『三好一族と織田信長』天野忠幸

はしがき
政府が東西に分かれ、約一〇年も首都で内戦が続いた。日本のことである。応仁の乱(一四六七)として知られる。
官房長官が総理大臣をやめさせた。これまた日本のことである。明応の政変(一四九三)として知られる。ただし、総理大臣=将軍、官房長官=管領と読み替えてほしい。
約百年にわたって、地方は中央に税を支払わなかった。これも当時の日本のことである。各地方が中央から独立したが、独立国の安定経営が大切であり、全国統一の動きはなかった。そのため、将軍(足利家)を、いちおうのトップとする政治体制が続いていた。
そんな日本を誰が統一したか?
織田信長。
その名がいつも挙げられる。信長は「麟」の花押(かおう)や「天下布武(てんかふぶ)」の印判(いんぱん)を使い、尾張にいた地方時代からずっと全国統一を考えていた、と思われている。
実は、それは間違いだ。
確かなことは、信長が天正三年(一五七五)ころから、自分の国を急激に大きくして、右近衛大将(うこのえだいしょう)になり、足利将軍家を否定したこと。そんな信長に影響を与えたのは、いままでは、将軍足利義昭、武田信玄、本願寺顕如などが考えられてきた。彼らは何度も信長を苦しめている。
しかし、もっとも大きな存在は、信長以前に二〇年あまりにわたって畿内を支配し、足利将軍家と戦ってきた三好長慶だ。
信長が初めて日本の首都京都に行ったとき見たのは、近畿と四国を支配し、将軍足利義輝を滋賀県に追放した三好長慶だった。そして信長をふたたび京都に行かせるきっかけとなったのは、長慶の後継者である三好義継(よしつぐ)が将軍義輝を殺した事件だ(『信長公記』)。

※ここから安土編の冒頭で採用を検討。
p10
政府(室町幕府)を相手に戦った三好長慶と織田信長だが、永禄七年(一五六四)に長慶が死に、永禄一一年(一五六八)に信長は畿内に侵攻する。だから、両者が直接戦ったことはない。
しかし信長の死後、百年くらいまでは、信長よりも長慶を上に見ていたようだ。それは延宝八年(一六八〇)の『武辺咄聞書(ぶへんばなしききがき)』の逸話などでわかる。具体的な内容はここでは省略する。
p13
畿内の争乱と細川氏の内紛
将軍足利氏、管領斯波氏や畠山氏の家督争いは応仁・文明の乱の原因となり、その後も解決されることはなかった。三管領のうち唯一分裂せずに乱をのりこえた細川氏の力は強くなった。
■明応二年(一四九三)
細川政元は、一〇代将軍足利義稙をやめさせ、義澄を一一代将軍とするクーデターをおこなった。
※義澄は、関東の堀越公方足利政知の子。
明応の政変と呼ばれるこの事件の裏には政元独自の構想があったとされる。
政元はすでに細川一族の高国を要旨としていた(※最新の学説ではそうなのか?)が、政変以前に前関白九条政基より澄之を新たに養子に迎えた。澄之の母は足利政知の妻と姉妹であったことから、義澄を将軍に、その兄弟の潤童子を鎌倉公方に、その従兄弟の澄之を細川氏家督につけることを考えていたようだ。政元は自分の力を背景に、京都と鎌倉、朝廷と幕府の合体による新政権を目指していたようだ。※幕末の公武合体。
p14
しかし、伊豆では潤童子が庶兄の茶々丸に殺され、将軍をやめさせられた義稙も、すぐに京都を脱出して越中(富山県)に逃げた。また、澄之は細川一族らの支持を得られなかった。政元は将軍や天皇から「半将軍」とおそれられる一方で、細川一族らの統制に苦しんだ(薬師寺兄の乱)。そして、強引に将軍をやめさせたことは、多くの守護の反発を買い、守護が在京し幕政に参加する、それまでの「守護在京制」は崩壊した。
また、一族の阿波守護細川成之らは、畿内近国を自分たちの国にしたいと思い、成之の孫の澄元を新たに政元の養子にして、家督を継がせようと望んでいた。
そしてついに細川氏も内部分裂を起こした。
■永正四年(一五〇七)
六月二三日、細川氏内部に支持基盤を持たない澄之は、養父の政元を暗殺した。(実行部隊は薬師寺弟ら)すぐに高国と澄元は澄之を討ち、澄元が家督を継承した。しかし高国と澄元の関係は続かず、畿内の国人の支持を得た高国が、澄元とその後見人(武力。実行部隊)の三好之長を阿波に追い落とした。
■永正五年(一五〇八)
六月、高国は、周防・長門・豊前・筑前を押さえ、流浪していた足利義稙を保護していた大内義興や、近畿南部を押さえる畠山稙長、能登の畠山義元らを幕政に参加させ、義稙をふたたび将軍にした。高国は畿内・西国・北国の有力守護との協調路線により、(※賢公会議。笑)明応の政変による混乱を収めようとした。
このあと、細川澄元と三好之長はたびたび京都を占領しようとするが、高国・大内義興らにはばまれて、すべて失敗に終わった。
p15
「堺公方」の攻防
■永正一五年(一五一八)
盤石に見えた高国の支配は、この年、大内義興が周防に帰国したことから揺らぎはじめる。
■大永元年(一五二一)
足利義稙は細川高国と仲違いして阿波に逃げたため、高国は足利義澄の子義晴を将軍にした。源頼朝の時代から徳川慶喜までの将軍の中で、ただ一人、二度将軍になった義稙も、三度将軍になることはできずに阿波で死に、そのあとは養子となっていた義維が継いだ。義維は義晴の兄である(弟といわれていた)。
p16
【写真】三好元長の戦死の碑 大阪府堺市・開口(あぐち)神社

■大永六年(一五二六)
高国は讒言により家臣の香西元盛を殺したため、元盛の兄弟の波多野元清と柳本賢治が離反した。元清と賢治は、阿波の足利義維や細川澄元の子晴元に上洛を呼びかけ、これをチャンスと見た義維と晴元は、三好之長の孫元長と共に堺を占領し、上洛の機をうかがった。
義維の勢いを見た公家は、義維を「堺公方」や「堺大樹」と呼んだ。これは将軍に等しい。これに対して、京都から逃げた義晴は近江の朽木(高島市)にいたため、「朽木大樹」と呼ばれた。二人の将軍である。堺では、将軍格は足利義維、管領格は細川晴元とし、代々幕府の奉行人をつとめてきた一族である斎藤氏や松田氏、飯尾氏、治部氏らが奉行人連署奉書を発行して、畿内の政治にあたった。
■大永八年(一五二八)
八月二〇日、(誰が?天皇が義晴に。堺にはことわりなし。おそらく)享禄に改元したにもかかわらず、一一月にいたるまでの約三か月間は、改元を拒否して大永の年号をつかった奉行人連署奉書を発行している。
■享禄四年(一五三一)
三好元長が細川高国(浦上村宗が武力担当)を討ちとる。これで堺公方の足利義維がついに上洛をはたすかに見えた。
p17(『三好一族と織田信長』天野忠幸)
■享禄五年/天文元年(一五三二)
細川晴元は長年の宿敵であった細川高国を滅ぼした三好元長の軍事力を恐れ、突如本願寺光教(証如)と結んで元長の排除を企てた。一向一揆に攻めたてられた元長は衆寡敵せず、当時は堺の開口(あぐち)神社の近くにあった法華宗寺院の顕本寺で自害して果てた。※写真が欲しい。
元長に同情的であった足利義維も自害しようとしたが、晴元に捕らえられて幽閉された。そして晴元は足利義晴と和睦を進める。
なぜ晴元は和睦しようとしたのか。
全国の守護に将軍として広く認められていたのは、現職の義晴であったからだ。
具体例をあげよう。現在確認されている義維の御内書(*1)は、次のわずか三例。
一、和泉下守護家家臣の富良野氏
二、播磨国人の小寺氏
三、京都の本能寺
それに対して義晴の御内書は、上杉・朝倉・武田・北畠・畠山・赤松・山名・大友氏など全国の守護、有力な国人や寺社にまでおよんでいる。
中央である京都の公家は義維の勢いを知っていたが、地方の守護たちにはわからなかった、ということだろう。現代のようなメディアはなかったのである。
晴元は義維を見捨て、義晴と結ぶことで、全国的な幕府のトップを目指したのだ。裏切りバンザイなのである。
(*1)ごないしょ。室町、江戸時代、将軍が発給した私文書で、形式は普通の書状であるが、公的意味をもつもの。下文 (くだしぶみ) 、御教書 (みぎょうしょ) などの公的文書に代って、足利尊氏以降、時代とともに盛んに用いられるようになり、徳川将軍家もこれを用いた。
p18(『三好一族と織田信長』天野忠幸)
この年(天文元年)に成立した足利義晴・細川晴元・六角定頼が主導する幕府は、その後、本願寺証如による制御が効かなくなった一向一揆や、京都の町衆を中心とする法華一揆と抗争を重ねた。義晴幕府は、細川高国を討ち、足利義維を阿波に追ったあとも畿内を安定的に支配できない。その幕府に対して、細川高国の残党を組織した細川晴国や細川国慶、細川氏綱が畿内各地で挙兵をくり返した。
■天文七年(一五三八)(『三好一族と織田信長』天野忠幸)
この年より天文一〇年頃にかけて、氏綱は南近畿を支配する畠山稙長と同盟し、山陰の尼子氏に上洛を呼びかけ、土佐の香宗我部氏とも連携する動きを示した(『土佐国蠢簡集』)。尼子晴久は播磨の三木城まで進撃し、赤松晴政を堺に追い落としている。氏綱は足利将軍家を擁立することなく、畿内から西国にかけて広い地域を巻きこんだ戦争を主導した。
一方の晴元は、三好一族の三好宗三(政長)を側近にして、強引に畿内国人の編成を進めた。そうした晴元にたいする不満の受け皿になっていったのが、三好元長の子長慶であった。天文の一向一揆により阿波に落ちた長慶は、晴元と証如の和睦を仲介するなど、晴元の家臣の一人として畿内に復帰し、父元長の恨みを晴らす機会を待った。
p19(『三好一族と織田信長』天野忠幸)
■天文八年(一五三九)
長慶は三好宗三と武力衝突を引きおこす。長慶は、これによって実力の一端を示したので、摂津越水城(西宮市)を得た。また、丹波守護代の波多野秀忠の娘を娶るなど、事実上の摂津守護代として晴元より遇されることになった。
※河内一七カ所のことは書かれていない。長慶のものになったかどうか不明。
###『戦国編・肆』はここまで。
p19
松永久秀
野間長久
長弟の三好実休
次弟の冬康
三弟の一存(かずまさ)

■天文一七年(一五四八)(『三好一族と織田信長』天野忠幸)
五月、摂津で最大規模の国人である池田信正が、かつて細川氏綱に内通した罪を蒸し返され、細川晴元に自害に追いこまれた事件を機に、時代背景急展開する。(略)

p20(『三好一族と織田信長』天野忠幸)
長慶兄弟が氏綱チームに参加した形になったが、畿内の守護代、国人層がみんな長慶に味方したのは、長慶が晴元や政長との単なる内輪もめではなく、主家の横暴から国人を守り、その存続を保証するという国人領主共通の問題を前に出して、自分を彼らの利益代表者に見たてたのが大きかった。※演出は大きい。

※義輝と不仲の長慶は代わりの将軍を擁立しなかった。
p25
長慶は義維だけではなく、義輝の弟の鹿苑院周暠(ろくおんいんしゅうこう)や一乗院覚慶(いちじょういんかくけい。後の義昭)も擁立することなく、京都の支配にのりだした。足利一族をまったく擁立しない長慶の姿勢は、将軍足利氏の権威が低下しつつあった戦国時代においても、きわめて珍しい。
一、大内義興 足利義稙を擁立
二、北条氏康(早雲の孫) 足利義氏を擁立(甥。古河公方)
三、長尾景虎(上杉謙信)ら 足利藤氏を擁立(氏康に廃された古河公方)
四、織田信長 足利義昭を擁立(義輝の弟)

p26
長慶の裁許にみる影響力の増大
■天文二四年/弘治元年(一五五五)
後日
p27
■弘治二年(一五五六)
長慶は将軍や天皇を越える存在感を示し、畿内だけではなく遠国にも影響をおよぼしはじめた。

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