細川幽斎 桑田忠親

『細川幽斎』桑田忠親
p13 ■天文十五年(一五四六)十二月、足利十二代将軍義晴の子、義輝(当時義藤。義輝で通す)が、十一歳で近江坂本の日枝神社で元服。十三代将軍に。そのころ管領細川氏の執事、三好長慶が、細川氏を凌いで、専権をふるっていた。長慶はし長慶ばしば、京都を襲い、義晴を近江の坂本まで遁走させていた。
■天文十八年(一五四九)六月、長慶軍は、細川氏綱を部将として、京都に乱入。
■天文十九年(一五五〇)十一月、また細川氏綱らが京都攻め。この三好の乱(※著者のこの表現は長慶を事実上の天下人と見ていない。)では、足利軍は常に勢いなし。また近江に逃れた。京都の足利将軍の実権は、むしろ、三好氏が牛耳っていた。そのため将軍の権威は全く地に落ちた観があった。(※著者はここで長慶を事実上の天下人と認めた。)
■天文二一年(一五五二)三好長慶との和議。将軍義輝、京都に復帰(義晴はこの間近江で病没)。※長慶にとってはお飾り将軍。氏綱もお飾り管領。
■天文二二年(一五五三)三好長慶がまた京都攻め。将軍義輝またまた近江の朽木谷に避難。永禄元年(一五五八)まで五年ほどいた。
■永禄七年(一五六四)三好長慶、病没。

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