唯信鈔文意 朝日新聞出版

p230 B▼称名念仏(南無阿弥陀仏をとなえること)がなぜ「難信の法」なのか?

C▼人間は「私」を抜け出せないから。「智慧の名号」を信じるのではなく、「智慧の名号」をとなえる「私」を信じている。(=自力)

※ただ称名念仏するだけでは往生しない、と親鸞は言っている。

p243 B▼『大経』の「三信心」と『観経』の「三心」は同一。そのことと「真実信心」、つまり「一心」の関係は?

C▼最終的には、称名念仏こそが「一心(真実信心)」と親鸞は言いたいのだろう。往生の絶対条件は「真実信心」だが、称名念仏はその表現。称名念仏に『大経』の「三信心」と『観経』の「三心」が重なっている。だから、称名念仏は往生のための「行(おこない)」であると言いたいのだろう。

※称名念仏は往生の〈ための〉行ではない。往生を獲得した御礼。御恩報謝。

p244 D▼親鸞は「真実信心は必ず名号をともなう。名号は必ずしも真実信心をともなわない」(『教行信証』「信巻」)と言っている。空念仏ということもある。

※ただ称名念仏するだけでは往生しない、と親鸞は言っている。

p245 A▼「念仏もうさんとおもいたつ」とは、「真実信心」としての「一心」が「私」に成就した瞬間。それは、阿弥陀仏の本願力によって「私」に回(めぐ)らし向けられた「一心」であって、「私」から生まれた心ではない。その意味でも「『私』を超えている」。

※この体験を「信心獲得」という。この体験がなければ往生できない。

p270 C▼「一回の称名念仏で救われるのか、数多くの称名念仏で救われるのか」という問題。

A▼親鸞は「一念多念のあらそいをなすひとをば、異学・別解のひとともうすなり」と言った。親鸞は「異学は外道なり(仏教ではない)」と言い、自力をたのむものであると言っている。また「別解は、念仏しながら、他力をたのまぬなり」と言っている。

※ただ称名念仏するだけでは往生しない、と親鸞は言っている。

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