白い指先の小説 片岡義男

p246 孤独というありかたは素晴らしい出発点だ。

自分らしさの核心の内部に向けて、好きなだけ時間をかけて存分に思考をめぐらせどの主人公も自分なりに降りていこうとしている。

※自分などない。

なぜそんなことをするのか。自分が生きてここにある日々に意味(価値)を見つけようとしている。より良く生きる。自分がより自分になれるように生きるのだから、すべては自分の内部の問題であり、外界は関係なく、それだからこその孤独というありかたなのだ。だから孤独は、最高に価値のある大切な状態だ。それぞれの現在の状況のなかで考え得る、限度いっぱいの解放と自由を体験しているから。

※孤独は自由という解放。誰にも迷惑をかけていないという安心感。

p248 言葉は、物質でも現象でもなく、精神だ。目に見えるものが世界のすべてだと思い込むことによってもたらされる際限ない不自由さから、自分が言葉になることによって、彼女たちはとっくに脱出している。彼女たちは精神的な存在だ。※小説を書いているときだけは。あるいは麻雀をしているときだけは。

(彼女たちと、)自分ではなにも考えない人の、現象のみにとらわれ続ける不自由さとのあいだにあるはずの、途方もない落差。

※現象はカネと暴力。あるいは資本主義。

※男と女の間に世界がある。世界と男の間にカネと暴力の壁がある。

p249 言葉は使い回し。言葉は個人ではなく、ただそこにいつもあるもの。彼女たちは「自分の」言葉など絶対に語らない。言葉は個人を越えている。言葉が作り出す物語のどこかに普遍性が宿れば、と彼女たちは願う。その願いは、物語の言葉だけが残って「自分」はどこかへ消えてしまうという孤独の深まりを歓迎する。

※そうではない。消えるも何も「自分」など最初から存在しない。燃える薪の炎は、薪が燃える前には存在せず、薪が燃え尽きれば存在しない。

※それとも片岡義男は、生滅滅已寂滅為楽とでも言うつもりか。笑

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