蒼き信長(上)安部龍太郎

第一章 仁義なき信秀

一五三四年、信長、勝幡城にて誕生。

一五三五年、信長の父信秀は、熱田を取るために今川氏豊を那古屋城から追う。尾張下四郡守護代織田達勝(みちかつ)、三河の松平信定が協力。信定は岡崎城主松平清康の叔父。清康は家康の祖父。

p36 清康は、歳は信秀とひとつしかちがわない。二五歳。一五歳で安祥城の松平家をつぐと、すぐに岡崎城の松平家を屈服させ、周辺の領主たちに次々にいどみ、わずか二〇歳で三河一国の統一をなしとげた。

p34 加藤図書助(ずしょのすけ)。廻船問屋と船宿を営む豪商。武者働きもする。百年ほど前に斯波家から与えられた図書助の官名を代々名のっていた。熱田は問屋衆が治める自治の町。筆頭は加藤家。

p40 一二月一日、松平清康(家康の祖父)は千五百の精兵をひきいて岡崎城を発った。(略)一二月五日、早朝に待望の知らせ。「守山城内で不慮の騒動があり、松平清康どのが討ち取られました」(略)世に守山崩れと呼ぶ、完璧な暗殺劇だった。

第二章 三河を盗れp42

p50 松平信定に手柄を立てさせて松平家の当主にしようと織田信秀は謀った。(略)わずか二カ月の間に、信秀は那古屋城と熱田港を手に入れたばかりか、三河を同盟国に。

p51 『菟玖波集』

p58 花倉の乱(はなくらのらん)は、戦国時代の天文5年(1536年)に起きた、駿河国の守護大名、戦国大名今川氏のお家騒動。

p59 今川家の軍師太原雪斎(たいげんせっさい)は、仙千代(家康の父)を押し立てて(松平信定に奪われた)三河を取り返そうとしとるんだがや。そのために自分が育てた今川義元を今川家の当主にしたにちぎゃああるみゃあて。

p69 天文六年(一五三七)異変は六月一日の夜。松平信孝(清康の弟)が有馬温泉に湯治に出かけている隙に、仙千代派の武将たちが岡崎城を乗っ取った。安祥城(愛知県安城市)にいた松平信定は、兵を集めて岡崎城を攻めようとした。ところが城にはいち早く吉良持広らが駆けつけていた。知らせを受けた織田信秀は三千の兵を集め、六月三日に三河との国境にちかい善照寺砦(名古屋市緑区)まで急行。安祥城までは二〇キロばかり。明日にも信定軍と合流、岡崎城包囲のつもり。しかしその夜、松平信定が訪ねてきて「吉田城で清定を人質に取られた」と言う。織田信秀にとっても妹婿である。岡崎城に仙千代が入れば、西三河のすべてを失うが、信秀は仕方がないとはらをくくった。「ただし家督を清定にゆずり、信定どのは隠居していただきてゃあ」

p71 天文八年(一五三九)、織田信秀は、守山城を確保して弟の孫三郎信光を城主にしていたが、信光に初めての子が生まれた。

p72 人質となった清定を救うために仙千代派と和解した信定の運命は悲惨だった。一一月に遠矢を射かけられて死んだ。

p73 仙千代は一三歳で元服。名を広忠と改める。桜井城(愛知県安城市)の城主となった松平清定(信定の子)は親戚扱いもされないほど。状況を打開したいと信秀に訴えた。「ならば小河城の水野忠政どのと縁組みしゃあせ。嫡男の信元どのは、十七、八になられるはずだわ。清定どのの妹御と、年の釣り合いも取れるだにゃあか。わしが仲人をつとめるで案じるにゃおよばん」

※信秀の工作

p76 天文九年(一五四〇)三月、水野忠政の居城小河城で水野信元と清定の妹康子との婚儀がおこなわれた。

※この間にいろいろあり。

p143 天文一八年(一五四九)正月、信長と濃姫の祝言が古渡城でおこなわれた。濃姫は信長より二つ上の一七歳。

p148 梅の花がほころびかけた頃、佐久間盛重が思わぬ知らせを。西広瀬城(豊田市西広瀬町)の佐久間九郎左衛門が、松平広忠を見限って織田信秀に通じたいと願ってきた。九郎左衛門は松平信孝(広忠の叔父)に仕えていたが、昨年四月の耳取縄手(岡崎市)の戦いで信孝が討ち死にしたために広忠に降った。ところが岡崎では不本意な扱いばかり受けるので、親戚である佐久間盛重を頼って信秀に仕えたいと申し入れてきた。「広忠の魂(たま)を取って手みやげにせいて伝えよ」(略)結果は吉と出た。

三月六日、九郎左衛門の家臣の岩松八弥が岡崎城内で広忠をあっけなく討ち果たした。広忠は縁側で昼寝していたとも、家臣に灸をすえさせていたともいう。そこを斬り付けられ、二十三歳という若さで死んだ。

p170 天文一九年(一五五〇)三月三日、織田信秀、毒をもられる。

p189 今川義元は織田家の異変を察し、五万の大軍で西三河に進攻。(略)政子や平手政秀はひたすら和を乞い、熱田港からあがる関銭や津料をすべて渡すという条件で和議。信秀は港を奪われたら織田家は終わりだと誰より知っていた。

第五章 反抗と放浪p191

p198 天文二〇年(一五五一)、信長に愛知(えち)郡の知行は任せるが、他の所領は信勝を名代とする。

p199 二月、信勝の縁組。相手は清須城の守護代、織田彦三郎勝秀の養女。信長に結納の使者をつとめてほしいとの上意。

p202 信長は初めから手のつけられない不良というのは誤解。

p203 そのことを証明する二通の手紙。天文一九年(一五五〇)一二月二三日、父の知行権を引き継いだことを明らか。もう一通はその九カ月後、天文二〇年(一五五一)九月二〇日、織田家の知行権が信長から信勝に移っている。信長が反抗して家出したために取られた措置。

※信長の生母政子の仕業。信長は母に殺されかけた男、といえる。

p203 初夏、信長は津島にいた。(略)勝幡城の織田家を頼らず(略)見込んだ男がいれば子分にしていた。二十人あまりに。

p206 服部一忠、堀田正道、津島神社の社家の者。(略)一例が渡し船をはじめたことだ。

p207 永楽通宝をえがいた旗を渡し船の舳先に立てる。大当たり。(略)

p208 五月中旬、堀田右馬大夫(略)

p209 弁天組。頭は源次。二百人の子分。兄貴分に長島の勝蔵。伊勢の渡り衆千人を束ね、運送業の大親分。

p210 勝蔵は信秀と対立。津島への出入り禁止。熱田港が今川家支配になって、源次の伝で津島に再進出。

p211 五月末日(略)鉄砲(略)源次絶命(略)甲賀の住人、滝川一益(略)

p215 信長、一線も交えず弁天組を支配下に。

p222 六月一五日、信長、勝蔵を射殺。

p223 信長、津島に来て一年で自力による支配。(略)永楽組。五百人。訓練。

p226 佐々成正一七歳、前田利家一五歳。

p227 一五五二年?、二月初旬、信長、堺へ。

p228 天王寺屋、津田宗達

p229 津田宗及

p234 天文二一年(一五五二年)三月三日、織田信秀没。四二歳。

p238 万松寺で葬儀。信長、抹香を力任せに仏壇に投げつけた。

第六章 春の船出

p239 那古野城 当てにならない 平手政秀

末森城 仇も同然 信勝や政子

守山城 叔父信光、動き不明

勝幡城 内藤勝介

p242 三月中頃、信長、今川家に奪われた熱田港偵察

p245 熱田港の警固は鳴海城主の山口左馬助(裏切り者)

第七章 凄まじき男

p297 天文二三年(一五五四)

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