数学の歴史I メルツバッハ&ボイヤー

『戦国編・肆 世界』のネタ コペルニクス、カルダーノほか。

***

第二版への推薦文 アイザックアシモフ
数学においてのみ、重大な訂正はなく、拡張があるのみ。

p274
レギオモンタナス
ウィーン大学の師匠ポイルバハ(1423-69)
ベッサリオン枢機卿

p275
16世紀の半ばにかけて最高の科学古典のいくつかがニュルンベルクで出版された。
レギオモンタナスは天文学のさまざまな矛盾を解決することを望んでいたが、彼は暦の改訂についての協議のためにローマに呼ばれ、論争のうちにローマで死んだ。
天文学におけるレギオモンタナスの貢献は、ポイルバハが着手したプトレマイオス『アルマゲスト』のラテン語新訳を完成させたこと。

p276
■一五三三
レギオモンタナスの重要な著作『全形状三角形論』が印刷出版された。これは、三角形の解法を系統立ってまとめたもので、これによって三角法が復活した。

p286
■一五四一
タルターリャは、独力でか、あるいは得られた手がかりをもとにしてか、三次方程式の解法を会得していた。※三好長慶が結婚した頃である。
フィオルとタルターリャの数学試合。
フィオルはタルターリャの問題を1問も解けなかった。
p287
タルターリャの勝利を聞いたカルダーノは、後援者になってくれそうな人物を紹介するからといってすぐさまタルターリャを自宅に招いている。
p288
カルダーノは、吃音のタルターリャと対照的に、医者として世俗的な成功を収めていた。(略)カルダーノは、生まれが私生児のうえ占星術師でばくち打ちで宗教の面でも異端であったが、それでもボローニャ大学やミラノ大学の教授として尊敬され、最後にはローマ教皇から年金まで与えられている。

p291 ※なぜ高校生が三次方程式を解くのか?
カルダーノ
古代ギリシャ人
複素数の回避
(略)

p294
ロバート・レコード
コペルニクスの天文体系を認め、引用していた。(略)彼が獄中で没する一五五八年の一年前に(略)

p295
13.9三角法
一六世紀に最も発展を遂げた数学は代数であったが、三角法もそれほど目覚ましくはないながらも進歩していた。三角表作成は退屈な仕事ではあるが、その表は天文学者や数学者たちとってきわめて有用なものである。その意味において、一六世紀初頭のポーランドとドイツは非常に大きな貢献をした。ニコラス・コペルニクス(1473-1543)は、地球が太陽のまわりを回っていることを人々に納得させることによって世界観の変革に成功した天文学者だと現代人のほとんどが考えている。アリスタルコスも試みたが失敗した。しかし、天文学者とはほぼ必然的にさんかくほう学者でもあるので、したがって我々は、天文学と同じく数学においてもコペルニクスのおかげをこうむっている。
□13.9.1コペルニクスとレティクス
レギオモンタヌスの存命中にポーランドはすでに学問の「黄金時代」を享受しており、一四九一年にコペルニクスが入学したクラクフ大学は、数学と天文学で非常に高い名声を得ていた。コペルニクスはさらにボローニャ、パドヴァ、フェラーラの各大学で法学、医学、天文学を学び、ローマでしばらく教鞭をとったのち、フラウエンブルクの司教座聖堂参事会員になるべく一五一〇年にポーランドに戻っている。そして通貨改定やチュートン騎士国の取り締まりなどの行政上のおびただしい仕事があったにもかかわらず、コペルニクスは名高い著作『天球の回転について』を書き上げた。これは一五四三年、彼の死んだ年に出版されている。この著作はかなりの部分が三角法にさかれているが、その三角法の部分はその前年に『三角形の辺と角について』の書名で出版されていた。そこで扱われていた三角法は、ニュルンベルクでほんの一〇年前に出版されていたレギオモンタヌスの『三角法』に似たものであった。しかしコペルニクスの三角法についての構想は一五五三年以前にさかのぼると思われ、したがってそのとき、彼はレギオモンタヌスの本は知らなかったろう。だがそれでも、コペルニクスの三角法の最終的な形は一部レギオモンタヌスに由来することが十分に考えられる。というのは、一五三九年にコペルニクスはゲオルク・ヨアヒム・レティクス(1514-1576)を学生として迎えているが、レティクスはヴィッテンベルクの教授でニュルンベルクを訪れたことがあった。レティクスは三年間ほどコペルニクスとともに仕事をしたが、このレティクスこそが、師コペルニクス同意のもとに『第一報告』(一五四〇年)というコペルニクス天文学についての最初の短い解説書を出版し、また有名な『天球の回転について』出版のための最初の手はずを整えた人物であった。ちなみに『天球の回転について』の出版を完遂したのはアンドレアス・オジアンダーである。したがって、コペルニクスの古典的名著『天球の回転について』に見られる三角法は、レティクスを通じてレギオモンタヌスの三角法に密接に関係していると考えられる。
p298
□13.10.1 透視画法の理論
ウェルナー
イタリアとドイツ
ルネサス芸術と中世芸術の違い
透視画法
フィレンツェのフィリッポ・ブルネレスキ
レオン・バティスタ・アルベルティ
1435『絵画論』(出版は1511年)
p299
イタリアのフレスコ画家ピエロ・デッラ・フランチェスカ
アルキメデスの『方法』
レオナルドダヴィンチ『絵画論』数学者でないものにこの本を読ませてはならない。
ニュルンベルク出身のアルブレヒトデューラー
パチョーリ
1514年の名高い版画「メレンコリアⅠ」。西洋において魔方陣が使われた最初の例。

###ここから安土編
p302
□13.10.2地図製作
フランドルの地理学者ゲラルドゥス・メルカトル(1512-1594)はブリュッセルの神聖ローマ皇帝カール五世の宮殿に出入りしたことがある。
コペルニクスがプトレマイオス天文学に背いたように、メルカトルは地理学においてプトレマイオスに背いたといえる。
生涯の前半、メルカトルはプトレマイオスの方法に頼りきっていたが、一五五四年には、プトレマイオスが概算した地中海の幅を62°から53°に訂正できるほどプトレマイオスの影響から脱していた(実際は40°)。さらにメルカトルは1569年に、新しい原理に基づく最初の世界地図『地球の新大記述』を出版した。
p304
□13.11ルネサンスの動向
p306
□13.12フランソワ・ヴィエト(1540-1603)
p307
□13.13解析術
p311
□13.13.1方程式の近似解
p312
□13.13.2三角法
レギオモンタヌス
レティクス
前出の『数学的表』(1579年)※本能寺の3年前
p313
ウェルナーの公式
p314
デンマークのティコ・ブラーエ(1546-1601)
スコットランドのジョン・ネイピア
プトレマイオスの公式
□13.13.3三角法で解く方程式
###
第一四章 近代初期の問題解答者たち
p321
□14.3記数法
記号代数学はデカルトの『幾何学』において完成する。
□14.4対数
一六一四年、ジョン・ネイピア、対数についての本を発表。彼はスコットランドの地主マーチストン男爵。広大な領地を管理し、プロテスタントの信者であり、いろんなことを書いた。
p332
□14.6.1ヨハネス・ケプラー
p334
放物線には焦点が二つあり、その一方は無限遠にある、という考え方はケプラーによる。また「焦点」(ラテン語で「炉端」)という言葉も、ケプラーがはじめて使った。
■一六〇九年
『新天文学』で、ケプラーは、天文学における第一と第二法則を発表した。
(一)惑星は太陽を焦点の一つとする楕円軌道上を運行する。
(二)惑星と太陽を結ぶ動径ベクトルは等しい時間内に等しい面積を通る。

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