真説本能寺の変 安部龍太郎 立花京子 ほか

2002.6.10発行

p28 立花 フロイスが何を言ったかというと、デウスのおかげで信長は全国制覇をここまで遂げられたのに、自分の力だと錯覚して傲慢になった。だからデウスは、信長が自分を拝ませるようになって、命を一九日しか与えなかった、と記しています。ということは、フロイスはその「変」にイエズス会が関与していたと言っているに等しい。信長の全国制覇のために、鉄砲の技術も教え、貿易で莫大な利益も与え、宣教師が集めた情報も、鉄甲船をつくる技術も、諸々便宜を図ったと考えられます。

安部 火薬にしても国産の火薬はなかなかつくりにくかったわけですから、多分中国(明)産の硝石を宣教師連中が握ってたはずですから。

立花 それは全部輸入に頼っていたんです。ですから、宣教師の力なくして信長は戦争に勝てなかった。あんなに勝利を得た理由は、いろんなことが言われていますけど、まず海外技術のおかげです。それなのに、信長はイエズス会の言うことを聞かなくなった。聞いていると、全国制覇し布教して、挙げ句に中国大陸まで行かなければならないことになるんです。フロイスのほうではそう言っているんですから。信長の課題として、フロイスら宣教師たちは彼にそのことを義務付けていたんです。信長はそこまでする気がない。途中でいやになったか、初めからその気がなかったか、とにかく言うことを聞かなくなった。非常に宣教師側は怒って、信長を討つために何か画策した。その結末を総長にも全宣教師にも知らせたという書簡なのですね。(略)

p30 立花 前にお話ししたように、朝廷は信長に元服費用の調達をはじめ、禁裏修理、建築費用の調達、御料所回復などを請け負わせます。信長はその綸旨をもらって京に出てきましたね。そのときから、すでに信長はイエズス会と結ばれていた、と推測できます。(略)

p31 立花 本能寺の変は、イエズス会にとっては要するに首のすげ替えだったんです。(略)信長には、仏教弾圧をしなければならない、してみせる必要があったんですね。

p39 桐野作人 「是非に及ばず」信長の自害

p55 和田裕弘 信長最期の場面は〔信長公記〕では、初め弓で戦い、弦(つる)が切れたので鑓(やり)に持ち換えて戦闘したが、肘に傷を受け、殿中奥深く入って自害。

フロイスの記述では、手と顔を洗い終えて手拭いで清めていたところ、背に矢を射かけられたが、これを引き抜き、長刀(なぎなた)で暫く戦ったが、腕に銃弾を受けたので自室に退いて戸を閉めたという。

鑓と長刀の違いはあるが、暫く戦って腕(肘)に傷を受けて引き下がったというところは符合する。安田作兵衛(のち天野源右衛門)、あるいは四方田某(四王天政実とも)が鑓を付けたとか、並河金右衛門が首を取ったなど諸説あるが真偽のほどは不明。

また、阿弥陀寺の清玉(せいぎょく)上人が信長らの遺骸を葬ったとも伝える〔信長公阿弥陀寺由緒之記録〕。

異説として、原隼人佐、同志摩守清安(なのち数原清庵)父子が火中から信長の首を取り出し、駿河国富士郡北山村の本門寺に持ち帰り埋葬した〔原家記〕というのもある。

この他にも、中間体のものが信長の遺骸を肩に掛けて裏門から出ていったという言い伝えも残されている〔笹舎漫筆〕。

これらはすべて伝説の域を出ない。実際には光秀軍に包囲された信長は、衆寡敵せずと諦観し、〔信長公記〕に記すように、猛火の中で、最期の姿を見せないように殿中深く入って自害したと思われる。

**

某ブログ
『笹舎漫筆』と言う小倉藩の学者の記録に「藩士・浅田市三郎の祖母は本能寺の変の時に現場に居合わせた」というモノがあり、その女性の話では「奥の間で信長が血を流しているのを発見して駆け寄ろうとしたが、部屋から押し出された。
仕方なく台所へ行くと。中間が信長を背負って裏から出て行くのを目撃した」との事なんです…
この時、信長は遺体も残さず燃え尽きていた筈なんですがね。

**

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中