サピエンス全史 下

p17 ローマ人はキリスト教徒を迫害した。キリストが十字架にかけられてから皇帝コンスタンティヌスがキリスト教に改宗するまでの三〇〇年間に、多神教のローマ皇帝がキリスト教徒の迫害を行ったのはわずか四回。犠牲者を合計すれば数千人であった。これとは対照的に、その後の一五〇〇年間に、キリスト教徒は愛と思いやりを説くこの宗教のわずかに異なる解釈を守るために、同じキリスト教徒を何百万人も殺害した。

一六世紀と一七世紀にヨーロッパ中で行われたカトリックとプロテスタントの宗教戦争は、とりわけ悪名が高い。愛の性質をめぐって彼らは対立した。プロテスタントは、神の愛は偉大なので、神への信仰を告白した者全員に天国の扉は開かれていると信じた。カトリックは信心は不可欠だが、信者は教会に通い、善行を行わなければ天国へは入れないと主張した。この言い争いは凄まじい暴力に発展した。一五七二年八月二三日、善行を重視するカトリックが、愛を強調するプロテスタントを襲った。聖バルテレミーの虐殺である。二四時間足らずの間に五〇〇〇~一万のプロテスタントが殺された。カトリックのローマ教皇はお祝いの礼拝を行った。その二四時間に同朋キリスト教徒に殺されたキリスト教徒の数は、多神教のローマ帝国がその全存続期間に殺したキリスト教徒の数を上回った。

p18 やがて多神教の信者の一部は、自分の守護神をおおいに気に入ったので、多神教の基本的な考え方から次第に離れていった。彼らは自分の神が唯一の神で、その神こそがじつは宇宙の至高の神的存在であると信じ始めた。とはいえ同時に、彼らはその神は(※自分に)関心を持ち、えこひいきすると考え続け、その神とは取引ができると信じていた。(※もろにユダヤ教のこと)こうして一神教が生まれ、その信者たちは、病気から快復したり、くじで当たったり、戦争で勝ったりできるよう、宇宙の至高の神的存在に嘆願した。

p20 過去二〇〇〇年にわたって、一神教信者は、暴力によってあらゆる競争相手を排除することで、自らの立場を繰り返し強めようとしてきた。

それが功を奏した。(略)一六世紀初期には、一神教は東アジアとアフリカ南部を除くアフロ・ユーラシア大陸の大半を支配下に収め、長い触手を南アフリカや南北アメリカ、オセアニアへと延ばし始めていた。今日、東アジア以外の人々は、何かしらの一神教を信じており、グローバルな政治秩序は一神教の土台の上に築かれている。

p26 二分法(ゾロアスター教に端を発する二元論)は悪の問題に取り組むのに役に立った。だから、善悪の対立はやがて(一神教のはずの)キリスト教とイスラム教の思想の土台となった。天国(善き神の領域)と地獄(悪しき神の領域)の信仰も、二元論に端を発する。そのような信仰は、旧約聖書には微塵も見られないし、そもそも旧約聖書は、人々の魂が肉体の死後も生き続けるなどとは、決して主張していない。

世界の宗教史は煎じ詰めると神(あるいは超自然的存在)の歴史にはならない。紀元前一〇〇〇年紀には、新しい宗教がアフロ・ユーラシア大陸中に広まり始めた。インドのジャイナ教や仏教、中国の道教や儒教、地中海沿岸のストア主義やキニク主義、エピクロス主義は、神への無関心を特徴としていた。

p28 これらの教義は、世界を支配している超人的秩序は神の意思や気まぐれではなく自然法則の産物とする。(略)最たる例が仏教である。仏教は今なお、主要な宗教の一つであり続けている。

第14章 無知の発見と近代科学の成立

p87 一六世紀には、王や銀行家は世界の地理的探検を支援するために厖大な資金を投じたが、児童心理学の研究にはまったくお金を出さなかった。それは、王や銀行家が、新たな地理的知識の発見が、新たな土地を征服して貿易帝国を打ち立てるのを可能にすると思ったからであり、児童心理の理解には何の利益も見込めなかったからだ。

p88 自由主義政府、共産主義政府、ナチスの政府は、まったく同じ科学的発見をまったく異なる目的に使うであろうことは明らかで、そのうちのどれを選ぶべきかについては、科学的な根拠はない。つまり、科学は宗教やイデオロギーと提携した場合にのみ栄えることができる。イデオロギーは研究の費用を正当化する。それと引き換えに、イデオロギーは科学研究の優先順位に影響を及ぼし、発見された物事をどうするか決める。したがって、人類が他の数ある目的地ではなくアラモゴードと月に到達した経緯を理解するためには、物理学者や生物学者、社会学者の業績を調べるだけでは足りない。物理学や生物学、社会学を形作り、特定の方向に進ませ、別の方向を無視させたイデオロギーと政治と経済の力も、考慮に入れなくてはならない。とくに注意すべき力は帝国主義と資本主義だ。科学と帝国と資本の間のフィードバックループは、過去五〇〇年にわたって歴史を動かす最大のエンジンだったと言ってよかろう。科学と帝国という二つのタービンがどのようにして結びつき、両者が資本主義の資金ポンプにどのようにつながれたかを、今後の章で見ていこう。

第15章 科学と帝国の融合

p95 ヨーロッパが軍事的、政治的、経済的、文化的発展の重要地域となったのは、一五世紀末。一五〇〇年から一七五〇年までの間に、(貧しい辺境だった)ヨーロッパ西部は勢いをつけ、「外界(南北アメリカと諸大洋)」の征服者になった。このときでさえヨーロッパはアジア列強には及ばなかった。ヨーロッパがアメリカを征服し、海上覇権を得られたのは、主としてアジア列強がそれらに興味がなかったからだ。近代前期は地中海のオスマン帝国、ペルシャのサファヴィー帝国、インドのムガール帝国、中国の明朝と清朝の黄金時代だった。どの国も領土を大幅に拡げ、かつてなかったほどの人口増加と経済成長をとげた。

一七七五年、アジアは世界経済の八割を担っていた。インドと中国の経済を合わせただけでも全世界の生産量の三分の二を占めていた。それに比べるとヨーロッパ経済は赤子のようなものだった。

一七五〇年から一八五〇年にかけて、ヨーロッパに世界の権力の中心が移った。ヨーロッパ人が相次ぐ戦争でアジア列強を倒し、その領土の多くを征服したときだった。

一九〇〇年までにはヨーロッパ人は世界経済をしっかり掌握し、世界の領土の大部分を押さえていた。

一九五〇年にはヨーロッパ西部とアメリカ合衆国が全世界の生産量の半分以上を占め、一方、中国の占める割合は五パーセントに減少していた。

p101 一八三一年、イギリス海軍は、南アメリカ沿岸、フォークランド諸島、ガラパゴス諸島の地図を作成するためビーグル号を派遣した。(略)ケンブリッジ大学を卒業した二十二歳のチャールズ・ダーウィン(略)はその話に飛びつき、(略)ダーウィンは観察に基づくデータを集めて洞察を深め、最終的に進化論になる。

p109 一五一七年このころ、カリブ諸島のスペイン人入植者は、メキシコ本土の中央のどこかにある強力な帝国についての漠然とした噂を耳にしはじめた。

一五二一年 アステカ帝国の首都は焼き尽くされ、エルナン・コルテスがメキシコにできたスペイン傘下の広大な新帝国を統治していた。

アステカ族、トルテカ族、マヤ族といった中央アメリカのそれまでの支配者は、二〇〇〇年にわたって、南アメリカが存在することを知らず、ゆえにそれを支配しようとすることもなかった。

一五三二年 スペインによるメキシコ征服からわずか一〇年あまりのうちに、フランシスコ・ピサロは南アメリカでインカ帝国を発見し、征服した。

アステカ族やインカ族は、周りの世界にもう少し興味を示していたら、スペイン人が何をしたかを知っていたら、征服されなかったかもしれない。

一四九二年のコロンブスによる最初のアメリカへの旅から、一五一九年のコルテスによるメキシコ上陸までの間に、スペイン人はカリブ諸島のほとんどを征服し、植民地を築いた。先住民にとってはこの世の地獄だった。少しでも抵抗すると殺された。二〇年のうちに、カリブ海の先住民のほぼ全員が命を落とした。スペイン人入植者はその穴を埋めるために、アフリカの奴隷を輸入しはじめた。

地図

p111 大虐殺はまさにアステカ帝国の玄関先で起こったのだが、コルテスがこの帝国の東海岸に上陸したとき、アステカ族はそれについて何も知らなかった。

アステカ族はこの見知らぬ人々(スペイン人)にどう対処していいかわからなかった。

p112 アステカ族はぐずぐずと長い時間をかけて交渉した。急ぐ必要は思いつかなかった。コルテスがひきいていたスペイン人はわずか五五〇人だ。何百万もの民をもつ帝国にたいして五五〇人で何ができる?

スペイン人はよその土地に侵入して対処することにかけては誰よりも経験豊かだった。だからコルテスはまずこう言った。

「平和を乱すつもりはない。王に会わせてほしい」

首都テノチティトランで皇帝モンテスマに会うと、コルテスはモンテスマの護衛を斬り殺した。護衛は木製の棍棒と石の刃しかもっていなかった。こうして、客が主人を捕虜にした。

p113 ここからがコルテスにとって大事なところだ。皇帝を捕らえたが、何万もの怒った兵士や何百万もの民に囲まれている。コルテスは、モンテスマを捕虜として宮殿にとどめ、皇帝は自由の身で君臨しているかのように見せかけた。この状況は数か月続いたが、アステカのエリート層はとうとうコルテスとモンテスマに背き、新しい皇帝を選ぶとテノチティトランからスペイン人を追い出した。しかしコルテスはこのときまでに手に入れた知識を利用して、帝国に支配されている諸民族の多くを説得して味方につけ、アステカのエリート層と敵対させた。政府軍と反政府軍の対立である。

p114 しかし反政府軍は大変な間違いを犯した。彼らはスペイン人がカリブ海でやった大虐殺のことを知らなかった。まさかスペイン人がアステカ族の後釜に座ろうとは考えもしなかった。相手はわずか五五〇人なのだから。何万もの反政府軍の支援を受けてコルテスはテノチティトランを陥落させた。

ここにきて、スペイン人の兵士や入植者が続々とメキシコに到着しはじめた。キューバから来た者も、スペインからはるばるやって来た者もいた。地元の諸民族が気づいたときには手遅れだった。

コルテスが上陸してから一〇〇年のうちに、過酷な支配体制のせいで、先住民の人口はおよそ一割にまで減少した。

一五三一年 コルテスがメキシコ上陸して一〇年後、ピサロがインカ帝国の海岸に到着した。このときの人数はコルテスのときよりも、はるかに少なかった。わずか一六八人だったのだ!

しかしピサロは過去の侵略で得られた知識や経験を利用できた。それとは反対にインカ帝国の人々はアステカ族に降りかかった不幸などまったく知らなかった。ピサロはコルテスのやり方をそっくり真似た。インカの支配者アタワルパを捕虜にした。そして地元の協力者の助けを借り、無力化した帝国を征服した。

第16章 拡大するパイという資本主義のマジック

p127 お金によって数々の国が建設され、滅ぼされた。経済の近代史を知るためには、本当はたった一語を理解すれば済む。「成長」だ。西暦一五〇〇年の世界の総生産量は二五〇〇億ドル。今では六〇兆ドル。一五〇〇年の一人当たりの年間生産量が五五〇ドルだったのに対して、今日では八八〇〇ドル。どうしてこんな途方もない成長が起こりえたのか。

p130 私たちが将来を信頼しているからだ。この信頼こそが、世界に流通する貨幣の大部分を支えている。

もし貨幣が有形のものの代わりにしかならないとしたら、経済は停滞したままだった。近代に入って、人々は想像上の財、つまり現在はまだ存在していない財を特別な種類のお金に換えることに同意し、それを「信用(クレジット)」と呼ぶようになった。

p131 信用は、昔の人々も思いつきはしたが、あまり信用供与を行おうとしなかった。なぜなら彼らには、将来が現在よりも良くなるとはとうてい信じられなかったからだ。(!)

p132 富の総量は減少するとは言わないまでも、限られていると信じていた。したがって、一〇年後にはより多くの富を生み出すなどと考えるのは、割の悪い賭けに思えた。ビジネスはあたかもゼロサムゲームのように見えた。ヴェネツィアが繁栄すればジェノヴァが貧乏になる。イングランド王が富を増すには、フランス王の富を奪うしかない。パイの切り方はいろいろあっても、パイ全体が大きくなることはありえない。

多くの文化で、大金を稼ぐことが罪悪と見なされたのも、そのためだ。パイの大きさが変わらない以上、ひとりがたっぷり取れば、誰かの取り分が減る。だから金持ちは、余った富を慈善事業に寄付することで、己の悪行にたいする罪滅ぼしをしなければならなかった。

p132 世界のパイの大きさが変わらないなら、信用が生まれる余地はない。信用とは今日のパイと明日のパイの大きさの差だ。パイが大きくならなければ、信用を供与する意味がない。競争相手のシェアを奪い取ってくることができると信じていない限り、そんなリスクはとれない。

だからこそ、近代以前の世界では融資を受けることは難しく、仮に受けられても「少額、短期、高利」だった。

誰にとっても不利な状況だった。信用が限られていたので、新規事業のための資金調達が難しかった。新規事業がほとんどなかったので、経済は成長しなかった。経済が成長しなかったので、人々は経済とは成長しないものだと思い込み、資本を持っている人は相手の将来を信用して信用供与をすることをためらった。こうして、経済は沈滞するという思い込みは現実となった。

p133 そこに科学革命が起こり、「進歩」という考え方が登場した。物事は改善できる。進歩を信じる人は富の総量を増やすことができると信じている。ラーメン屋を開いたとしてもカレー屋が閉店することはなかった。ひとりが豊かになると誰かが貧しくなるわけではない。他人を飢え死にさせなくても、人は太ることができる。グローバルなパイ全体が拡大可能なのだ。

p134 この信念は、社会に革命的な変化をもたらした。一七七六年、スコットランド生まれの経済学者アダム・スミスが『国富論』を出版。個人の利益が増すことが、全体の富の増加の基本である。これは、道徳と政治の観点からみて、従来の思想を根本的に覆す。スミスはこう述べているのに等しい。強欲は善であり、個人が裕福になることは当の本人だけでなく、他の全員のためになる。「利己主義は利他主義である」。※滅茶苦茶

p136 スミスは、金持ちに対して天国の門を開いた。スミスの描いた物語の中では、人は隣人の財産を奪い取るのではなく、パイ全体を大きくすることによって豊かになる。そしてパイが大きくなれば、誰もが恩恵を受ける。したがって、社会で最も有用で慈悲深い人間は金持ちということになる。全員の利益のために経済成長の歯車を回すのは彼らだからだ。※どこが誤りか。

p139 資本主義は経済を超える存在に。一つの倫理体系であり、どう振る舞うべきか、どう子供を教育するべきか、果てはどう考えるべきかさえ示す。資本主義の第一の原則は「経済成長は至高の善である」。なぜなら、正義や自由や幸福まで、すべてが経済成長に左右されるからだ。貧しい国にどうすれば正義と政治的自由をもたらせるか。資本主義者は言うだろう。安定した民主主義の制度には経済的豊かさと中産階級の繁栄が重要であり、そのためには民に、自由企業制度と倹約と自立がいかに重要かを叩き込む必要がある。

この新しい宗教は、科学にも決定的影響を。「このプロジェクトは利益(経済成長)を生むだろうか」。

逆に科学なしでは資本主義の歴史は理解できない。「経済成長は永久に続く」という資本主義の信念は、この宇宙に関して私たちが持つほぼすべての知識と矛盾する。獲物となるヒツジの供給が無限に増え続けると信じているオオカミの群れがあったとしたら愚かとしか言いようがない。では近代、なぜ経済は成長を遂げてきたか。それは科学者が何年かおきに新発見したり、斬新な装置を発明してきたからだ。アメリカ大陸発見、内燃機関、遺伝子操作したヒツジ。

p140 ここ数年、各国は紙幣を濫発。経済成長が止まることを恐れ、バブルがはじける前に、科学者が何か大きな成果を生み出すことを願っている。科学がそれに応えられなければ、私たちは厳しい時代を迎える。

コロンブス、投資家を探す

p141 一四八四年、コロンブスは東アジアへの新航路開拓を目指し、資金援助してもらうために、ポルトガル国王に接近した。その多額の投資が利益を生む保証はなく、ポルトガル国王はコロンブスの申し出を断った。まるで現代のベンチャー起業家のようにコロンブスは諦めなかった。イタリア、フランス、イングランド、再度ポルトガルを訪ねては投資家に売り込み、そのたびに拒否された。そこでコロンブスは統一されたばかりのスペインのフェルナンドとイサベルに賭けてみることにした。そしてどうにかイサベル女王を説得した。

※ここに近代以前の信用供与の話を挿入

小学生でも知っているようにイサベルの投資は大当たりした。

p143 投資してくれそうな人の数を増やし、彼らのリスクを減らすために、ヨーロッパ人は有限責任の株式会社に目を向けた。リスクは抑えられ、利益の上限はなくなる。たとえ少額でも適切な船に投資をすれば大金が転がり込むかもしれない。

西ヨーロッパでは高度な金融制度が発達し、信用制度によって起業家や政府が短期間で多額の資金を使えるようになった。この信用の力でオランダはスペインと激しく争った。一六世紀、スペインはヨーロッパ一の強国。一方オランダはスペインが支配する帝国の片隅を占めるにすぎなかった。

一五六八年、プロテスタントのオランダはカトリックのスペインに反乱を起こした。反乱軍は無敵の風車に向かって果敢に突進していくドン・キホーテさながらだった。ところが一五八〇年のうちに、オランダはスペインからの独立を確保したばかりか、スペインとその盟友ポルトガルに取って代わって海の覇者となり、グローバルなオランダ海上帝国をつくった。

p144 その秘密が「信用」だった。オランダ人は傭兵部隊に戦わせた。莫大な費用はスペインよりもたやすく調達できた。第一にオランダは期限内の全額返済を厳守した。第二にオランダは私有財産の権利を保護した。資本は、個人の財産を守れない国から逃げ出すからだ。オランダの正反対がスペインだった。

p147 スペイン王は投資家たちの信用を失い、オランダ商人たちは信用を得た。

p147 一六〇二年、オランダ東インド株式会社

p149 一六六四年、オランダ西インド株式会社、ニューヨーク、ウォール街

p150 一七一七年、フランスのミシシッピ会社

p151 一七八九年、ルイ一六世は、三部会を一世紀半ぶりに開き、ミシシッピ・バブルの解決策を見つけようとした。

p152 一八五八年、やっとイギリス王室はイギリス東インド株式会社私有の軍隊とインドを国の支配下においた。

資本の名の下に

p153 一八四〇年、イギリス・中国間の第一次アヘン戦争

一八八一年、エジプト国民主義者の反乱※イギリスの利

p154 一八二一年、ギリシャ人がオスマン帝国に反乱※イギリスの利

自由市場というカルトp155

二〇〇七年、アメリカの住宅バブルとその後の銀行の貸し渋りと不景気。翌年リーマンショック

p157 資本主義の地獄p157

p158 イギリスの年間砂糖摂取量は、一七世紀初めはほぼゼロだったのに、一九世紀初めには八キロ前後に増えた。

一六世紀から一九世紀まで、約一〇〇〇万のアフリカ人が奴隷としてアメリカに

p160 一九世紀になっても資本主義の倫理は改善しなかった。

一八七六年、ベルギー

一八八五年、コンゴ自由国

p161 彼らは腕を切り落とされ(略)死者の数は一〇〇〇万人にもおよぶ

一九〇八年以降、共産主義への恐怖で、

二〇一四年の経済のパイは、一五〇〇年のものよりはるかに大きいが、その分配はあまりに不公平で、アフリカやインドネシアの労働者が一日身を粉にして働いても、手にする食料は五〇〇年前の祖先よりも少ない。農業革命と同じように、近代経済の成長も大がかりな詐欺だったということに、なりかねない。

後日

第一七章 産業の推進力

※一八世紀。一七〇〇年。江戸編で採用か?

p166 熱を運動に変換する。

p168 中国の錬金術師が火薬を発明してから、トルコの大砲がコンスタンティノープルの城壁を破壊するまで六〇〇年かかった。だがどんな種類の質量もエネルギーに変換できる(E=mc2)とアインシュタインが言ってから、広島と長崎を原子爆弾が壊滅させるまでには、わずか四〇年だった。

第一八章 国家と市場がもたらした世界平和

p192 王国や帝国はマフィアと同じ。みかじめ料を(コミュニティーの長老に任せて)取り立てる見返りに、犯罪組織が自分の庇護下にある者たちに手を出さないようにしていた。それ以外には何もしてないに等しかった。

家族やコミュニティーに属する生活は理想とは程遠かった。国家や市場と同じように、その成員を迫害しかねず、しばしば緊張と暴力に満ちていた。しかし選択肢はなかった。一七五〇年ごろには、家族やコミュニティーを失えば死んだも同然だった。仕事もなく、教育も受けられず、病気になったり災難にあっても、支援は得られなかった。お金を貸してくれる者もなく、誰も守ってくれない。警察官もソーシャルワーカーもいなければ、義務教育もない。こうした人物が生き延びるためには、失ったものの代わりとなる家族やコミュニティーをさっさと見つける必要があった。家出した少年少女に期待できるのはよくてよその家族の使用人になることぐらいだった。最悪の場合、軍隊や売春宿に行き着いた。

これらの状況は、この二世紀の間に一変した。産業革命は市場に大きな力を与え、国家には新たな通信と交通手段を与え、事務員や教師、警察官、ソーシャルワーカーなどを政府が活用できるようにした。当初、国家や市場は、伝統的な家族やコミュニティーに行く手を阻まれることに気づいた。国家や市場は、力を使って家族やコミュニティーの力を弱めた。警察官を派遣して家族による復讐を禁止し、裁判所による判決を導入した。

p193 さらに国家と市場は、「個人になるのだ」と提唱した。「親の許可を求めることなく、誰でも好きな相手と結婚すればよい。地元の長老らが眉をひそめても、何でも自分の好きな仕事をすればよい。たとえ毎週家族との夕食の席に着けなくても、どこでも好きなところに住めばよい。もはや、家族やコミュニティーに依存してはいけない。国家と市場が代わりに面倒を見よう。食事を住まいを教育を医療を福祉を職を提供しよう。年金を保険を保護を提供しよう。」

ロマン主義文学ではよく、国家や市場と戦う者として個人が描かれる。しかし真実ではない。国家と市場は、個人の生みの親であり、この親のおかげで個人は生きていける。仕事、保険、年金、教育、融資、警察、老人ホーム、裁判が与えられる。

p194 国家と市場と個人の関係は、まがりなりにも機能している。(略)何百万年もの進化の過程で、人間はコミュニティーの一員として生き、考えるよう設計されてきた。ところがわずか二世紀の間に、私たちは阻害された個人になった。文化の驚異的な力をこれほど明白に証明する例は他にない。

p197 (伝統的な家族とコミュニティーの代わりの)想像上のコミュニティーの台頭を示す例は、「国民(国家のコミュニティー)」と「消費者(市場のコミュニティー)」の二つだ。

p199 国民コミュニティーはこの数十年で、消費者コミュニティーに前に、影をひそめつつある。阪神タイガースのファンも、ベジタリアンも環境保護論者も、消費者コミュニティーだ。何よりもまず消費するものによって定義される。それこそが、彼らのアイデンティティの源だ。ベジタリアンのドイツ人は、肉好きのドイツ人よりも、ベジタリアンのフランス人を結婚相手に選ぶだろう。

p202 第二次世界大戦終結後の七〇年に、人類は初めて、自らの手で完全に絶滅する可能性に直面し、相当な数の戦争や虐殺を経験した。だがこの七〇年は、人類史上で最も、しかも格段に平和な時代でもあった。これは注目に値する。というのも、同じ時期に私たちは過去のあらゆる時代を上回る経済的、政治的、社会的変化も経験しているからだ。歴史の構造プレートは凄まじい勢いで移動しているが、火山はおおむね静穏を保っている。新たに登場した柔軟な秩序は、激しい武力衝突に陥ることなく、抜本的な構造変化を受け入れ、さらには引き起こすことさえできるようだ。

現代の平和

p202 二〇〇〇年、戦争三一万、暴力犯罪五二万、計八三万。死亡者五六〇〇万人の一・四八パーセント。自動車事故一二六万人(二・二五パーセント)、自殺者八一万五〇〇〇人(一・四五パーセント)

二〇〇二年、戦争一七万五〇〇〇人、暴力犯罪五六万九〇〇〇人、計七四万一〇〇〇人。死亡者五七〇〇万人の一・三パーセント。自殺者八七万三〇〇〇人(一・五三パーセント)

九・一一テロの翌年にもかかわらず、一般の人々は、テロリストや兵士あるいは麻薬の売人に殺されるよりも、自殺する可能性の方が高かった。

p203 暴力の減少はおもに、国家の台頭のおかげだ。いつの時代も、暴力の大部分は家族やコミュニティーの間の限られた範囲で起こる不和の結果だった。

p204 中世ヨーロッパの王国では、人口一〇万人あたり、毎年約二〇~四〇人が殺害されていた。現在の殺人の世界平均は、一〇万人あたり、わずか九人。多くはソマリアやコロンビアのような弱小国で起こっている。中央集権化されたヨーロッパでは、一〇万人あたり、一人だ。(略)巨視的な視点に立てば、国家は安全水準を上げてきた。ブラジルは一九六四年に軍事独裁政権が樹立され、その支配は八五年まで。二〇年間で数千人のブラジル人が政権によって殺害された。だが、最悪の時期にあってさえ、リオデジャネイロに暮らす平均的なブラジル人は、アマゾンの密林の奥に暮らす先住民(ワオラニ族、アラウェテ族、ヤノマミ族)に比べれば、他人に殺される率ははるかに低かった。これらの先住民は軍隊も警察も監獄も持たない。これらの部族では男性の四分の一から半分が、財産や女性や名誉をめぐる暴力的なあらそいによって、早晩命を落とすという。

※以下後日

帝国の撤退p205

原子の平和p207

第一九章 文明は人間を幸福にしたのか

幸福度を測るp218

化学から見た幸福p226

人生の意義p232

汝自身を知れp234

p238 感情の追求をやめると、心は緊張が解け、澄み渡り、満足する。(略)ブッダが教え諭したのは、外部の成果の追求のみならず、内なる感情の追求をもやめることだった。

p240 歴史書のほとんどは、(略)各人の幸せや苦しみにどのような影響をあたえたのかについては、何一つ言及していない。私たちは、この欠落を埋める努力を始めるべきだろう。

第二〇章 超ホモサピエンスの時代へ

マウスとヒトの合成p244

ネアンデルタール人の復活p247

バイオニック生命体p250

別の命p254

特異点p256

フランケンシュタインの予言p259

p271

サピエンスの未来

生物工学、サイボーグ工学、非有機的生命工学

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