『三好一族と織田信長』天野忠幸

20180525『三好一族と織田信長』天野忠幸

はしがき
政府が東西に分かれ、約一〇年も首都で内戦が続いた。日本のことである。応仁の乱(一四六七)として知られる。
官房長官が総理大臣をやめさせた。これまた日本のことである。明応の政変(一四九三)として知られる。ただし、総理大臣=将軍、官房長官=管領と読み替えてほしい。
約百年にわたって、地方は中央に税を支払わなかった。これも当時の日本のことである。各地方が中央から独立したが、独立国の安定経営が大切であり、全国統一の動きはなかった。そのため、将軍(足利家)を、いちおうのトップとする政治体制が続いていた。
そんな日本を誰が統一したか?
織田信長。
その名がいつも挙げられる。信長は「麟」の花押(かおう)や「天下布武(てんかふぶ)」の印判(いんぱん)を使い、尾張にいた地方時代からずっと全国統一を考えていた、と思われている。
実は、それは間違いだ。
確かなことは、信長が天正三年(一五七五)ころから、自分の国を急激に大きくして、右近衛大将(うこのえだいしょう)になり、足利将軍家を否定したこと。そんな信長に影響を与えたのは、いままでは、将軍足利義昭、武田信玄、本願寺顕如などが考えられてきた。彼らは何度も信長を苦しめている。
しかし、もっとも大きな存在は、信長以前に二〇年あまりにわたって畿内を支配し、足利将軍家と戦ってきた三好長慶だ。
信長が初めて日本の首都京都に行ったとき見たのは、近畿と四国を支配し、将軍足利義輝を滋賀県に追放した三好長慶だった。そして信長をふたたび京都に行かせるきっかけとなったのは、長慶の後継者である三好義継(よしつぐ)が将軍義輝を殺した事件だ(『信長公記』)。

※ここから安土編の冒頭で採用を検討。
p4 ※三好氏略系図
p10
政府(室町幕府)を相手に戦った三好長慶と織田信長だが、永禄七年(一五六四)に長慶が死に、永禄一一年(一五六八)に信長は畿内に侵攻する。だから、両者が直接戦ったことはない。
しかし信長の死後、百年くらいまでは、信長よりも長慶を上に見ていたようだ。それは延宝八年(一六八〇)の『武辺咄聞書(ぶへんばなしききがき)』の逸話などでわかる。具体的な内容はここでは省略する。
p13
※細川氏略系図
畿内の争乱と細川氏の内紛
将軍足利氏、管領斯波氏や畠山氏の家督争いは応仁・文明の乱の原因となり、その後も解決されることはなかった。三管領のうち唯一分裂せずに乱をのりこえた細川氏の力は強くなった。
■明応二年(一四九三)
細川政元は、一〇代将軍足利義稙をやめさせ、義澄を一一代将軍とするクーデターをおこなった。
※義澄は、関東の堀越公方足利政知の子。
明応の政変と呼ばれるこの事件の裏には政元独自の構想があったとされる。
政元はすでに細川一族の高国を養子としていた(※最新の学説ではそうなのか?)が、政変以前に前関白九条政基より澄之を新たに養子に迎えた。澄之の母は足利政知の妻と姉妹であったことから、義澄を将軍に、その兄弟の潤童子を鎌倉公方に、その従兄弟の澄之を細川氏家督につけることを考えていたようだ。政元は自分の力を背景に、京都と鎌倉、朝廷と幕府の合体による新政権を目指していたようだ。※幕末の公武合体。
p14
しかし、伊豆では潤童子が庶兄の茶々丸に殺され、将軍をやめさせられた義稙も、すぐに京都を脱出して越中(富山県)に逃げた。また、澄之は細川一族らの支持を得られなかった。政元は将軍や天皇から「半将軍」とおそれられる一方で、細川一族らの統制に苦しんだ(薬師寺兄の乱)。そして、強引に将軍をやめさせたことは、多くの守護の反発を買い、守護が在京し幕政に参加する、それまでの「守護在京制」は崩壊した。
また、一族の阿波守護細川成之らは、畿内近国を自分たちの国にしたいと思い、成之の孫の澄元を新たに政元の養子にして、家督を継がせようと望んでいた。
そしてついに細川氏も内部分裂を起こした。
■永正四年(一五〇七)
六月二三日、細川氏内部に支持基盤を持たない澄之は、養父の政元を暗殺した。(実行部隊は薬師寺弟ら)すぐに高国と澄元は澄之を討ち、澄元が家督を継承した。しかし高国と澄元の関係は続かず、畿内の国人の支持を得た高国が、澄元とその後見人(武力。実行部隊)の三好之長を阿波に追い落とした。
■永正五年(一五〇八)
六月、高国は、周防・長門・豊前・筑前を押さえ、流浪していた足利義稙を保護していた大内義興や、近畿南部を押さえる畠山稙長、能登の畠山義元らを幕政に参加させ、義稙をふたたび将軍にした。高国は畿内・西国・北国の有力守護との協調路線により、(※幕末賢公会議。古来伝統の政治手法)明応の政変による混乱を収めようとした。
このあと、細川澄元と三好之長はたびたび京都を占領しようとするが、高国・大内義興らにはばまれて、すべて失敗に終わった。
p15
「堺公方」の攻防
■永正一五年(一五一八)
盤石に見えた高国の支配は、この年、大内義興が周防に帰国したことから揺らぎはじめる。
■大永元年(一五二一)
足利義稙は細川高国と仲違いして阿波に逃げたため、高国は足利義澄の子義晴を将軍にした。源頼朝の時代から徳川慶喜までの将軍の中で、ただ一人、二度将軍になった義稙も、三度将軍になることはできずに阿波で死に、そのあとは養子となっていた義維が継いだ。義維は義晴の兄である(弟といわれていた)。
p16
【写真】三好元長の戦死の碑 大阪府堺市・開口(あぐち)神社

■大永六年(一五二六)
高国は讒言により家臣の香西元盛を殺したため、元盛の兄弟の波多野元清と柳本賢治が離反した。元清と賢治は、阿波の足利義維や細川澄元の子晴元に上洛を呼びかけ、これをチャンスと見た義維と晴元は、三好之長の孫元長と共に堺を占領し、上洛の機をうかがった。
義維の勢いを見た公家は、義維を「堺公方」や「堺大樹」と呼んだ。これは将軍に等しい。これに対して、京都から逃げた義晴は近江の朽木(高島市)にいたため、「朽木大樹」と呼ばれた。二人の将軍である。堺では、将軍格は足利義維、管領格は細川晴元とし、代々幕府の奉行人をつとめてきた一族である斎藤氏や松田氏、飯尾氏、治部氏らが奉行人連署奉書を発行して、畿内の政治にあたった。
■大永八年(一五二八)
八月二〇日、(誰が?天皇が義晴に。堺にはことわりなし。おそらく)享禄に改元したにもかかわらず、一一月にいたるまでの約三か月間は、改元を拒否して大永の年号をつかった奉行人連署奉書を発行している。
■享禄四年(一五三一)
三好元長が細川高国(浦上村宗が武力担当)を討ちとる。これで堺公方の足利義維がついに上洛をはたすかに見えた。
p17(『三好一族と織田信長』天野忠幸)
■享禄五年/天文元年(一五三二)
細川晴元は長年の宿敵であった細川高国を滅ぼした三好元長の軍事力を恐れ、突如本願寺光教(証如)と結んで元長の排除を企てた。一向一揆に攻めたてられた元長は衆寡敵せず、当時は堺の開口(あぐち)神社の近くにあった法華宗寺院の顕本寺で自害して果てた。※写真が欲しい。
元長に同情的であった足利義維も自害しようとしたが、晴元に捕らえられて幽閉された。そして晴元は足利義晴と和睦を進める。
なぜ晴元は和睦しようとしたのか。
全国の守護に将軍として広く認められていたのは、現職の義晴であったからだ。
具体例をあげよう。現在確認されている義維の御内書(*1)は、次のわずか三例。
一、和泉下守護家家臣の富良野氏
二、播磨国人の小寺氏
三、京都の本能寺
それに対して義晴の御内書は、上杉・朝倉・武田・北畠・畠山・赤松・山名・大友氏など全国の守護、有力な国人や寺社にまでおよんでいる。
中央である京都の公家は義維の勢いを知っていたが、地方の守護たちにはわからなかった、ということだろう。現代のようなメディアはなかったのである。
晴元は義維を見捨て、義晴と結ぶことで、全国的な幕府のトップを目指したのだ。裏切りバンザイなのである。
(*1)ごないしょ。室町、江戸時代、将軍が発給した私文書で、形式は普通の書状であるが、公的意味をもつもの。下文 (くだしぶみ) 、御教書 (みぎょうしょ) などの公的文書に代って、足利尊氏以降、時代とともに盛んに用いられるようになり、徳川将軍家もこれを用いた。
p18(『三好一族と織田信長』天野忠幸)
この年(天文元年)に成立した足利義晴・細川晴元・六角定頼が主導する幕府は、その後、本願寺証如による制御が効かなくなった一向一揆や、京都の町衆を中心とする法華一揆と抗争を重ねた。義晴幕府は、細川高国を討ち、足利義維を阿波に追ったあとも畿内を安定的に支配できない。その幕府に対して、細川高国の残党を組織した細川晴国や細川国慶、細川氏綱が畿内各地で挙兵をくり返した。
■天文七年(一五三八)(『三好一族と織田信長』天野忠幸)
この年より天文一〇年頃にかけて、氏綱は南近畿を支配する畠山稙長と同盟し、山陰の尼子氏に上洛を呼びかけ、土佐の香宗我部氏とも連携する動きを示した(『土佐国蠢簡集』)。尼子晴久は播磨の三木城まで進撃し、赤松晴政を堺に追い落としている。氏綱は足利将軍家を擁立することなく、畿内から西国にかけて広い地域を巻きこんだ戦争を主導した。
一方の晴元は、三好一族の三好宗三(政長)を側近にして、強引に畿内国人の編成を進めた。そうした晴元にたいする不満の受け皿になっていったのが、三好元長の子長慶であった。天文の一向一揆により阿波に落ちた長慶は、晴元と証如の和睦を仲介するなど、晴元の家臣の一人として畿内に復帰し、父元長の恨みを晴らす機会を待った。
p19(『三好一族と織田信長』天野忠幸)
■天文八年(一五三九)
長慶は三好宗三と武力衝突を引きおこす。長慶は、これによって実力の一端を示したので、摂津越水城(西宮市)を得た。また、丹波守護代の波多野秀忠の娘を娶るなど、事実上の摂津守護代として晴元より遇されることになった。
※河内一七カ所のことは書かれていない。長慶のものになったかどうか不明。

p19
松永久秀(摂津中小国人)
野間長久(同)
長弟の三好実休
次弟の冬康
三弟の一存(かずまさ)

■天文一七年(一五四八)(『三好一族と織田信長』天野忠幸)
五月、摂津で最大規模の国人である池田信正が、かつて細川氏綱に内通した罪を蒸し返され、細川晴元に自害に追いこまれた事件を機に、事態は急展開する。

八月十二日、長慶は「信正の義父で晴元の側近である三好政長(宗三)が池田家の危機に便乗して、その財産を押領しているので誅殺すべし」と晴元のその他の側近に手紙を送りつけた(『後鑑所収古文書』)。長慶は直接主家である晴元を討つことをはばかり、政長(宗三)・政勝(宗渭(そうい))親子の成敗を大義名分にして挙兵した。

p20(『三好一族と織田信長』天野忠幸)
十二月十日、長慶は「親子の思いを成し、一味する」旨の起請文を、細川氏綱を擁する河内守護代の遊佐長教に対して書いた(『大和文華館所蔵双柏文庫』)。『細川両家記』によると、長慶は晴元が宗三(政長)・宗渭(政勝)親子に加勢したことに激怒し、氏綱を細川家の家督に据えることを長教に相談したという。(略)長慶兄弟が氏綱チームに参加した形になったが、畿内の守護代、国人層がみんな長慶に味方したのは、長慶が晴元や政長との単なる内輪もめではなく、主家の横暴から国人を守り、その存続を保証するという国人領主共通の問題を前に出して、自分を彼らの利益代表者に見たてたのが大きかった。(※うまい。演出は大切)長慶は遊佐長教の娘と結婚した。長教は義父となった。

■同年 天文17年(1548)信長15歳
斉藤道三の娘(濃姫・帰蝶とも)を娶る。(織田信長の年表 http://www.oyakatasama.com/oda/nenpyo.html )

■天文十八年(一五四九)
※長慶、父の仇・三好政長を討つ
六月二十四日、江口(大阪市東淀川区。阪急十三駅付近)で三好政長を討ち、逃げる細川晴元や三好政勝らを追って、京都に攻め上った。苦節十五年余り、長慶は耐えて、ついに父元長の無念を晴らし、晴元からの独立を果たした。
**********
(四)長慶、将軍を追放する 一五五三
p21 細川氏の家督争い終結、義輝追放

■天文十九年(一五五〇)
細川晴元に味方して近江に逃げた足利義晴・義輝親子は京都奪還を企てた。銀閣寺の近くに中尾城(京都市左京区)築き始めた。(略)
五月一四日、義晴は死んだ。享年四〇。
子の義輝は、このときわずか一五歳。(『妖雲』)
※この年、長慶、事実上の天下人になる。

■天文二十年(一五五一)
一月
幕府政所執事の伊勢貞孝が義輝を見捨てて長慶に降った。
三月
義輝、二度にわたって刺客を放ち、長慶の暗殺を試みたが、いずれも失敗。
五月
義父遊佐長教が時宗の僧侶に暗殺される。そして前年またはこの年には、長教の娘婿であった大和の筒井順昭も死去している。長慶は河内・大和の同盟者を相次いで亡くした。

■同年 天文20年(1551)信長18歳
3月、父信秀が病死したため家督を継ぐ。(21年説もあり)(織田信長の年表 http://www.oyakatasama.com/oda/nenpyo.html )

■天文二十一年(一五五二)
一月
義輝チームも抗戦派であった六角定頼が死去。宥和派の六角義賢(よしかた。後の承禎(しょうてい))が家督を継いだので、和睦のムードが高まった。
p22
一、義輝は京都に戻ること
二、晴元の長男信良(のぶよし)を人質として差し出すこと
三、晴元は出家すること
四、氏綱を細川家の家督とし、右京大夫にすること
五、長慶を将軍の直臣にすること
などを条件に和睦成立。
半世紀近く続いた細川氏の家督争いは、氏綱に統一され、氏綱の跡は長慶に養育される信良が継ぐことで決着した。
長慶は、細川氏統一の立役者であるとともに、もはや細川氏の家臣ではないことを示した。
京都は平和を取り戻すかに見えたが、細川晴元・三好政勝(宗渭)は洛北や丹波でゲリラ戦を繰り返す。義輝は、彼らや側近の上野信孝を頼りに、再び反長慶の姿勢を示した。

■天文二十二年(一五五三)
※長慶、将軍を追放する
二月二十六日、長慶は清水寺で義輝と対面し、反長慶派の上野信孝らから人質を集め、義輝を戒めた。
p23
しかし義輝はこのあとも長慶との対決に突き進む。
七月二十八日、義輝は晴元を赦免し、和平の破棄をはっきりさせた。
八月一日、長慶は義輝が籠もる霊山城(京都市東山区)を攻略した。
八月五日、義輝と晴元は龍華(大津市)に逃げた。
このとき長慶は、義輝に従う者は知行を没収するという、今までにない強硬姿勢を示したため、義輝に従う者はわずか四十人余りに減ってしまった(『言継卿記』)。
八月三十日、義輝は戦闘不能なので朽木へ逃げた。
p23
※義輝と不仲の長慶は代わりの将軍を擁立しなかった。優柔不断ではない。下克上の時代とはいえ、やはり当時の身分秩序というものであろう。信長も尾張守護斯波義銀(よしかね)や将軍足利義昭を殺さず、追放にとどめている。(略)
p24
長慶の勢力は芥川山城(高槻市)を中心に、摂津、山城、丹波、和泉、淡路、播磨東部、阿波、讃岐、伊予東部に及ぶ。

■天文二十四年(一五五五)
七月三十日、松永久秀は六角義賢の重臣に送った手紙がある。「義輝の悪巧みは明らかである。二度も『晴元を許さない』と自筆の書類を長慶に渡したのに、それを自ら破ったので『天罰』が下った」
痛烈な批判である(『阿波国徴古雑抄所収三好松永文書』)。
p25
この頃、三好家・六角家・畠山家では、「四国室町殿」と呼ばれた足利義維の扱いをどうするかが話し合われている。六角家と畠山家は、長慶が義維を将軍にすることを警戒していた。
結局、長慶は義維だけではなく、義輝の二人の弟である鹿苑院周暠(ろくおんいんしゅうこう)や一乗院覚慶(いちじょういんかくけい。後の義昭)も擁立することなく、京都の支配にのりだした。足利一族をまったく擁立しない長慶の姿勢は、将軍足利氏の権威が低下しつつあった戦国時代においても、きわめて珍しかった。擁立の例をいくつかあげておく。
一、大内義興 足利義稙を擁立
二、北条氏康(早雲の孫) 足利晴氏の嫡子藤氏を廃し、晴氏の末子ながら、氏康の甥にあたる足利義氏を古河公方に擁立
三、長尾景虎(上杉謙信)らは、氏康に対抗して、氏康に廃された足利藤氏を古河公方に擁立
四、織田信長 足利義昭を擁立(義輝の弟)
長慶は戦争に勝ち抜き、戦国時代で初めて足利一族を擁することなく、首都京都の支配をはじめた。
**********
(五)長慶、天下人になる 一五六一
p26
長慶の裁許にみる影響力の増大
■天文二四年/弘治元年(一五五五)
石清水八幡宮の家督争いが起こった。義輝が定めた家督(東竹甲清(こうせい))に対し、長慶はこれを破棄して別の家督(西竹教清(きょうせい))を命じている。
長慶は将軍を越えていることがわかる。
p27
■弘治二年(一五五六)
出雲において、鰐淵寺(がくえんじ)と清水寺の争いが起こった。清水寺は尼子晴久と結んでいる。この争いは朝廷や六角氏まで巻き込み、天皇は決定は二転三転していた。ここに長慶は介入し、鰐淵寺を勝利させる勅許を天皇に出させ、争いを終わらせた。
長慶は天皇を越えているだけでなく、畿内だけでなく遠国にも力が届いていたことがわかる。
p28
■弘治三年(一五五七)
九月五日、後奈良天皇死去。その四十九日をめぐって寺院間で争いが起こった。悩んだ正親町天皇は長慶に決定を頼み、長慶は応じている(『泉涌寺文書』)。
義輝はほぼ京都不在。正親町天皇は義輝を見限り、長慶に信頼を寄せていく。
p29
永禄改元による義輝の権威失墜
■弘治四年/永禄元年(一五五八)
二月二十八日、正親町天皇に代替わりしたので改元が行われ、この日、年号は永禄元年に改まった。
手続きが異例であった。室町時代の改元は、公家代表の天皇と武家代表の将軍の合意によって行われた。そのため、応永という年号は、天皇が改元を望んでも将軍(義満・義持)が同意せず、三十年余りも続いた。
戦国時代になり、将軍の京都不在が続くと、天皇から将軍に連絡するという形に変わった。大永や天文の改元は、天皇から近江にいた将軍(足利義晴)に伝えられた。
しかし正親町天皇は朽木にいた義輝に改元を知らせることはなかった。改元を他人から聞かされた義輝は激怒し、改元を拒否して弘治の年号を使い続けた。
五月、義輝は五年間の沈黙を破って挙兵し、坂本(大津市)まで兵を進めた。
正親町天皇は連絡を忘れていたのではない。事前に長慶に相談したようだ。つまり、正親町天皇は義輝を武家代表とは認めない、と決めた。そして長慶が武家代表であると決めたのだ。
だから義輝は激怒して改元に従わず挙兵した。
p30
まとめると、(※本には書かない)
一、天皇が決めた年号を否定して挙兵した義輝は、反逆者の宣言をしたことになる。
二、天皇はこの改元により、長慶を武家代表と全国に宣言したことになる。
全国の大名の対応は、
北条、武田、今川は永禄改元にすぐ従う
毛利は十二月まで従わなかった。三好と領国を接しない東国の大名とは違う。瀬戸内海を挟んで向かいあう毛利にとっては従いにくかった。
p31
結局、義輝は改元に従い、十一月二十七日に和睦。

※義輝が坂本まで進軍した地図。

相次ぐ諸大名上洛の背景
■永禄二年(一五五九)
二月七日、尾張の織田信長が、五年ぶりに京都に戻った義輝に会うために上洛。(美濃の斎藤義龍、越後の長尾景虎(上杉謙信)も相次いで上洛)
二月七日、信長は帰国。岩倉城の織田伊勢守と戦争中のため。義輝の公認を受け、岩倉織田氏との戦いを優位に進め、尾張統一をするという目的であろう。
p32
諸大名の上洛は、永禄元年の長慶と義輝の戦いにより、「足利家を頂点とする秩序が壊れるのかどうか」を自らの目で確かめるためであろう。

p34 第二章 揺らぐ将軍の権威
■永禄二年
十一月 正親町天皇が、楠木正成の末裔を赦免する。楠木正成は『太平記』で「七度生まれ変わって足利氏を討つ」ことを誓った。義輝はその赦免に同意せざるを得なかった。

p35 偽りの和睦

p37

領国拡大を進める長慶

p38
■永禄三年(一五六〇)
六月 信長、桶狭間の戦い
七月 長慶、河内・大和に侵攻 畠山高政
十月二十四日、長慶は飯盛山城へ。
二十七日、三好実休(長慶長弟)は高屋城へ。

※長慶の勢力地図

p39

教興寺の戦い
■永禄四年(一五六一)
四月 和泉を守る十河一存病死。畠山高政と六角承禎連携して南北から長慶を挟撃大勢。

五月、かねて出家していた旧主細川晴元が、将軍の口ききによって長慶と和睦し、これを機に摂津富田の普門寺にはいって余生を送ることになった。(『松永弾正久秀 黒部亨』)

五月 近江六角と争う美濃の斎藤義龍が急死。北近江の浅井長政が、六角承禎の偏諱による賢政から、織田信長の偏諱を受け長政に改名。織田・浅井同盟と六角・斎藤同盟の対立。十四歳で義龍の跡を継いだ龍興が、前年に今川義元を討った織田信長に対抗するために三好氏と同盟を模索。(p42)

■永禄五年(一五六二)
三月五日、久米田(岸和田市)の戦いで実休戦死。長慶は飯盛山城に籠城、義輝を石清水八幡宮(八幡市)に退去。畠山・根来軍は飯盛山城包囲、六角軍は京都無血占領。
五月二十日、教興寺の戦い。畠山軍・湯河直光戦死。六角軍、近江へ退去。長慶は河内・大和の支配を決定的。

p41

美濃斎藤氏との同盟

p43
■永禄五年(一五六二)
六月七日、斎藤龍興(道三孫、義龍子)は長慶の息子義興と接近。
■永禄六年(一五六三)
三月十五日、三好・斎藤同盟は締結。仲介は伊勢氏(義輝から政所執事の座を追放されていた)。

権威の上昇と諸大名の反発

p46

高まる長慶と義輝の緊張
■永禄六年(一五六三)
三月 細川晴元没(p48)
三月十九日、公家の山科言継(ときつぐ)は義輝の娘に謁見。教興寺の戦いにおける義輝の行動に不信を抱いた三好氏が義輝の娘を人質として差し出すよう要求。三好氏が将軍に優越することを露骨に世間に示す。
p47
六月 嫡子義興が病に倒れる。
八月二十五日、義興、芥川山城で没。二十二歳。
十一月十五日、三好一族が帰依する林下の大徳寺にて義興の葬礼。五山が仕えたことで世間は驚愕。三好氏の大徳寺が足利氏の五山を従えたから。

十二月 細川氏綱没。(p48)

■永禄七年(一五六四)
一月二十二日、義興に代わる長慶の後継者として、長慶の末弟十河一存の子の義継が上洛。翌日、将軍義輝に対面。義継は母方が近衛家と関白職を争う九条家という日本屈指の貴種。(p49)
三好氏は正親町天皇に改元を申請。三月五日に却下。申請したということは三好氏は自らを足利将軍家並と認識していたことが明らかになる。
p48
正親町天皇は、この対立を緩和するために本来行うべき改元を行わない異例の決断。

義継の家督継承と長慶の死
p49
■永禄七年(一五六四)
五月九日、長慶、次弟の安宅冬康を飯盛山城で殺害。冬康は義継の地位を唯一おびやかしかねない。それで長慶に排除されたのであろう。

p50
■同年
六月二十二日、義継は四千の兵を率いて上洛。家督相続を認めた義輝に御礼。
七月四日、長慶没。かぞえ四十三歳。その死は秘された。

長慶の領国支配と信長

p52
主な農繁期の戦い
■天文八年(一五三九)河内十七か所をめぐる細川晴元・三好宗三との戦い
■天文十四年(一五四五)南山城における細川氏綱との戦い
■天文十六年(一五四七)舎利寺(大阪市生野区)における氏綱との戦い
■天文
■天文
■永禄
■永禄
■永禄
■永禄
つまり近世的(※江戸時代)な兵農分離などしなくても通年で戦争できていた。
p53
集めた銭貨を投じて、村落の侍・百姓や都市の牢人を徴兵したのであろう。
後日

信長が畿内を意識していたのであれば、当時畿内を支配していた長慶の支配方式を成功事例として学んでいても、なんら不思議ではない。

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