日本という方法 おもかげ・うつろいの文化 松岡正剛

第1章 日本をどのように見るか

おもかげ=母

うつろい=無常

無償の愛にあこがれ、無常を哀しむ。日本人の源流はそんなところか。

第2章 天皇と万葉仮名と語り部

p31 四四年に朝鮮半島は「漢廉斯(れんし)邑君」。五七年「倭の奴の国王」。この違いはのちのちまで朝鮮と日本の位置づけを変えます。

p32 後漢が滅びると、三世紀、三国の一つの魏に、栄えていた邪馬台国の卑弥呼が、二三九年、使者難升米(なしめ)が行く。魏が管轄している帯方郡に入って太守の劉夏の手配で役人とともに洛陽に行き、「親魏倭王」の金印紫綬をもらった。この称号は中国の外臣では大月氏(インド)と邪馬台国だけ。一方、朝鮮半島は韓族(からぞく)が馬韓、辰韓、弁韓をつくった。日本列島でも出雲王国のようなクニがいくつかできつつあった。

三世紀後半、中国混乱。史書から一五〇年、倭人の記事が消える。

p33 四世紀は北の遊牧民が中国に流れこんでくる五胡十六国の時代。朝鮮半島では、最初に高句麗がおこり、半島南部の新羅や百済がおこり、倭人たちの活動(任那)も加わった。渡来人が列島に入り、倭韓がしだいに交じっている。

この時期、のちに「ハツクニシラススメラミコト」とよばれる崇神天皇(和名ミマキイリ)が強いリーダーシップを発揮していた。

五世紀、倭は東晋に使者。「倭の五王」。五人目の大王「倭王武」がワカタケルこと雄略天皇。

p34 五世紀後半から六世紀、中国にふたたび大帝国。隋。

六一〇年、三次にわたる高句麗征服。やむなく高句麗と百済は冊封をうける。臣下になる。新羅もついに冊封をうける。

倭人のリーダーたちは冊封したくない。そこで六〇〇年ちょうど、姓は「アメ」、字(あざな)が「タリシヒコ」、号を「オホキミ」という一人の倭王が隋に使者をおくって、われわれの国を認めてほしいということを告げた。有名な『隋書』東夷伝。

p35 アメ・タリシヒコは大王であり、天皇に近い存在。実在の誰かは歴史学は証明しきれていない。おそらく推古天皇か聖徳太子か、その側近か。筑紫の大宰説も。(略)つまり、大和朝廷ができつつあった。そしてかなり強気。アメ・タリシヒコのことは、なぜか『古事記』『日本書紀』に記載なし。

※王権簒奪。

記載は、その直後の六〇七年に小野妹子が遣隋使として派遣されたことだけ。妹子は「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という国書を。煬帝が怒った。冊封をうけないし、「天子」という言い方。そのせいか、『日本書紀』は国書の文面を記載していない。このあたりは相手が強く出ると引っこむという体質が早くもあらわれている。そのかわり、翌年、「東の天皇、敬(つつ)しみて西の皇帝に白(もう)す」。ついに「天皇」という概念の登場。ただし、その天皇が誰のことかもまだ歴史学では証されていない。「万世一系の天皇」といってもわからないことはある。

p36 六一八年、隋が滅びて唐に変わり、唐は高句麗征服がうまくいかない。新羅の金春秋(武烈王)が唐の矛先を百済に転換させた。百済は日本に援護を頼む。

六六三年、白村江の海戦。六八歳の斉明天皇は二人の息子、中大兄皇子と大海人皇子を連れて北九州へ。敗戦。倭は朝鮮半島から完全撤退。新羅は唐と組んで高句麗も撃ち朝鮮半島統一。「倭」は「日本」に。外圧が「日本」を自立させた。新羅と日本はほぼ同時に成立。『旧唐書』に「日本国は倭国の別種なり。その国、日辺にあるをもってゆえに日本をもって名と為す」、『新唐書』に「倭の名を悪(にく)み更(あらた)めて日本と号す」とある。この「日本」を制したのが天武天皇(大海人皇子)。

p37 中国・半島・列島の関係は一蓮托生で、新羅の統一が日本を自立させた。

※半島から独立した。倭韓混淆が停止。

中国の東アジア経営の変化、それに応じた朝鮮半島のめまぐるしい変遷、それがなだれこんで七世紀の白村江の海戦。唐と新羅の勝利。百済と日本の敗戦。これで「倭」は「日本」になった。太平洋戦争のときと同じく、日本は敗戦で立ち上がった。

第3章 和漢が並んでいる

p62 紀貫之、八九三年前後。菅原道真の絶頂期。道真は親政を敷いた宇多天皇に抜擢されて、つづく少年天皇の醍醐の右大臣。漢詩の達人。和歌主流に移行するのを積極的に支えた当代きっての文人。

第4章 神仏習合の不思議

p79 神祇信仰は廃れず、各地に「神宮寺」がつくられた。奇妙。七世紀後半から九世紀。早い。

p82 「日本は二千年このかた神道の国だ」という言いかたはちょっとおかしい。神道が意識されたのは中世以降。(伊勢神道、吉田神道)それ以前は神もいれば仏もいて、さらには儒教的なものも道教的なものも、民間信仰もみんな少しずつ交じっていた。その後も神仏習合はつづくが、これは日本の神々の多くが人格神ではなかったことも関連。キャラクターを加えやすかった。

p87 一二九三年、鶴岡八幡宮に一人ずつがお金を出しあって約七〇〇人の民衆がかけつけた。鎌倉を大地震が襲ったため。民衆は旱魃、地震、津波のときは「神々の加護」を旗印に動いた。(略)このとき、こうした民衆ムーブメントのあいだから、一風変わった特異なリーダーたちが登場。悪党。彼らの活動から「神国日本」というイデオロギーが出回りはじめた。(略)

p88 伊勢の外宮を拠点とする伊勢神道(度会神道)は、「神領興行法(神社向けの徳政令)」による勢力拡張を背景に確立していった。ただし伊勢神道とはいえ、この時期の神道は(神宮寺のように)神仏両方の勢力のこと。この神領興行法の実施時期に、初めて日本の神仏の組み替えの逆転が試みられた。(略)これにより既存の宗教勢力が神祇官に文句をつけにくくなった。つけると悪党がこれを制した。そして、この勢力均衡のうえで悪党が神国思想をひろめる先導者になった。楠木正成のような。なおここで「悪」は、「ふつうのことばではいいあらわせないような」「これまでの型にはまらないような」という意味。親鸞の悪人正機説の「悪人」も、そういう意味。

※断定するねえ。

第5章 ウツとウツツの世界

p112 非現実のウツはウツロイをへて現実のウツツになっていく。

第6章 主と客と数寄の文化

p120 『無名抄』「人のすきとなさけとは、年月に添えて衰えいくゆえなり」の「すき」も風雅の心でした。好色の数寄が風雅の数寄に発展。平安王朝期の色好みは互いに風雅を尽くしての色恋沙汰。

p121 「唐物数寄」の足利将軍が集めた中国の文物が名物となって茶の湯に君臨。

p122 栄西が茶をもちかえった翌年は頼朝が将軍になった一一九二年。武家社会は主格関係が大切。禅宗と茶の湯が歴史舞台に登場。栄西が実朝に茶を献じ、将軍感悦『吾妻鏡』。実朝は二日酔いあたりで茶が効いたのだろう。将軍家は褒美として茶をふるまうように。この主従の習慣がのちに茶とともに茶器をめであう。

p125 会所が室町殿に登場したのは、一四〇一年。寄合(よりあい)が好まれ、雑談(ぞうだん)が悦ばれた。ここに主宰と参客の新関係が生まれる。

p126 兼好の批判にもかかわらず、ふたたび物持ち主義や舶来趣向の台頭。唐絵、唐物はだいたい禅僧と貿易商人によって輸入。禅僧は半分商人。夢窓疎石にしてからが、天龍寺船を足利尊氏に提案して日宋貿易の指導。そこへ義満の日明交易船が拍車をかけた。

p126 同朋衆、五山僧

p127 時宗、連歌、作庭、能楽、立て花、のちの人形浄瑠璃、歌舞伎、俗曲

p128 叡尊、忍性、律僧、三阿弥、村田珠光

p130 町衆、法華衆、利休、長次郎、楽焼き

p131 連歌と茶の湯をつないだ武野紹鴎、利休の師

p133 堂上連歌の二条良基、地下連歌の救済(ぐさい)、『応安式目』『菟玖波集』

第7章 徳川社会と日本モデルp141

p147 藤原惺窩

p154 家光、水戸黄門、朱舜水

p155 山鹿素行

p158 常磐津、清元、新内、株仲間

p160 一七世紀後半、各地の特産物が目立つようになり、そうした特産物の評判が経済行為に付加価値を提供できたから、三都と地方のあいだに徳川市場経済が成り立った。

p160 大坂堂島の米相場は世界に先駆けた先物市場、帳合米、米切手(米の倉庫証券)

p162 徳川社会で「株」といえば、公共的に認可された営業特権のこと。

※以下、本を購入したので後日調査。

第11章 矛盾と葛藤を編集する

p248 西田幾太郎(1870_1945)が『善の研究』を書く直前の明治四十年、次女と五女をあいついで亡くした。(略)「今まで愛らしく話したり、歌ったり、遊んだりしていた者がたちまち消えて白骨になる。これはどういうわけだ。人生はこれまでのものであるというならば、人生ほどつまらぬものはない。ここには深い意味がなくてはならない」。

人生は矛盾と葛藤の連続です。空海は「生まれ生まれ生まれて、生の始めに暗く、死に死に死んで、死の終わりに冥(くら)し」と言った。西田はその矛盾と葛藤の中に「疑うことのできない確実なもの」を見る気になります。それは「自然」か。「運動」か。「真理」か。西田は主観も客観も、その実在を疑えると考えた。

p249 そこで西田は、自分の主観と客観が分かれる以前を考えた(純粋経験)。ゆえに『善の研究』の冒頭に「色を見、音を聞く刹那、いまだ主もなく客もない」と書いた。

主客同時と見た。これは侘数寄の茶の心に通じる。道元の「朕兆未萌(ちんちょうみぼう)の自己」にも通じる。「自己が生まれる以前のもの」という意味。主客が生まれる以前を道元禅も侘数寄茶もおもしろがった。西田はうんうん考えた。

生物と無生物のあいだ(福岡伸一)

p250 矛盾と葛藤のパーフェクトワールドの意味をさがして、西田は「純粋経験」を見ようとした。そこには「我」は入っていないと考えた。「我」は「純粋経験」のあとから生まれたものだ。最初から入っていたのは何かに向かう意志のようなものだけではないか。そうも、考えた。

西田は「純粋経験」が発展した宇宙的なるものを「神」とみなした。またそれを人間が獲得しえた「善」とみなした。

※ヒトは神になれる。ってか。

ここまでが『善の研究』。主客未分の哲学にはなっていない。あまりに形而上学的。理想と理念で論理を運んだだけ。

p251 大正六年、『自覚における直観と反省』発表。西田は直観を「主客のいまだ分かれない、知るものと知られるものと一つである、現実そのままな、不断進行の意識」とみた。純粋経験が原初の状態から意識の状態まで進んでそこに主客未分の直観が生じているとみた。問題は直観を反省する自分がいる。

※意識と無意識。

二つの自分である「意識する自分(直観。シニフィエ〈意味されるもの〉)」と「意識される自分(反省。シニフィアン〈意味するもの〉)」は固定したら分裂状態が続いてしまう。二項対立(西洋哲学)になってしまう。

p252 解決策として西田は二つの自分を生んだ「能動的自己」を仮定した。これがその後の西田哲学独特の「自覚」のはたらきになる。さらに西田はこの自覚のはたらきは「絶対自由意志」ではないかと提案。自覚の根底にそういう動向があるという。それは西田にとって「思惟の極限」であり、また反省的思惟を生む「創造作用の根源」。そこでは雪門玄松師のような「絶対自由意志」が世界をみずからあらわしているはず。

※なんじゃそりゃ。

そうならば、そこはきっと「無から有が生ずる創造作用」の原郷なのでしょう。

※量子の話。

大正七年から西田にふたたび不幸が続いた。母の死、長男の死、子供たちの病気、妻の死など。「かくしても生くべきものかこれの世に五年(いつとせ)こなた安き日もなし」「運命の鉄の鎖につながれて打ちのめされて立つ術もなし」

西田は考えた。ここまでの自分の思索は失敗だったか。脱出を試みる。それが「無の場所」というアイデアになる。

昭和二年、『働くものから見るものへ』という、ある意味では『善の研究』よりずっと重要な、日本哲学史上の最初の金字塔ともいうべき思索のピッケルが打ちこまれた。前年『場所』発表。

p254 西田は、意識のはたらきは「主観が客観を包む」と考えを変えた。

※それまでは主客未分の純粋経験の研究がスタート地点。純粋経験がわかればこのパーフェクトワールドが理解できると考えた。

幼児は述語として(※名詞としてではなく)「ブーブー」と「まんま」を連発しながら、やがて「ぼく」「わたし」という中心像をもつ。最初から自分があるのではない。

※ただの現象が〈自己がある〉と勘違いする。ってか。

「主語は述語のなかに含まれていた」はず。「述語は主語はふくみ、それを分泌する」ということがおこっているはず。それをわれわれは忘れている。西田は忘れる前にとどまってみたかった。そして「主語=客観=特殊」が「述語=主観=一般」に(最初は)包まれていて、主語(客観)が蕾から花の先っぽが出てくる様子のように観察したかった。これが第一章の「述語的包摂」。

p256 述語性にこそ意識が見えてくる。そう推理した西田は、この述語的なるもののほうにこそ無限の入れ物のような作用をもつ「場所」があって、それを「みる」ことで直観がはたらくのではないか、ならばそこは「無の場所」の動向のようなものではないか。

そして西田は、このウツなる「無の場所」に、禅が到達してきた「絶対無」がひそんでいるのでは、と期待した。念のために言いますが、この「無」もウツロイのごとく〈動いている〉ものです。

※以前〈動くウツロイ〉の話をしたのであろう。失念。

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