戦条約の精神だけでなく、文言そのものを九条で用いている。ただ彼らは朝鮮戦争が始まる時期にパージされた。マッカーサーはその時点で九条の廃棄ないし改正をはかったが、吉田茂首相に拒否された。吉田の意見というより、九条が日本人に支持されており、それに反する政権が成立しないことが誰の目にも明白。

※これはどの程度本当なのだろう?

顧問の柳田が「あらたな社会組織」に、戦争における死者を含めていたのは確実。
現在の日本憲法は、カントの理念に発し、さかのぼっていえば、アウグスチヌス『神の国』に発する。

※それほど長くサピエンスは戦争のない世界を夢見ているってことだね。

p90
現在もほぼ古い形のままで、霊はこの国土の中に相隣して止住し、徐々としてこの国の神となろうとしている。このことを信ずる者がたしかに民間にはあるのだ。
(「先祖の話」『柳田國男全集』)

※結局「超越者を設定する古代以来の宗教」だねえ。それでは現代の「資本主義教」も新興の「科学IT教」も倒せない。「脱資本主義教(ポストキャピタリズム)」のパーツにはなるかも。

***

※第二部の目的は「山人」=非資本主義社会を説明すること。それは誇り高い社会なのだ(p125)、と。

【第二部】山人から見る世界史 p93
p95
■1 柳田国男のコギト
近代哲学はデカルトとともに始まるとされる~精神と肉体、主観と客観の二元論~しかし私(柄谷)は十代からファンで紋切り型の批判にうんざり。~一九六〇年代のデカルト批判は構造主義。レヴィ・ストロースは、コギトの明証性から始めたデカルトに対して、「私は他者である」と言ったルソーを誉めて、人類学の祖を見た。私(柄谷)は納得できなかった。デカルトは部屋に閉じこもって考えるタイプではない。未開社会を含む世界各地を放浪して考えた。『方法序説』はオランダ亡命後一〇年ほどしてから。
p96
『方法序説』を読む限り、デカルトは自己あるいは主観の明証性から出発する近代哲学の祖のようには見えない。むしろ逆。レヴィ・ストロースはルソーよりデカルトに似ている。数学的構造に基づいたことも含めて。
(略)
「デカルト=主観から出発する」批判の原因は二つ。
一つ目。
「われ疑う」を最後に急に「われ思う」に変えたから。われ思う=自己意識、とみなされてもやむを得ない。
しかし「われ疑う」と「われ思う」は違う。
※次の文の意味不明。
「疑う」ことは、異なる言語や文化の体系の間にあるとき、そのときにのみ可能。
※「異なる言語や文化の体系の間にある」とは? 関西人が関東のうどん出汁を見て、こんなんうどん出汁ちゃうやろ? と思っている状況のことを「疑う」というのか?

また「疑う」ことは、「思う」ことと違って、強い意志を必要とする。したがって、疑うがゆえに「われ」が存在するといっても不適切ではない。
p97
スピノザ「コギト・エルゴ・スムは三段論法ではない。『私は思いつつ、ある』という意味だ」デカルト擁護。
したがって、デカルトがコギトと呼ぶものは、自己意識や主観ではない。むしろ後者(※自己意識や主観?)の自明性を「疑いつつある」ことこそがデカルト的。
p98
二つ目。
なぜ突然ラテン語なのか。
ラテン語は一人称の主格は動詞の語尾変化の中に潜む。
p100
そもそも日本語では、主語というべきものはない。明治以後、英文法に基づいて考えられた。
p103
思うわ、ゆえに、あるわ

p108
マルクスは共産党宣言の冒頭で書いた。
「一つの妖怪がヨーロッパをさまよっている。共産主義の妖怪が。旧ヨーロッパ(※資本主義)のあらゆる権力が、この妖怪を退治するために真正な同盟を結んでいる」
ちなみに、マルクス(1818_83)はハイネ(1797_1856)と一八四三年から二年ほど、亡命先のパリで親しくつきあった。ハイネが『流刑の神々』を構想したのはこの時期。また、一八四八年、マルクスはエンゲルスと『共産党宣言』刊行。その意味で、二つの異なる「妖怪」は同じ源泉。
※マルクスの言う妖怪=共産主義。ではハイネの言う妖怪は?まあまた後日。

■2何か妖怪
p109
※妖怪=山人の生活=共産主義ってことか? 原始に戻れるのか。原始=ポスト資本主義はどうすれば可能か。AI 含めて設計可能か。

■3 山人の歴史学
p109
柳田は、常民あるいは農民大衆の心性を探求したことは事実であるが、山人を彼らの共同幻想に還元したりはしなかった。(吉本隆明のように)
その逆に、彼は歴史的な実在としての山人を生涯追い続けた。柳田は、山人は日本の先住民で、稲作を行う人々が来たあと山地に逃れた者であるという仮説を立て、実証しようとした。
※そして山人の生き方こそがユートピアだから還れと?

p112
柳田は一九三五(昭和一〇)年「一国民俗学」を唱えた。ナショナリズムの逆。柳田の弟子たちが、日本の大陸侵攻に呼応するように「比較民俗学(各民俗文化の多様性を保持しながら統合するという「大東亜共栄圏」のイデオロギーがあった。それは国際性を掲げるナショナリズムにすぎない)」を唱え始めたから、柳田は異議申し立てした。
※柳田や柄谷は「統合」に反対なのか? 柳田の一国の言葉は、自国である一国を守る、他国に犯されない、の意味か。

p113
外地で戦死した若者は先祖(神)になれず、さまようほかない。靖国神社はまやかし。第二次大戦は(日本の)固有信仰に反する。
※虚構の死後を世界設計に含める。ポスト資本主義として可能か? 死後をどれくらいの人々が信じるか?

■4 原無縁と原遊動性 p114
p115
一九九〇年代、冷戦の終わりとグローバル資本主義の下で、以前はラディカルに見えた「ノマドロジー」が、新自由主義に適合するイデオロギーと化した。孤立していた網野史学が社会的に受け入れられる。
※ノマドは遊牧民
しかしノマドは、遊動だけでなく各種遊動民を意味する。差異が重要。柳田の山人と山地民。前者は定住以前のノマド。後者は定住以後に生まれたノマド。
p116
遊牧民や芸能的漂泊民は、山地民に類似。~柳田は、日本の武士は山地民、首領採集焼畑農民と考えた。国家に対抗しても国家を否定はしない。※悪党とか。
これでは資本主義に対抗できない。(柄谷)
p117
定住以前のノマドを網野は「原無縁」と語る。
本書『無縁・公界・楽』(一九七八)は『共産党宣言』と似た、次の予言で終わる。(略)
p118 日本の人民生活に真に根ざした「無縁」の思想、「有主」の世界を克服し、吸収しつくしてやまぬ「無所有」の思想は、失うべきものは「有主」の鉄鎖しかもたない、現代の「無縁」の人々によって、そこから必ず創造されるであろう。
※私有財産の否定。トルストイ。
柳田の「山人」=網野の「原無縁」=柄谷の「原遊動性」。柄谷は原遊動民を理論的に把握可能と考える。方法はマルクスが『資本論』の序文でのべた「(経済力諸形態の分析では)抽象力」。

※柳田の「山人」、網野の「原無縁」、柄谷の「原遊動性」で、脱資本主義(自由・平等・博愛)をやれ、と。こんな話だな。しかし、それは一万年前に帰れってことだよな。科学技術をどうするかが読めないねえ。

■5 原父と原遊動性 p119
■6 武士と遊牧民
p129
柳田が九州の山地に見た焼畑狩猟民も、実は武士。~古代王朝国家は彼らを制圧できなかった。王朝国家に組み込もうとしたが手に負えず、それを媒介して武士が国家権力を握った。この時期まだ武士と農民は一体。分離は近世。「兵農分離」。柳田は「悲惨なる大革命」と。山地民の自由独立性が失われたから。
p130
ベトナムにおいて~
p131
ベトナムはモンゴルを三度撃退。

■7 インドの山地民と武士 p134

■8 海上の道 p140

■9 山人の動物学 オオカミ p147

■10 山人の宗教学
p155
カザフスタン~祖霊信仰のイスラム教
p156
ユダヤ教~先祖崇敬
p157
ライプニッツ~先祖マテオ・リッチ
p159
カトリックのお盆~十一月
p162
柳田のいう固有信仰の特徴は「互酬関係」がない。
p163
タレンシ族の祖霊信仰が互酬的なのは父系的なリネージ(?)だからだ。

■11 双系制と養子制 p164
■12 山人と山姥 p177
■13 夫婦喧嘩の文化 p183
■14 歴史意識の古層 p190

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