戦国大名と分国法

結城政勝、伊達稙宗、六角、今川、武田の五家

第一章 結城政勝と「結城氏新法度」
p2
下総国結城(茨城県結城市)
結城氏は鎌倉時代から御家人としてここにいた名族。戦国時代には鬼怒川流域の下総国結城郡上方(結城市北部、栃木県小山市北東部)、南北一五キロ・東西一〇キロ程度の土地領有。兵力聖戦二〇〇〇の小大名。
結城政勝(一五〇三~五九)「結城氏新法度」。毛利元就、大内義隆、織田信秀とほぼ同世代。
p5
弘治二年(一五五六)、五四歳の政勝は北条氏康と手を結ぶ賭けに。
同年四月、小田氏治の小田城を落とす(海老島合戦)。
同年八月、小田氏治に小田城を奪い返される。
同年一一月二五日、「新法度」がまとめられた。
p14
結城家中では縁者親類の結束力が強く、同族の利害のためならば白を黒とも言いくるめ、多少道理を曲げてでも自分たちの主張を押し通そうという傾向があり、政勝は頭を痛めていた。これを矯正することこそ「新法度」の狙いだと明言している。
p16
当時の社会では身内の結束力が強く、個人対個人のトラブルが集団対集団に簡単にヒートアップ。政勝は一対一よりも集団対集団の喧嘩の罪を重くした。喧嘩の原因等を問わず、トラブルに仲間を引き入れた側の罪を重くした。加勢者の罪は一族にまでおよばせた。これらにより、紛争を最小限に抑え込もうとした。

戦場のカオスp17
六七~六八条(条文省略)
合戦と聞くと政勝の指示も聞かずに目の色を変えて出撃する武将たちは、戦況を有利に導こうとか、軍功をあげて政勝に気にいられようという思いから抜け駆けをするのではなかった。物資の掠奪や人身の拉致が将兵によって堂々と行われており、慣習的に許容されていた。(藤木久志氏の研究による)
そこで彼らは、戦を機に「敵地で女の一人でもさらってやろう」という魂胆で、戦場に抜け駆けしていた。政勝は呆れ果てていたようだ。
家臣への諮問p20
p21
ややこしい問題を処理するさいに、政勝は家臣一同に協議を求めており、その決定を「新法度」に盛り込んでいる。
p22
諮問手続きや不採用の選択肢まで、あえて文中に書き記すことで、政勝は家臣たちを「立法者」の側に取り込むことを狙ったのかもしれない。
p23
他方、家臣たちの度を過ぎた宴会を禁じた六二条では、「私を宴会に呼び(略)取り決めた以上に一菜でも多く出されたら(略)私は去る」。政勝は、一方的にルールをつくる存在ではなく、自身も「新法度」に拘束されると明記。
p24
一〇条 夜に他人の田畑で殺されても文句は言うな。
p25
下地中分…荘園の土地を地頭(幕府任命)と荘園領主(朝廷任命的)で折半すること。
半済令…荘園の年貢半分を守護に差配させる法令。
p26
二つの方向性 後日
p29
荷留め 家臣たち 商売 後日
p31
結城秀康 後日

第二章 伊達稙宗と「塵芥集」
p68
八八条で稙宗は、用水路の堤建設のために個人の田地が犠牲になることを是認。公共性の重視と推進。
p69
稙宗にかぎらず戦国大名は、腕力だけで人々をしたがえているのではない。幕府からの守護職や朝廷からの官位の権威だけで君臨しているのでもない。混迷する戦国社会で新たな権力として自身をアピールするとき、公共利益を訴えるのは必要なこと。明文化が稙宗「塵芥集」の意義。

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