『読まずに死ねない哲学名著50冊』平原卓

p4
哲学の歴史は、真理はそもそも存在しないことを示す過程だったと言っていいくらい。
真理をつかむことが哲学の課題ではない。ましてやそれを悟ることでもない。真理という概念自体が、一つの〈背理〉なのだ。
長い時間をかけて、哲学はそうした洞察に行き着いた。ニーチェはその極致。
哲学は何の役にも立たないのではない。哲学は真理が存在しないことを踏まえて、問うべき事柄を、私たちの〈生の意味〉や〈生の価値〉へと移した。
一、普遍的な認識は可能か?
二、よい社会とは何か?
三、恋愛の意味は何か?
現代の私たちも抱く問題を提起して、納得できる答えを与えてきた。
p5
哲学とは?
「概念」によって共通了解を生み出すこと。
すなわち「共通了解の言語ゲーム」。

p25古代ギリシア
01ソクラテスの弁明 プラトン
「よく」生きる。

p31
02饗宴 プラトン
恋とは、善きものが永遠に自分のものであることを目ざすもの。

p39
03パイドロス プラトン
恋の本質はよき狂気である。
狂気は決して悪いものではなく、むしろよきものの源泉。日常の世界を超え出た感性のあり方。

p51
04国家 プラトン
〈善〉のイデアこそは学ぶべき最大のもの。
〈善〉に基づいて初めて〈正義〉や〈美〉は存在しうる。
〈善〉によって初めて〈真〉は存在しうる。
洞窟の比喩。
タレスたちは、世界説明の原理を、ギリシア神話から概念(水、無限なるもの、空気)に置き直したが、プラトン世界の根拠を〈善〉という価値に置いた。哲学の水準を進めたと言える。

p60
05形而上学 アリストテレス
概念の学
形而上学…現象の背後にある真理、世界の根本原理(神、実体など)を探究する学問。ポストモダン(フーコー、デリダ)や分析哲学(ヴィトゲンシュタイン)によって批判される。
※現象学(フッサール、ハイデガー、サルトル)も批判しているのでは?
p63
アリストテレスは、師プラトンとは違い、「原因」と「結果」によって、世界を描く。
p64
第一の原因を、私は「不動の動者」と呼びたい。これが世界の根本原因だ。
ヨーロッパ中世のスコラ哲学者アクィナスは、『神学大全』で、アリストテレスの議論をキリスト教哲学に結びつけ、世界は創造主すなわち神を根本原理とする。

p67
06政治学 アリストテレス
人間がその自然の本性において国家をもつ(ポリス的)動物であることは明らかだ。
p68
国家は「最高善」を目がける共同体。
「私たちにとっての目的因は善であり、最高の目的因は最高善である」(『ニコマコス倫理学』)※ニコマコスはアリストテレスの息子。

07人生の短さについて セネカ

08告白 アウグスティヌス

09神学大全 トマスアクィナス

p95
10君主論 マキャベリ
p96
ルネサンスは、神の中世から、人間の近代への橋渡しをした。
p97
宗教や道徳ではなく
暴力とルール
※力のない正義ほど哀れなものはない。
拉致問題
リビアモデルでよいのか。リビアモデルが成立する条件は?
p100
自衛のためなら暴力をつかえ。
分裂状態にある祖国を憂うマキャベリの情熱。
ドイツは
ベトナムは
韓国は
グルジアは
p102
マキャベリの考えは、神による世界創造を説く中世スコラ哲学と、市民社会の原理を論じる近代哲学の間にはさまれている。

p103 第三部 近代
p104
11方法序説 デカルト(1596-1650)
古代ギリシア哲学、中世哲学と進み、近代哲学の祖はデカルト。現代哲学はニーチェ以降とされる。
近代哲学は、およそ三世紀の間、ヨーロッパ哲学の主役だった。
近代哲学には二つの柱。
一、認識論…デカルト
二、社会哲学…ホッブズ
二人は同一世代で、交流もあった。

認識論…「どうやって主観は客観を認識しているのか? 主観の認識が客観に一致しているといえる根拠はどこにあるか?」が根本問題。
社会哲学…神の意志によらず、人間はみずから社会のあり方を考えられる。

当時ヨーロッパはルターの宗教改革にはじまる宗教戦争が、ドイツやフランスなどで勃発。キリスト教が真理だとする中世哲学に対して疑問が。そこで近代哲学の登場。
p108
「私は考える、ゆえに私はある」。これは疑えない。確実だ。第一原理になりえる。
誰もが受け入れる

12情念論 デカルト
13リヴァイアサン ホッブズ
14エチカ スピノザ

15モナドロジー ライプニッツ
p136
アリストテレスは因果の系列をさかのぼって「不動の動者」を見いだした。同様に、複合体の分割を続けると、それを複合している「第一の単位」が見いだされるはず。ライプニッツはその究極の(質的)単位をモナドと呼ぶ。

16人間知性論 ロック
17市民政府論 ロック
18人性論 ヒューム

19人間不平等起源論 ルソー(1712-1776)
p161
人間社会は対処しないかぎり必然的に不平等を産み出す構造となっており、不平等が拡大するプロセスは、人間社会が最強者(王)を頂点とするピラミッド型の社会に行き着くまで止まろうとしない。
p164
「各人は約束を守ることに同意し、全体がその約束を保証する。人びとは、同意に実効性を与え、各人の自由を実質的な意味で確保するため、ぎけつを護らせようと強制する(警察、軍隊。いわゆる暴力装置)。この点からすると、王権(専制権力)は、政府本来の目的に反する。不当である。法律の根拠にも、社会の不平等を解決する原理にもなりえない」(『人間不平等起源論』)
p165
最強者である王(専制君主)を頂点とするピラミッド型の権力構造がつくりあげられ、人びとの間の不平等が最大化する。
ここですべての個人がふたたび平等になる。いまや彼らは無であり、個人が消えるからだ。家来は主人の意志のほかなんらの法律ももたず、主人は自分の欲情のほかなんらの規則をもたないので、「善の観念」や「正義の原理」がふたたび消えるからである。
p166
王もまた力によって倒れる。専制政治は、人びとの始めの同意、すなわち、各人の自由を保障するために政府を設立するという根本的な同意を否定することで成立するからだ。言いかえると、専制政治は本質的に正当な根拠をもたない。
「ただ力だけが彼を支えていたのだから、ただ力だけが彼を倒させる。万事はこのように自然の秩序にしたがって行われる」(『人間不平等起源論』)
p167
本書は『社会契約論』と重なり合っている。『社会契約論』は、人間社会を不当な「パワーゲーム」から、フェアな「ルールゲーム」に再編する原理は何か、という問いに対する答えが目的。
現代の歴史学の知見を踏まえると、不平等がルソーの論じるように拡大したのか、かなりの疑わしさが残る。※なぜ?ルソー説の詳細はp163参照。だいたいルソー説で合っているのでは?

p168
20社会契約論 ルソー
p169
ホッブズの原理はこうだ。正義の根拠は、キリスト教の神ではなく、ただ人びとの間の合意と約束(契約)にしか存在しない。それをルソーは本書でさらに進め、近代社会・近代国家の正当性の原理論に高めあげる。
本書は社会契約説の総まとめをなす、きわめて重要な著作。
p170
「暴力者の権利」などない。ルソーは言う。
「ピストルを持つ人間に脅されたときには、財布を与えなければ殺されるかもしれない。これは、ピストルを持つ人間には権利があるから、財布を与える義務がある。そういう意味ではない」
実力行使は権利を生まない。
人が従うべき義務をもつのは、正当な権力に対してのみである。
暴力による脅迫は批判されるべきである。
不当に得られた権利は無効である。
p171
自然状態で生活できない状況に人類全体が到達したと、ルソーは仮定する。
社会契約を結ぶことで、私たちはそれぞれの自然的自由を奪い、腕ずくで何かを獲得できる権利を相互に制限する。それと同時に、各人の能力差を認めつつ、市民的自由と所有権を保障する。これが自由と平等を両立させる唯一の原理であると考えた。
p171
ルソーは続ける。「各人は社会契約を結び、自由を相互に承認することで、みずからを『一般意志(*)』の指導のもとに置き、『共和国』をつくり上げるのだ」
(*)「みんな」の意志。個的な関心を脇に置いて公共の利益を求める、じんみんとしての意志。※民意、か。
p172
法治国家のみが正当である。
※北朝鮮、中華人民共和国、ロシア連邦は不当ということになる。
法治国家における政府は、主権者である市民に代わって統治を行う「公僕」にすぎない。今でこそあたりまえの考え方だが、ルソー以前、政府と市民の間の関係をこのように論じた哲学者は一人もいなかった。
※実態はどうか。今でも「お上のおっしゃるとおり」あるいは「権力者」という言葉が表すように、市民よりも政治家は偉いし、公務員は私企業の社員より給与や雇用権利が強いのではないか。
p174
社会契約、一般意志(民意)、法治国家。この三点セットが本書の骨格。

p175
21純粋理性批判 カント(1724-1804)
p186
「理性の意義は、世界のあり方を経験的に把握することではない。※死後は理性ではわからない。
理性は、何が道徳的であるかを明らかにし、道徳的に行為するための能力である。
理念は理性に、そのための基準を与えるものだ。」
これにより、カントは問題を「世界が何であるか(※死後はあるか)」から、「私たちにとって善とは何か」へと変更した。そして『実践理性批判』に取り組む。

p187
22『実践理性批判』カント
p187
善とは何か。近代社会以前は、神に従って生きること。ぜんをしるのは神だけ。
この中世的世界観は、近代初頭の宗教戦争を経て、疑われはじめる。スピノザ、ライプニッツ、ヒューム…
p188
カント以前、善と道徳を明確に区別した哲学者はほとんどいない。
善すなわち「よい行為」については、プラトンから論じられていた。
だが、道徳すなわち「あるべき状態」についての哲学は、近代までなかった。
なぜなら、近代、初めて、人間は自律的に善をめざすことができるはずだ、という「自由」の意識が生まれたからだ。(略)
そこに人間の人間たる理由がある。これがカントが道徳論にこめたメッセージ。
格率 個人ルール
定言命法または断言命法 道徳ルール
p193
理性で考えれば何が道徳的であるか理解できるというカントの考えは、正しいとは言えない。人間の理性は全能ではないので、ある選択が道徳的かどうかについては、事後的な解釈にまかせるしかないから。ヘーゲルは『精神現象学』で、倫理の条件を、「他者関係のなかにおける了解の構造」として規定した。
p194
カントは、何が善で、何が道徳的なのか、人間は自分の理性でわかる、という考えをはっきりと言った初めての哲学者。
善の認識は神の恩寵でできるとする中世スコラ哲学の考えは、スピノザ、ライプニッツの合理論を経て、カントによって決定的に否定された。
行為の善悪を判断する道徳法則は、共同体のルールでも宗教の教えでもない。人間の理性がみずからに与える命令(定言命法)である。

p195
23『道徳および立法の諸原理序説』ベンサム(一七四八~一八三二)
ドイツでカントの道徳論が広まる間、イギリスでは功利主義哲学が広まってきた。
p196
ベンサムは、人間の行為が快苦で決まる、と考える。
功利性の原理…ある行為を正当と見なすことができるのは、その行為が利益関係者全体の幸福を促進する場合だけである。
行為は政府の政策も含まれる。
「最大多数の最大幸福」を実現する政策が正当である。
p199
何が幸福であるかは、自分で納得するしかない。これが近代社会の基本理念。
幸福の総量を増やすための条件は?
ベンサムは「最小限の役割を果たすべき政府(刑罰と報奨)と、各人の自発的な好意」に期待を託した。

p200
24『法の哲学』ヘーゲル(一七七〇~一八三一)
近代的な自由の意識の芽生えとともに、カントは「このように生きるべきだ(道徳論)」という分野をつくった。
p204
欲求からの解放が自由なのではない。自由は欲求の実現と、その承認を受けることで感じられる感情である。※歌って褒められたときの感情。
p206
ヘーゲル的な「教養(知恵)」は、私たちに「よさ」の多様性を教え、各人がそれぞれの「よさ」を求めるためには、「人格の相互承認」が必要であることを教える。
だが現実世界はそれが実現されていない。その了解に達して「普遍的な正しさ」を求める意志を、ヘーゲルは「道徳」と呼ぶ。
道徳とは「不平等をなくさねば!」「戦争をなくさねば!」※拉致被害者を救わねば!
「善」を目標にする心、それが道徳。
その実現のために何が必要か。社会制度である。
※自衛隊の海外活動の法改正とか。
p208
市民社会では格差は避けられない。否定は本末転倒。(誰もが持つ)欲望を根拠とするから。市場経済や市民社会の否定は不合理。※人間を否定することになるから。
p209
どうするか。格差が人格の相互承認のルールに照らして不当なものではないかチェック。富の再分配や公教育によって、格差是正の制度を置く。
「人格の相互承認」は、ルソーの「一般意志(※民意?)」と並び、近代哲学の決定的なルールだ。

25死に至る病 キルケゴール
可能性を持ってこい!

26功利主義論 ミル
27自由論 ミル

第四部 現代〈Ⅰ〉
28悲劇の誕生 ニーチェ
29道徳の系譜 ニーチェ

p246
30権力への意志 ニーチェ(1844-1900)
p251
客観それ自体、真理それ自体は存在しない。あるのはただ欲求に相関した解釈だけである。

31空想より科学へ エンゲルス
32時間と自由 ベルクソン

33プラグマティズム ウィリアム・ジェイムズ(1842-1910)
p276
主観は客観を正しく認識できるか(※人は世界を理解できるか)という近代哲学の問題は、まずニーチェによって大きく変えられた。
一切の認識は「力(欲望)」に基づく価値である。
これがニーチェの認識原理。
一九世紀のアメリカで、先ほどの「主格一致」問題を変えようとする「プラグマティズム」が登場。
パース~ジェイムズ~デューイ
p277
プラグマティズムの背景には南北戦争がある。
p278
近代哲学の認識論では、「主観が客観を正しく捉えられたら、その知識は真である」とされた。
真理とは、客観についての知識が私たちの生を「よく」導くとき、その知識は真〈となる〉。生をよくしない知識であれば真ではない。「道具的真理観」
つまり、役立てば真、役立たなければ真ではない。

p282
34現象学の理念 フッサール(1859-1938)
p285
世界像をいったん「判断停止(括弧入れ)」して、意識に還元する。
p286
判断停止の目的は、誰もが合理的に考えるかぎり受け入れざるをえないような認識論のスタート地点をつくることにある。
デカルトの『方法序説』の「方法的懐疑」すなわち、一切を疑っても、その疑っている自分が存在していることは絶対に疑えない。フッサールの判断停止はこれを参考にして考え出された。
※目にラーメンが映っているからラーメンは存在する。脳の機能の範囲でしか世界や自分を認識できない。それが精一杯なのだ、ということか。だとすれば、死後の世界については、わからない、としかいえない学問である。

35『イデーン』フッサール(1859-1938)
p291
現象学は、近代哲学における主格一致の構図を再検討し、対象についての認識を意識の内側で構成される「確信」として論じる、認識論の本質として現れてきた。

36『一般言語学講義』ソシュール(1857-1913)
言語には差異しかない。
p304
ランガージュ
→ラング
→パロール
p309
ラングはシーニュ(記号)からなる差異の体系
シーニュには二つの側面
①シニフィアン 意味するもの ※言葉そのもの
②シニフィエ 意味されるもの ※何か心的なもの。客観的な存在ではない。
p310
記号(シーニュ?)は純粋な価値であり「心的なもの」である。記号は客観を写し取るものではなく、「言わんとすること」を示す表現。

p310より。
欲望が世界を解釈し、世界をつくる。
欲望は刻まれ、切れ端に記号(言葉)があたえられる。

37『論理哲学論考』ヴィトゲンシュタイン(1889-1951)
語りえぬものについては、沈黙せねばならない。(『論理哲学論考』)
p314
ヴィトゲンシュタインの洞察は、「言語と世界は厳密に対応している」ということだ。これまで哲学は、魂や神といったありもしない事柄について〈おしゃべり〉をしてきたが、それらはすべて哲学から取り去らなければならない。語りえないものについては、沈黙しなければならない。
p314
ヴィトゲンシュタインは、分析哲学(言語哲学)の第一人者。
分析哲学は、現象学やポストモダン思想に並ぶ、二〇における哲学の大潮流の一つ。認識や社会ではなく、言語に注目するのが特徴。フレーゲ、ラッセルにより創始。プラグマティズムと並び、英米における哲学の主流。
分析哲学の中心テーマは、「言語と世界はどのような関係か」。※つまらん。しかし言語が人間である。神の追求はもはや絶望。すなわち死に到る病に罹患。
p314
分析哲学の初期では、「言語を正しく(論理的に)使えば、世界は正しく記述できる」と考えられていた。しかし、「言語は世界を写し取るようなものではなく、使い方で意味を変えるものだ」という考え方が現れてきた。
ヴィトゲンシュタインは、その両方を一人で示した。カントとニーチェの業績を一人でやったようなものだ。

38『哲学探究』ヴィトゲンシュタイン
p328
言語において人間は一致する。それは意見の一致ではなく、生活様式の一致である。『哲学探究』
*「これはペンです」と言われても、そもそもペンが何であるかを知らなければ、ソノイミヲ理解することはできない。では、どこからそれがペンであることを知ったのか。言語ゲームの営みからである、とヴィトゲンシュタインは考える。
p332
*慣習
相対主義の立場に立つポストモダン思想は、ヴィトゲンシュタインのゲーム理論を次のように受けとった。
「意味は、言語ゲームで「たまたま」成立している慣習にずぎない」
意味(=真理の絶対的な根拠)は存在価値しない、とする相対主義にとって、言語ゲームはきわめて手頃な考え方。
p332
言語ゲームのあり方は私たちの生活様式(※慣習?)に依存しており、(※言語ゲームの?)規則もまた同じである。生活様式の共通性が、言語ゲームの規則の根拠である、と考える。
p334
人間のようにふるまうものについてのみ、ひとは、それが痛みを感じている、と言うことができる。『哲学探究』
※犬は? アンドロイドは?
p335
生活様式を共有しており、振る舞いの一致が見られるなら、理解が成立していると言えるはずだ。
しかし、言語ゲームの概念は諸刃の剣だ。
「言語が世界を写し取る」という考えを突き崩したという点では、ニーチェの認識論と並ぶ意味を持つ。だが、ニーチェの「遠近法」が相対主義に受け取られるのと同様、言語ゲームもまた、こんなふうに相対主義に受け取られることがある。
「言語に真理はない。あるのは言語ゲームにおける〈たまたま〉の一致にすぎない」※先述のポストモダン思想。
p336
偶然の一致しか存在しないという(ポストモダン思想の)主張は、普遍性をめざす哲学を相対化してしまう。(※無効化?)
求めるべきは、相対化にあらがい「どのような条件が共通了解を可能とするのか」についてあきらかにすることだ。※どうすれば幸福になれるかを世界の全員が納得できる言葉で示すこと?
民主主義と修正資本主義、とか。

39『存在と時間』ハイデガー(1889-1976)
p338
本書は未完。しかし本書の実存論は金字塔。近代社会の原理論がルソーとヘーゲルで頂点に達した。それと同じように、本書は、実存論としては不朽の業績である。※なぜ?
p339
*世界…世界は、客観的な事物の集合体である以前に、その都度の関心や欲望(気遣い)に応じて「道具」が意味を現してくる実践的な〈現場〉である。こうした考え方は、ハイデガーが初めて。※わからん。
p340
世界は最初から客観的な意味をもつものとして存在しているわけではない。私の関心や欲望に相関して意味を現すような「道具」を通じて、自分の生き方を選択する可能性の場所である。(※イチローにとってのバットとか?)これは認識論としても実存論としても、きわめて画期的な考え方である。
※聖書という道具を通じて神を信じるという生き方を選択する。選択はできるが、神の存在はわからない、とか? あるいは民主主義と資本主義を信じて生きるが最上かどうかはわからないし、死後もわからない、とか? 行き当たりばったりじゃん。

20180621
ダー・ザイン(現存在)
あとなくさきなく
いみもなく
#廃句

40

第五部 現代〈Ⅱ〉
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43『存在と無』サルトル(1905-1980)
p379
私は自由であるべく運命づけられている。『存在と無』
※この世界には目的や意味などない。(NHK『100分で名著 カミュ ペスト』2018年6月放送)
「実存主義サルトル」と「不条理の哲学カミュ」は同時代。世界の二大スター。

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