『三好長慶』長江正一

昭和四十三年六月二十日第一版第一刷発行

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一六世紀中期に京都で最も力のあったものは三好長慶である。長慶を排除しようとした室町幕府第一二代将軍義晴、その子第一三代将軍義輝、管領細川晴元は、何度も京都から逃げなければならなかった。細川氏綱は、長慶の力で、晴元に代わることができた。
長慶は大永二年(一五二二)に生まれた。幼名は千熊丸。やがて孫次郎あるいは伊賀守と称し、利長・範長と名のった。
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ついで筑前守長慶とあらため、のちに修理大夫(しゅりのだいぶ)に任命された。この本では長慶と書く。
長慶の父は、筑前守元長で、長慶は嫡男である。
長慶が生まれた大永二年(一五二二)は、長慶の父元長の祖父筑前守之長(長輝・入道喜雲)が自殺させられた二年後で、之長の子長秀(長慶の祖父)はそれより前に敗死している。元長は、天文元年(一五三二)、長慶が一一歳のとき、和泉の堺にある顕本寺で、細川晴元・本願寺光教のために自殺した。墓は顕本寺にある。
※三好之長、三好元長、三好長慶の三人について語ろう。まずは之長から。
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一五世紀後半、応仁の乱のころ、三好氏は、阿波では細川氏の被官中第一の国侍であった。
二、曽祖父三好之長
応仁の乱に之長は参加している。阿波守護細川成之(一四三四~一五一一)が細川宗家の勝元を助けるために京都に出陣したからである。これが京都で三好氏が活躍する始まりである。
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応仁の乱は幕府をそれまでよりもさらに無力にした。京都周辺の国以外は年貢を出さない。山城・大和では毎年一揆が起こる。之長に指導された一揆が相当あった。リーダー向きの人間であったことは確かだろう。
■文明一七年(一四八五)
六月一一日、「高倉殿(中納言永継)へ、讃州(讃岐守細川成之)内者(うちのもの)の三好之長が、人をひきいて」押し寄せ、盗人として捕らえられている者を奪い返そうとして、細川政元に止められた。(『言継卿記』)
七月一六日、そのころ阿波は穏やかではなかった。成之の被官東条・飯尾らが帰国している。
同年八月、京都に、近江の悪党も参加する、徳政を訴える土一揆の噂が広まった。
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八月五日、その一揆は京都にいる大名の被官・諸侍・悪党らが起こすものであり、その中心人物は細川政之(成之の子)の被官三好之長とわかった。
八月九日、一色義直・細川政元、侍所の所司代多賀高忠らが、三好之長の宿所を囲んだが、之長は前夜政之の邸へ逃げこんでいた。そこで政之の邸を包囲した。どうなったか。二説ある。

一、政之はこう答えた。「徳政を計画したのは三好之長だけではない。細川政元の被官や、備中守護細川勝久の被官もいた。彼らを死刑にすれば、三好之長も死刑にしよう」(『後法興院政家記』)
二、政之はこう答えた。「三好之長は罰しておく」(『蔭涼軒日録』)

そのため包囲勢は退散した。
八月一〇日、ところが之長は「白昼徘徊」する「傍若無人」ぶりであった(『蔭涼軒日録』)。
八月一四日、一揆は衰えない。ついにこの日、三千人の集団となって、土倉(金融業者)をおそい、土蔵を開いて質物を盗んだ(『御湯殿上日記』など)。
一〇月一二日、細川成之・政之父子は、「先陣三好之長、後陣河村」を従えて京都を出発して阿波に向かった。そのころ阿波は穏やかではなく、七月に成之の被官東条・飯尾らが帰国したことはすでに述べた。
一〇月二五日、細川政元は一族の細川政国・同尚春たちに成之を助けさせた。相当大きな内乱であったらしい(『大乗院寺社雑事記』『東寺過去帳』)。
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■長享三年(一四八九)
三月二六日、将軍足利義尚は、侵略地返還の命令を無視する近江の六角高頼を攻撃中、鈎(まがり。栗太郡栗東町)で暴酒と淫乱のため病死した。
四月、京都にもどった之長は、摂津の多田庄(兵庫県川西市)および善源寺の地頭の、棟別銭(むなべちせん。戸別税)・段銭(たんせん。臨時に諸国の田地から段数に応じて徴収した税)を免除したように、政治に参加している(『蔭涼軒日録』など)。
■明応二年(一四九三)
四月、死んだ義尚のあとをついだ足利義稙(義視の子)を、政元はきらい、義稙の従弟義澄を擁立して、義稙を幽閉した。明応の政変という。前作で話したので詳細は省く。
六月、義稙は脱出して北陸へ走り、京都奪回を策した。
八月一一日、義稙は挙兵したが、失敗して中国地方へ流れていった。
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■文亀三年(一五〇三)
政元は細川成之の二男義春の子澄元(一四八九~一五二〇)を養子にした。すでに九条政基の子澄之(一四八九~一五〇七)を養子にしていた。他家から養子を迎えたことを後悔していたのかもしれない。しかしこれが災いを生む。
■永正元年(一五〇四)
九月、政元の命で阿波に派遣された薬師寺元一は、澄元養子の件を利用して権力を握ろうとし、政元を裏切った。薬師寺元一は山城の淀城(京都市伏見区)で敗北して刑死し、弟長忠が代わって摂津守護代になった。
■永正三年(一五〇六)之長四九歳
二月一九日、三好之長は澄元の先陣として入京した。
四月二一日、澄元は七千余人をひきいて上洛した(『多聞院日記』)。
二六日、澄元は、騎乗の武士五人と千余人を供にして幕府に出頭した(『拾芥記』)。之長の今回の上洛は、将来管領就任を約束されている澄元(一八歳)の補佐である(『細川両家記』など)。得意であり、三好の勢力を京都にたてる好期として、気合いが入っていただろう。之長、四九歳。
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八月、之長は政元の命を受け、大和に出兵。大和を支配する一族の赤沢朝経が国人と戦うのを助けた。
九月六日、之長は帰京の途中、春日神社に詣でた。『多聞院日記』が「穏やかであった」と記したのは、二十年前の京都における之長の行いと比べてであろう。
一〇月一二日、石清水八幡領である摂津木代(大阪府豊能郡豊能町木代)庄内の朝川寺(ちょうせんじ。大阪府豊能郡豊能町木代1530-1)の名主・百姓および池田遠江守にたいし、その地が紛争地であるゆえ、あらためて澄元に与えられたので、所属が決まるまで、年貢を抑留するよう命じた。
同日、三好越前守(誰?)・篠原右京進(長房)をして、讃岐の西方元山を香川中務丞に本領として渡すことを命ずる(『石清水八幡宮文書』)。
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このように広範囲に活動しはじめた之長にたいする反発は強く、淡路守護細川尚春や讃岐出身で山城守護代として澄之を補佐している香西元長などと競うようになった。
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■永正四年(一五〇七)
五月二九日、政元は、澄元・之長らと丹後より帰洛。若狭守護武田元信を助けて、丹後守護一色義有を攻めてきたのである。
六月二三日、政元暗殺。主犯は香西元長。これも前作で話したので詳細は省く。
翌日、澄元・之長も襲われた。之長は澄元を伴って近江に逃れ、甲賀郡の山中新左衛門為俊にたよった。
七月八日、香西元長らは予定通り、澄之を丹波より迎えて細川の総領にした。これは、管領に就任させるためである。管領を暗殺し、他に替えようとしたのは三好之長ではなかったことに注目。政敵の香西元長から殺されかけた之長は、保身のためにも、澄元を守らねばならない。しかし香西元長・薬師寺長忠が政権を握ったのはほんのわずかな時間であった。
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八月一日、細川高国・同政賢・同尚春らに攻められ、澄之(一九歳)とともに討ち死にした。高国らは細川家以外のものに政権を渡したくなかったのだ。
翌二日、之長は澄元の後陣となって近江から帰京。澄元は細川家総領となり、政治を之長に委任した。之長、大出世である。しかし政権を握った澄元と之長の間は円満ではなくなった。
一三日、之長が「わがままで、京都中で乱暴をする」(『宣胤卿記』)というので、澄元は阿波へ帰るという。
一六日、澄元は遁世(出家)するといった。しかしその夜、之長の被官梶原某が処刑されておさまった(『宣胤卿記』)。之長がその被官梶原の処刑を主張する澄元にさからったことがそもそもの原因であったからだ。
二七日、澄元が細川尚春の邸の「能」に招かれたとき、之長は、澄元の太刀を捧げて従っている(『多聞院日記』)。
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絶頂の之長が剃髪して「喜雲」と号したのはこの頃である。之長に代わって嫡子の長秀が澄元の執事になったという(『応仁後記』)。
■永正五年(一五〇八)
二月二三日、将軍義澄は阿波の祖谷の阿佐氏に出兵を命じた。前将軍義稙と戦うためである。細川政元暗殺を帰京の好機と考え、周防の大内義興にたよっていた義稙が中国・九州の兵を集めたのだ。細川澄元は義澄に義稙との和解を勧めた。義稙も澄元に、細川成之と大内義興の和談を依頼した。しかし義澄は聞き入れなかったのである。義澄は遠い九州の島津忠昌・菊池義宗らには大内領を攻めよとも命じている。
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三月、京都の細川高国(一四八四~一五三一)は澄元には謀反の心があるという疑われ、之長には避けられてい。そのため高国は伊勢参宮と称して、京都から、従兄弟の伊賀守護仁木高長をたよっていった(『瓦林政頼記』など)。これが、高国と澄元の細川家のトップ争いのはじまりである。将軍家には、義澄対義稙の争いがあった。しかし細川家の争いが主であったため、「両細川の乱」という。
之長をきらい、澄元に疑われた摂津・丹波の国侍は次の通り。

伊丹元扶(もとすけ)
内藤貞正
奈良元吉
天竺上野介
寺町通隆
長塩元親
香西国忠
香西元綱

彼らはやがて上洛してきた高国に味方した。
四月九日、之長は澄元とともに京都を脱出し、義稙を敵とする近江の山中為俊をたよった。
一六日、将軍義澄も近江の岡山(近江八幡市)の九里(くのり)備前寺の館へ逃れた(『瓦林政頼記』など)。
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五月六日、高国は義稙を堺に出迎え、細川家の家督を許された。
六月八日、義稙は一五年ぶりに帰京した。
七月一日、義稙は、将軍に再任した。まもなく高国は管領に、大内義興は慣例代になった。
■永正六年(一五〇九)
六月一七日、近江の之長は兵三千で、東山の如意嶽に布陣した。慈照寺銀閣の東にある大文字山の主峰である。しかし高国・大内義興の兵二万が、正午から攻めてきたので、夜大雨になったのを利用して逃げた。その後、子の長秀・頼澄兄弟は伊勢の山田(伊勢市)で敗死したため、之長・澄元は隠れながら阿波へ帰った。
■永正八年(一五一一)
七月、之長は再び兵をあげた。細川政賢が深井(堺市)で高国の兵を破った。政賢は高国とは従兄弟であるが、澄元の妹婿でもある(『足利季世記』)。淡路の細川尚春は兵庫(神戸市)に渡り、播磨の赤松義村とともに、河原林政頼の摂津の灘の鷹尾城(芦屋市)を落とした。
八月一六日、政賢・義村は、近江から進む九里・山中と連携して、京都に入った。
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八月二四日、いったん丹波に逃れた義稙・高国・義興らが二万の大軍で進撃してきた。舟岡山(京都市北区)の戦いに大敗して政賢は戦死し、之長は阿波に帰国した。この十日前の八月一四日、近江の岡山で前将軍義澄が死んだ。享年三二。
九月一二日、澄元の祖父細川成之没。七八歳。
■永正九年(一五一二)
一月、澄元の弟で阿波をついでいた細川之持没。二七歳。
■永正一〇年(一五一三)
二月、播磨守護赤松義村に寄寓している義澄の子義晴が義稙と和した。義村の義母は細川勝元の娘であった。彼女は高国の義理の叔母にあたるため、その縁によったのであろう(『赤松記』ほか)。この和議で、之長は京都奪回による澄元の管領就任をあきらめなければならなかった。京都は義稙・高国・大内義興によって、永正一五年(一五一八)まで平和が保たれた。これは大内氏の武力と財力のおかげであった。
■永正一四年(一五一七)
之長は、細川尚春を和泉へ追いだした。尚春は澄元に協力したが、裏切って高国に味方したからである。
■永正一五年(一五一八)
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八月、大内義興、帰国の途につく。軍資の消耗と、本国周防が隣国の尼子経久から脅かされたからだ。之長にとっては朗報である。
一一月、澄元が兵庫(神戸市)にいるとの噂が京都にひろがった。管領高国の従兄弟である尹賢(ただかた。政賢の子)が摂津に下った。
一二月、将軍義稙は赤松義村にたいし、その部下で澄元に味方する者を成敗せよと命じた。
■永正一六年(一五一九)
四月、高国は摂津の尼崎に城を築いた。阿波の兵に備えるためだ。
五月一一日、之長は、淡路守護細川尚春を殺した。永正二年(一五〇五)からずっと争った仲であった。
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八月二〇日、和泉守護細川澄賢(尹賢兄)は、京都から和泉へ帰った。尹賢が摂津を守るのに対し、和泉を守るためだ。
一〇月二二日、澄元チームである摂津の有馬郡の田中城の池田三郎五郎は、高国チームの河原林政頼の来襲を退けた。
一一月二日、山城の大山崎上下保(乙訓郡大山崎町)の住民は、澄元にしたがうと申し出た。この地の商工業者として住民は、之長(澄元チーム)の勝利を予想したとも思われる。
一一月三日、将軍義稙は播磨の赤松義村に、管領高国の味方になれと命じた。
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一一月九日、之長は、澄元と一万の兵をひきいて兵庫(神戸市)に上陸。神呪寺(かんのうじ。西宮市甲山)に本陣をおき、その南の広田・中村・西宮(いずれも西宮市)に布陣した。一部は河原林政頼の越水城を囲んだ。
一一月一〇日、高国は、尹賢を先発させた。
二一日、高国は摂津に向かった。
一二月二日、高国は池田城に入り、兵を小屋・野間・水堂・浜田(いずれも尼崎市)に配置した。武庫川をはさんで、にらみ合いだが、一部は川より西の河原林に置いた。越水城を救うためだ。
■永正一七年(一五二〇)
一月一〇日、高国チームである丹波守護代内藤貞正と伊丹国扶が、河原林の西の中村の澄元チームを攻撃したが、負けて、越水城を救えない。
二月三日、越水城は落ちた。このころ京都に郷民が侵入して下京で騒ぎ、上京の廬山寺を焼き、徳政を叫んで略奪をオコナッタため、高国軍は、藻川・神崎川の東に退いた。
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二月一六日、之長が尼崎方面を破った。そのため、翌一七日、伊丹と池田の城の兵は逃げ、高国も京都に逃げた。
二月一八日、高国は、さらに近江の坂本へ逃げた。
二月二〇日、之長は、山城の大山崎(京都府乙訓郡)に着いた。
三月一八日、之長は同地の住民を「徳政を免除するゆえ、一揆を防ぐよう、之長の部下よりは一揆を出さない、また半済(年貢の半分を軍費として徴収)も出させない」と保護した(『離宮八幡宮文書』)。しかし之長の兵は、伏見宮家の伏見庄、三条西実隆の三栖庄、淀の魚市(いずれも京都市伏見区)などを荒らして略奪した。
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三月二七日、正午、京の人々が見守る中を、之長は騎乗百騎、二万の兵とともに上洛した。兵の大半は京都・摂津あたりの武士だ。之長としては永正八年以来十年ぶりの京都で、近江に逃げた高国の館に入った。
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五月一日、之長は、将軍義稙に、澄元が細川家の家督を許された礼を述べ、多額の礼物を贈った。しかし之長の絶頂はあまりにも短かった。
五月三日、高国は如意嶽に出陣した。わずか二日後である。
四日、近江の六角定頼・朽木稙綱・蒲生定秀、越前の朝倉、美濃の土岐らの兵二万が如意嶽の西麓、一乗寺・白川・吉田山に進出し、丹波の内藤貞正は兵七千で舟岡山に出撃した。之長は、将軍義稙の邸付近である三条・等持寺に布陣した。ところが高国チームに寝返る者が続出し、高国の兵は四万、之長の兵はわずか五千あるいは二千となった。
五日、正午に戦いがはじまった。多勢に無勢である。午後六時ごろ、海部・久米・河村・東条らも高国に降参した。午後八時ごろ戦いは終わり、之長はその子長光・長則および甥新五郎と曇華院をたよって隠してもらった。なぜ京都を脱出しなかったか。京都の医師の半井保房(なからいやすふさ)は記している。
「之長は肥満の身体なのであまり歩けなかったから、近くに隠れたのだ」(『聾盲記』)。
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五月九日、高国は、曇華院に之長を引き渡すように要求した。格の高い寺院である上に、このときの方丈(寺の主)は将軍義稙の姉であったため、引き渡しを承知しなかった。やがて高国は之長らの命を保証した。
一〇日、長光・長則兄弟は降伏して院を出た。
一一日、之長も甥新五郎と院を出た。高国が命を保証したのはウソだった。百万遍智恩寺(当時は一条堀河の東南にあった)へ送られ、「覚悟」させられて、之長は殺された。享年六三。之長の処刑は、昨年之長に殺された細川尚春の子彦四郎の強い要求によるともいう。新五郎も之長とともに殺された。
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五月一二日、長光と長則も処刑された。
五月一五日、刑死した四人は百万遍の僧の手で千本に葬られた。半井保房は之長のことを「大悪の最上なる者」と評している(『聾盲記』)。敗者は悪く言われる。之長が、細川澄元を守り続けたことは誰も黙する。
摂津の伊丹城で入京を期待していた澄元は、失意のうちに、播磨をへて阿波へ帰った。
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之長没後、ひと月。
六月一〇日、澄元没。享年三二。
p35 父三好元長 ~p61
之長の長子長秀はすでに討ち死にしていたので、長秀の子元長が家をついだ。二年後に長慶が元長の嫡子として生まれる。
※削除…一二月一八日、元長は、山城の山科本願寺の第九代

■永正一八年/大永元年(一五二一)
※巻末の略年譜は一五二二年より。
三月七日、高国に不満な義稙はついに京都を脱出した。
三月一〇日、義稙は淡路に着いた。
七月、高国は播磨の赤松義村に託されている足利義晴(義澄の子)を迎えて、第一二代将軍にした。義晴は一一歳。
高国は、播磨守護代浦上村宗とはかったのである。このあとで守護の義村は村宗に殺される。
一〇月、淡路の義稙は、和泉守護細川澄賢(母は澄元の姉妹)・河内守護畠山義英らを招き、堺まで帰ったが、兵は集まらない。失望して義稙は阿波へ逃れた。澄元の子晴元、之長の孫元長を伴って上洛しようとしたのだろう。しかし前二回(*)のような奇跡は三度目には起こらない。
(*)義尚の死によって美濃から、政元の暗殺を利用して周防から。
#####ここから略年譜にあることは書かない。
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■大永五年(一五二五)
一〇月二三日、高国、その子稙国を失う。
■大永六年(一五二六)
夏ごろから、高国に重用されている細川尹賢(高国と従兄弟)と香西元盛が勢力争いをはじめた。尹賢は讒言して元盛を殺した。
一〇月、元盛の兄波多野稙通と弟の柳本賢治は高国に叛いた。稙通は丹波の八上城(篠山町)に、賢治は同国神尾城に拠った。波多野は細川晴元に通じていると噂が流れた。
一一月、尹賢は丹波に出陣したが、その軍から丹波守護代内藤国貞が抜けて、神尾城を攻める高国チームの軍を後ろから包囲した。そのため尹賢も京都へ引き上げた。
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■大永六年(一五二六)長慶五歳
一二月一五日、三好政長ら堺に上陸、ついで将軍義晴の兵と戦う。(略年譜)
この混乱に乗じて、三好勝時とその子勝長・政長および河村淡路守らが堺に上陸した。勝時は之長の弟で、その子新五郎は、之長とともに百万遍で高国に殺されている。
■大永七年(一五二七)長慶六歳
正月、将軍義晴は、六角定頼、越前の朝倉孝景、播磨の赤松政村(義村の子)、その守護代浦上村宗を招いた。高国は山城の醍醐(京都市東山区)一一箇郷などから人夫を集め、東山の勝軍地蔵山に城をつくりはじめた。慈照寺銀閣の北の今の瓜生山である。
同月、柳本賢治は丹波より山城に入り、西岡・下桂・西院(いずれも京都市右・西京区)を焼いた。
二月二日、元長は阿波の見性寺(板野郡藍住町)に之長の菩提のため、また雪辱の心境で出陣するため、次の場所の段銭・課役を免除して寄付した。(『見性寺文書』)
板野郡の井隈(いのくま)庄地頭分内浜崎
井隈の内勝瑞(しょうずい)分
助任の内
淡州(淡路)柿寺之内
二月五日、柳本賢治は山崎城(乙訓郡大山崎町)を落とした。
二月一一日、堺の三好勝長・政長兄弟は大山崎に着いて、柳本と合流した。
二月一三日、兵三千で桂川をこえ、高国の先陣二千四百を攻撃し、西七条へかけて戦い、高国の甥日野大納言内光(三九歳)らを討った。勝長は負傷、のち戦死した。
二月一四日、大敗した高国は東寺の本陣をすてて、将軍義晴とともに近江の坂本へ、さらに、琵琶湖を渡って守山まで逃げた。
二月一六日、三好勝時・柳本賢治らは入京した。
三月二二日、戦勝を聞いた元長は、兵八千をひきいて、堺に上陸した。元長はすでに大永元年(一五二一)堺に父が残した海船浜に楼台を備えた邸宅を完成し、主家から堺の「政所」の号を与えられていたが、ただちに次の五カ条を禁止している。
一、兵士の民家宿泊
二、ケンカ
三、押し買い
四、盗み
五、乱暴狼藉と博奕(ばくち)
それとともに、堺の商業を保護し、町民に安堵を与えた。このとき元長は足利義稙の養子足利義維(よしつな。一七あるいは一九歳)、細川澄元の子細川晴元(一四歳)を連れてきている。義維は、前々将軍の子、前将軍の養子、現将軍と兄弟である。そして現将軍は三好軍によって近江に逃走したいま、将軍に就任するチャンスと考える義維を祖父之長のリベンジに出陣した元長が連れてきたのである。
六月一七日、義維は朝廷に、太刀・馬などを献上して、従五位下・左馬頭に任命されることを願った。この地位は、当時の慣例では、近い将来に将軍に任命されることを意味した。
七月一三日、義維は、希望通り従五位下・左馬頭に任命された。義維の堺の住居は四条道場(堺市北庄の金蓮寺か)で、「堺武家」「堺大樹」と書いている(『二水記』)。
九月、元長は伊丹城を包囲した。
一〇月一三日、細川尹賢は高国の先陣として勝軍地蔵山(北白川の瓜生山)に出陣した。越前の朝倉教景・近江の六角定頼らは、東山の若王子から祇園・建仁寺・東福寺へかけて布陣した。
一〇月二四日、ついで高国チームは京都西南の吉祥寺・東寺・下鳥羽(以上南区)に進み、その先陣は桂川を西へ渡って桂(西京区)・西岡・鶏冠井(ともに向日(むこう)市)に放火した。
一〇月三〇日、これらの状況を聞いた元長は、丹波の波多野・柳本と打ち合わせ、九月より包囲していた伊丹城から山崎に移動した。柳本は五条・六条に進み、元長はその北の西院(四条の西)に陣した。現将軍義晴の陣する東寺を西北から包囲した形だ。当時の記録には、三好・柳本軍は六千、義晴軍は少なくとも二万四千とある。
一一月一八日、元長が布陣した。この日、義晴は「義維退治」を東寺に祈らせた(『東寺文書』)。
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一一月一九日、元長、京都西院で義晴の兵に勝つ。(略年譜)
一一月一九日、一日中、戦いの叫び声ばかりが響いたという(『言継卿記』)。また、午後の戦いは数回におよんだという(『二水記』)。その最大の戦いは、西院口の戦い。西七条の泉盛寺(川勝寺)から進撃した朝倉教景を、河内の畠山義宣の武将遊佐順盛(*)が西院口で支えて敗北した。これを見た元長が朝倉軍を攻めに攻めて「朝倉方の光林僧以下八十」ばかり討ち死にさせた(『厳助大僧正記』)。そうして戦いの最後は「その後は三好方の太刀におそれて合戦なし」と記されている(『細川両家記』)。
(*)おかしい。kotobankでは、この年(1527)には死んでいる。要調査。
遊佐順盛 ゆさ-のぶもり
?-1511 戦国時代の武将。
遊佐国助の子。畠山尚順(ひさのぶ)配下として細川澄元(すみもと)の軍とたたかい,永正(えいしょう)8年8月山城(京都府)舟岡山(ふなおかやま)城で戦死。号は印叟。

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一二月一〇日、元長の兵が浄土寺に乱入。
一二月一一日、柳本の兵が曇華院に入って乱暴を働いた。
一二月一四日、下京で三好と柳本の兵が衝突した。
一二月二六日、畠山と波多野の兵が争う。このように内輪争いまでが起こった。
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■大永八年/享禄元年(一五二八)長慶七歳
一月一七日、元長、将軍と和す。(略年譜)
一月一七日、六角定頼の仲介で、元長は将軍義晴と和談した。しかしここで三好と柳本との間に争いが起こった。三好元長はこれ以上戦いたくなかった。しかし兄弟の仇を討ちたい柳本賢治・三好政長は反対であった。
一月二八日、賢治・政長らが和談から抜けたため、高国は困ったが、元長は和談するに違いないと思った(『二水記』)。
二月九日、元長は、細川晴元の上洛の日程が決まっていないので堺へ相談に行くため、和談は延期すると将軍義晴に申し入れた。そして元長は堺で晴元に和談のことを話したが、晴元は和談を受け入れなかった。管領になるためには、高国を退ける必要がある。また和談のことは事前に晴元に許可を得ていない。そう言って元長を責めた。これは政長の讒言によるという(『細川両家記』ほか)。元長は不満であった。
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二月九日、将軍義晴は、この日、しょこくからの援兵を解散しようとしたが、和談不成立のためにできなかった。しかし援兵たちもこんな状態が続いては困る。
三月六日、越前の朝倉らは続々と帰国した。
五月一四日、不安を感じた高国・尹賢は近江坂本に退いた。
五月二八日、将軍義晴は、義維との和談がうまくいかないので、六角定頼とともに近江坂本に退いた。
将軍・管領がいなくなった京都の政治を行うものは勝利者元長である。元長は堺の足利義維の代表者として政権トップに立った。
六月一八日、元長は、上賀茂神社に領地を安堵する奉書(義維より)を与えた。
七月一四日、元長は、京都の地子銭(じしせん。宅地税)を徴収した。
九月八日、将軍義晴は、近江坂本から、三好の勢力がおよばない要害の地、朽木谷に移った。
九月、柳本は、大和に入って高国チームの越智・筒井を討った。
閏九月、柳本は、河内に転じて、高国チームの畠山稙長を誉田城(羽曳野市)に攻めた。
p50
一〇月一七日、元長の被官塩田胤光は、山城の松崎(左京区松ヶ崎か)の名主に対して年貢の納入先を指示した(『徳禅寺文書』)。
一一月、柳本賢治は、畠山稙長の高屋城を開城させ、金胎寺城(富田林市)に退かせた。
一一月、高国、近江より伊賀の仁木義広のもとへ行った。
p51
一二月三日、塩田胤光は、山城の郡代になった(『二水記』)。
一二月、元長、柳本賢治と争う。(略年譜)
一二月三〇日、柳本は、山城の山崎で、元長チームの伊丹弥三郎を殺した。これで元長と柳本は完全に敵対関係になった。
■享禄二年(一五二九)
一月、高国は、伊勢の女婿北畠晴具を訪れている。
一月一日、柳本は、三好遠江守勝宗(一秀の別名。Wikipedia)・塩田若狭守胤光に負けて、河内の枚方へ逃れた。
一月二六日、柳本は、再び大和へ入って、赤沢幸純を興福寺で自殺させた。
四月、柳本は、諸城を落とし、また寺社を荒らした。
柳本の活動は、細川晴元の指示かどうかはわからない。少なくとも黙認を得ていた。元長は不快だった。
五月、高国は、近江をへて越前に入っている。
八月、高国は、出雲に渡っている。
八月一〇日、元長は、堺より阿波へ帰った。やってられない、ということであろう。晴元の部下として元長は、柳本との政争に負けたのである。
八月一六日、勢いに乗った柳本は、三好政長とはかって、元長チームの伊丹元扶を摂津の伊丹城に囲んだ。
九月、高国は備前に入って三石城の浦上村宗に投じた。
一一月二一日、伊丹元扶、戦死。
p52
得意になった柳本は、幕府の奉行伊勢貞忠らと話し、近江の朽木にいる将軍義晴を上洛させ、義維・晴元と和解させようとした。すばらしい計画といえる。しかし晴元が承知しない。それだけではなく、同じ考えだと思っていた政長も反対した。
■享禄三年(一五三〇)長慶九歳
五月一〇日、面目を失った柳本は、大徳寺で剃髪した。
五月一五日、柳本は、タイミングよく播磨の三木の別所就治から兵を求められたので、京都を出陣した。
六月二九日、備前にいた高国は、おりから播磨三木付近の依藤城を攻めていた柳本賢治を暗殺させた。(『厳助大僧正記』ほか)
p53
七月二七日、高国は、備前・美作・播磨の兵をひきいる浦上村宗とともに、別所就治の小寺城・三木城を落とした。
八月二七日、高国は、摂津の神呪寺(西宮市)に陣し、晴元チームの富松・伊丹・池田らの諸城を囲ませた。
九月二一日、高国は、富松城を落とし、伊丹城より出撃した高畠甚九郞を追い返した。
一一月六日、富松城から逃げこんだ薬師寺国盛の尼崎城を、高国は落とした(『細川両家記』)。
そのころ、高国の浪人内藤彦七らが、京都の勝軍地蔵山に現れ、南禅寺山・今熊野・東福寺あたりにも出没した。河内守護木沢長政はこれを防いだ。
■享禄四年(一五三一)長慶一〇歳
正月から二月にかけて京都中で、内藤らと木沢長政は、小さな戦をくり返した(『御湯殿上日記』ほか)。
二月一七日、近江朽木の将軍義晴は、葛(かつら)川・堅田をへて、坂本についた。
二月二一日、元長は、堺へ出陣した。晴元が何度も「早く助けに来てくれ」と使いを出していた(『細川両家』)。晴元に疎外された元長であるが、その原因をつくった柳本賢治はすでに死んでいる。そして高国は、元長の祖父之長をだまして刑死させた仇である。ゆえに元長は動いたのだ。
三月六日、摂津では伊丹城の落城に続いて、池田久宗の池田城も落ち、摂津の大半は高国のものになった。
三月七日、内藤らは禁裏の東まで侵すようになったため、木沢長政は京都を脱出した(『二水記』ほか)。
p54
三月一〇日、元長は、堺の北の住吉まで押し寄せた浦上・高国の先陣を破って、天王寺まで退かせた。
三月二五日、阿波の細川讃岐守持隆が、元長の軍に参加した。
六月四日、元長の軍は、天王寺へ押し寄せた。その数、一万五千。そのほかに八千を堺にとめて義維・晴元を守らせたといわれる。これに対し浦上村宗の軍は二万であるが、その後陣に赤松政村がいた。赤松政村は、その父義村が浦上村宗に殺されていた(一〇年前の大永元年八月二一日)。そして村宗が自分よりも上のようにふるまうことを憎んでいた。
これが戦いを決めた。
赤松政村は元長に対し密かに人質を送って内通していたので、元長が戦いに勝った。浦上村宗・和泉守護細川元有をはじめ、討ち死には八千。その大部分は溺死と記され、堺で実検した首級だけで五百という。高国は尼崎の京屋にひそんだが捕らえられた。
六月八日、高国は、広徳寺で三好山城守一秀(之長の末弟とされる)の解釈で自殺した。享年四八。
この戦いを「大物(だいもつ。尼崎市)崩れ」ともいう(『二水記』ほか多数)。
七月二四日、細川尹賢も木沢長政のために摂津の渡で殺された(『二水記』ほか)。
永正四年(一五〇七)の政元暗殺より、二五年におよんだ、高国対澄元・晴元の争いは終わった。
*****三好一秀Wikipedia始
大物崩れでの敗戦の混乱の中、大将の高国は戦場を離脱。尼崎の町内にあった京屋という藍染屋に逃げ込み藍瓶をうつぶせにしてその中に身を隠していたが、密告者の報を受けた一秀によって享禄4年6月5日に捕縛された。
尼崎の町で高国を捜索した一秀による一計、まくわ瓜の逸話が今日に伝わっている。近所で遊んでいた子供達に一秀はまくわ瓜をたくさん持ってきて、「高国のかくれているところをおしえてくれたら、この瓜を全部あげよう」と切り出したという。子供達はその瓜欲しさに高国が隠れていた場所を見つけたという有名な逸話である。
*****三好一秀Wikipedia終
天王寺の戦いで勝った元長は京都においてふたたび勢力を得た。
七月一〇日、幕府の奉行斎藤基速と平光郷が、京都大徳寺の伝庵宗器に対し、その末寺妙覚寺跡とその門前の土地および家屋を、西郡光忠の手から還付した。元長は、この件に関して、一八日後の七月二八日、折紙(命令書の一形式)を与えた。
p56
七月一二日、元長は、北野神社領河内八カ所の代官職に任ぜられたに対し、請書を出した(『北野神社文書』)。
平和になった京・摂津は、木沢長政が元長と争うことでまたせんらんが起こった。
八月二二日、河内守護畠山義宣(よしのり)が木沢長政の飯盛城(四条畷市)を攻めた。木沢長政はすでに欠いたような功績があって、晴元に重用されたため、義宣から独立を企てたためだ(『二水記』)。
元長の一族三好遠江守勝宗(一秀の別名。Wikipedia)は求められて畠山義宣に助力した。長政は晴元に助けを求め、晴元は三好政長の意見で出兵した。
八月二〇日、晴元は、姉婿の畠山義宣を摂津の中島で破り、さらに追撃しようとした。このとき晴元は従兄弟である阿波の細川持隆になだめられた。しかし晴元は三好遠江守が畠山義宣を助けたことで、元長に対して不満をいだいた(『細川両家記』ほか)。
■享禄五年/天文元年(一五三二)長慶一一歳
一月、柳本賢治の子神二郎が京都三条で乱暴した。
一月二二日、三好山城守一秀(『細川両家記』)らは、柳本神二郎を討った(『実隆公記』『言継卿記』『細川両家記』『足利季世記』)。この事件は、賢治が享禄元年末に元長チームの伊丹弥三郎を殺し、さらに翌年、伊丹元扶を殺した復讐のためであるという。これによって「いよいよ晴元と元長の仲は悪くなる」(『細川両家記』)。
晴元は、元長を折檻したので、元長は被官八〇人ばかりで、髻(もとどり)を切った(『二水記』)。元長が「海雲(開運)」と号したのはこのときである。
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三月三日、細川持隆は元長のために、晴元と話したが、晴元は受け付けない。持隆は晴元と義絶し、堺より阿波へ帰国した。
三月六日、連歌師宗長没。八五歳。
五月、畠山義宣と三好遠江守は再び木沢長政を飯盛城に攻めた。木沢長政は三好政長に依頼し、晴元は木沢長政を助けたが勝てなかった。そのため、晴元は本願寺光教証如(一五一六~五四)に出兵を依頼した。当時、力があったのは蓮如(一四一五~九九)によって再興された一向宗と、日親(一四〇七~八八)に復興された法華宗である。元長は法華宗の大檀那である。このとき一七歳の光教は、曽祖父蓮如以来の細川氏との親交を考えた。そして祖父である先代の実如(光兼)が「諸国の武士を敵とせず」とした遺言に反した。
六月五日、本願寺光教は、山科から大坂に来て、摂津点河内・和泉の門徒を動員した。
六月一五日、二万の門徒は、飯盛城を後攻(うしろぜめ)して、三好遠江守を討ちとり、畠山義宣を追って石川の道場(門徒の集会所)で自殺させた。
六月一九日、元長は、長子千熊丸(長慶)と妻を堺より阿波へ帰国させた。
六月二〇日、元長は、一向一揆の門徒一〇万人に包囲され、堺南庄の法華宗の顕本寺で自害した。享年三二。
元長の墓は顕本寺にあって、表に「帰本 海雲善室大居士」と刻むが、裏面は「天文二年六月廿日」と誤っている。しかし南宗寺のものは「天文元年」と刻んである。
元長の戦死で、大永七年三月以来、堺で五年余りを暮らした足利義維は、将軍就任の望みを失った。元長戦死のとき、義維も顕本寺にいて、自殺しようとしたが、晴元の手の者によって止められ、再び四条道場に住んだ。
七月二九日、天文と改元。
p61
八月九日、千熊丸(長慶)と千満丸(長慶弟義賢)は、父元長の菩提のため、阿波の上郡(美馬・三好両郡方面をいう)山本分の土地を、見性寺に寄進した。この日は、元長の七七忌に当たる。なお長慶は堺の顕本寺にもたびたび一族を集めて、元長の年忌を営むようになる。

p62第三 孫次郎利長と称した時期
一 一向一揆と戦う
■享禄五年/天文元年(一五三二)長慶一一歳(続き)
細川晴元が三好元長を討つため本願寺光教に依頼して、その門徒を動員したことは、その後がよくなかった。
七月、一揆は奈良に波及し、同地の富商橘家らと通じて、興福寺と戦う。
七月一七日、一揆は、興福寺の菩提院など一七宇を焼いた。
八月四日、一揆は、晴元を堺北庄に攻め、堺の東の浅香で木沢長政と戦った。そのほか摂津の池田・大和の高取・山城の山崎などで戦っている。当時の政治家は「天下は一揆の世になってしまった」と嘆いている。
晴元は、一揆への対抗勢力として、法華宗徒の力をかりた。
八月七日、京都の本圀(ほんこく)寺・本能寺・妙顕寺など二一カ寺の信徒は、晴元の武将柳本信堯(のぶたか)らと市中を打ち回し(デモ)した。
八月一〇日、法華宗徒らは、東山大谷の一項堂を焼いた。
八月一九日、法華宗徒らは、山崎まで押し寄せてきた摂津の一揆軍を破った。
八月二三日、法華宗徒らは、門徒を憎む叡山衆徒、義晴・晴元に忠実な六角定頼の兵を加え、三~四万が、山科本願寺を包囲した。
八月二四日、法華宗徒らは、山科本願寺に乱入し、放火して、二時間足らずのあいだに、一軒も残さず、焼き払った(『祇園執行日記』『二水記』ほか)。
前に話した蓮如は文明一一年(一四七九)がつくった山科本願寺は消えた。
光教は大阪御坊に移った。のちに織田信長と戦いをくり広げる石山本願寺である。
p63
九月一二日、細川高国の弟晴国が、京都の鞍馬口にて挙兵した。
九月二〇日、足利義維、堺を出て淡路の志筑(しつき。津名町)へ去った。義維は阿波路で義冬と改め、やがて天文三年(一五三四)細川持隆に迎えられて、阿波の平島庄(阿南市。旧那賀郡那賀川町)に館した(『阿州足利平島伝来記』『淡路常盤草』など)。彼は将軍就任をあきらめず、このあと二回、上洛しようとする。
九月二六日、摂津の一揆は、また山崎まで押し寄せた。
一二月二五日、徳政一揆がおこりそうだというので、土倉(金融業者)は自衛のため二万の傭兵で、一揆の中心と考えられた太秦(うずまさ。京都市右京区)・北山(京都市北区)を放火させた。
■天文二年(一五三三)長慶一二歳
一月、晴元の武将松井宗信が摂津の尼崎で、また、薬師寺国長が摂津の山田市場・富田(とんだ。高槻市)で一向一揆と戦った。
一向一揆は晴元を怒っていた。元長を殺すとき利用しておいて、そのあと裏切り、法華宗徒らに山科本願寺を焼き打ちさせたからだ。
二月一〇日、堺の晴元は一向一揆に攻められ、淡路へ逃げた。勢いにのった一揆は、晴元の武将伊丹親興の伊丹城を包囲したが、木沢長政が京都の法華宗徒を誘って、背後を包囲した。
三月二九日、一向一揆軍は大敗して、その力を弱めた(『言継卿記』『細川両家記』)。そのため晴元は淡路から帰り、木沢長政・法華宗徒らと合流した。
p65
四月二六日、晴元らは、光教が占拠している堺を攻めて、大坂へ追い返した。
五月二日、晴元らは、石山本願寺を攻めた。要害であり、なかなか落ちない。
六月、細川晴国は、山城の仁和寺で晴元の武将薬師寺国長を討った。
六月二〇日、和談が成立した。
この和談は『本福寺明宗跡書』によると、三好長慶が斡旋した。当時の資料に「三好仙熊(長慶のこと)にあつかいをまかせて」とある(『本願寺史』ほか)。このとき一二歳である千熊丸が和談を仲介したというのは、千熊丸の名で代理のものがしたのであろうが、若き長慶を中心とした三好の勢力は、元長の戦死後ちょうど一年目に、晴元と本願寺を和談させるくらいの勢力に回復していたと見るべきである。長慶はこのころ元服して、「孫次郎」と称し、「利長」と名のった。まだ「長慶」とは名のらない。
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本願寺講和したが、そのころ本願寺と分離している一向一揆軍は講和しなかった。
八月一一日、摂津下郡の一揆が蜂起し、御園(みその)にあらわれたが、三好長慶がさんざんに攻めて、けちらした(『足利季世記』)。
九月六日、河原林一揆軍が、長慶の越水城をおそい、うばった。
p68
九月二三日、長慶が越水城の河原林一揆軍を攻め、河原林一揆軍は詫びをする。
九月二四日、河原林一揆軍は、中島(大阪市)にもどった。
一二月、細川晴国は、京都の西郊内野大宮などで転戦している。のちに中島に移る。
■天文三年(一五三四)長慶一三歳
八月一一日、長慶は、本願寺に味方して、摂津の椋橋(くらはし。豊中市)城を拠点として、晴元の軍と戦っている。
一〇月、長慶は、潮江庄(尼崎市)で三好政長と戦った。しかしやがて木沢長政の仲介で晴元に属した(『細川両家記』『足利季世記』ほか)。
一〇月二二日、晴元は、長慶に次のように命じている。
「長慶の被官市原与吉兵衛が、京都平野神社の神供田の年貢などを押領している。これを停めて、もどすように」
このことから長慶は父の恨みを忘れて、晴元の被官になったことがわかる。
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■天文五年(一五三四)長慶一五歳
三月一〇日、足利義輝生まれる。
三月、京都の一条の烏丸で、叡山の僧が法華宗神都との法論に敗れた。そのため叡山は、三好氏が繁盛し、その檀那寺法華宗が栄えていることに反感を持つ。
さて本願寺光教は晴元と講和し、政治に関与することを禁じた祖父実如(光兼)の教えに帰って、一揆から離れた。しかし本願寺の重臣である下間らの武断派は、なお一揆の中心として中島を拠点としていた。そして細川晴国もこれに参加していた。
三月、長慶は、西難波・椋橋(くらはし。豊中市)城で一揆軍に負けた。いったん木沢長政の信貴城(奈良県生駒郡)に逃れた。
※法華宗をたたくチャンスだと叡山は思った。法華宗と仲のよい三好が衰えているからだ。細川晴元・木沢長政・六角定頼は、法華宗徒が、山科本願寺焼き打ち・摂津伊丹城の一揆軍を後巻きに示した力を恐れている。やつらを誘えばよいだ。
七月、叡山は、六角定頼らの兵に加え、三井寺・興福寺などにも協力を求めた。
七月二三日、叡山らの軍は京都に進入した。二七日まで戦って、下京ぜんぶと上京の三分の一を焼いた。多数の法華宗信徒を殺すとともに二一カ寺を焼き、生き残った信徒は堺まで追われた。
七月二九日、長慶は、三好政長・木沢長政とともに、中島を攻撃した。この戦いは、「寄せ手(長慶チーム)は馬武者が多く、一揆軍は歩兵」であったため、一揆軍はほとんど全滅した。
八月二九日、中島からは逃げのびた細川晴国だったが、三宅国村のため、天王寺で自殺した。
一一月、六角定頼と光教が和したため近江の一向衆徒も衰えた。

こうして、天文元年六月以来、四年におよんだ一向宗門徒・法華宗信徒の狂信的行為を中心とした(※自爆テロ)戦争は終わり、一揆軍の中核であった土豪・農民・町民の政治活動は終わった。本願寺は、天文五年(一五三四)八月一九日、すでに山科本願寺を復興することを許されている。おくれて天文一一年(一五四〇)一一月一四日、法華宗も、京都に寺を再建することを許される。

p70
二 細川晴元への脅威
p71
■天文五年(一五三四)長慶一五歳(続き)
一一月一九日、長慶、晴元を招宴。
長慶は三好政長と争うことになった。
政長は、※後日
政長は、晴元に信任されて幕政に参加した。
■天文七年(一五三八)
九月、
p72
一〇月、
一一月、
一一月一〇日、
■天文八年(一五三九)
一月一四日、長慶は、兵二千五百とともに上洛した。
一月一五日、長慶は、晴元の供をした。そのとき晴元は、去年尾張の織田信秀(信長父)が、美濃で捕らえて晴元に贈った鷹を長慶に与えた。
一月二五日、長慶は、晴元を招待して観世小二郎の能を見せている。そして酒宴中に、晴元に対し、幕府の河内一七カ所の代官職を要求したが、晴元は聞き入れなかったようだ。このあと長慶は、直接幕府に訴えた。
四月二九日、政長は、丹波に蟄居した。
p73
六月二日、長慶の訴えを聞いた幕府の内談衆大館尚氏は、「河内一七カ所の代官職は、三好長慶にまかせてよろしいと思います」と将軍義晴に答申した(『大館常興日記』)。尚氏が長慶の要求を正当と認めたのは、一七カ所がもと長慶の父元長が任命されていて、元長の戦死後、戦死のかげに暗躍したといわれている政長が任命されていたものと想像される。
このころ丹波から山城の嵯峨へ進出しようとした(『天文日記』『清涼寺文書』)。
こうして長慶と政長の争いがおこった。この争いは、のちに、政長を助ける晴元との争いになっていく。
閏六月一日、
一三日、
p75
閏六月一五日、
一六日、
一七日、
p76
二六日、
七月一四日、
二八日、
八月一四日、
p76
■天文八年(一五三九)
一一月二二日、『三好家譜』によれば、長慶は、丹波の波多野備前守秀忠の娘と結婚した。『三好家譜』は誤りが多く、信用できない。しかし長慶も一九歳であるから結婚はあったと考えてよい。『続応仁後記』も、天文一〇年(一五四一)八月一二日、長慶が摂津の一庫(ひとつくら)城を攻めたとき「舅の波多野備前守らを…」と記している。
長慶の河内一七カ所の代官職の要求は、正当であった。
そのため、晴元を震えあがらせた。
将軍は長慶をなだめた。そのために、摂津・河内の諸豪族(国衆)に説得させようとした。また近江・北陸の兵を戦争に備えて上洛させようとまで、あわてさせた。
※父三好元長を殺したことにたいする意識がそうさせた。

p78第四 孫次郎範長と称した時期
(略)

#####

p264略年譜
■大永二年(一五二二)長慶一歳
二月一三日、長慶、三好元長の嫡子として誕生。千熊丸。この年、千利休生まれる。
■大永三年(一五二三)長慶二歳
四月七日、前将軍足利義稙、阿波の撫養で没。五八歳。
■大永六年(一五二六)長慶五歳
一二月一五日、三好政長ら堺に上陸、ついで将軍義晴の兵と戦う。
■大永七年(一五二七)長慶六歳
二月二日、元長、見性寺(徳島)に土地寄進。
二月一四日、将軍家義晴・細川高国、京都より近江へ。
三月二二日、元長、足利義維、細川晴元、堺に着く。
一一月一九日、元長、京都西院で義晴の兵に勝つ。
■享禄元年(一五二八)長慶七歳
一月一七日、元長、将軍と和す。
五月二八日、義晴、義維との和ならざるにより近江へ。元長、京都の政治を執行。
九月八日、義晴、近江坂本より朽木谷に移る。
一一月、柳本賢治、畠山稙長の高屋城を降す。
一一月、高国、近江より伊賀へ行く。
一二月、元長、柳本賢治と争う。
■享禄二年(一五二九)長慶八歳
八月一〇日、元長、堺より阿波へ帰る。
■享禄三年(一五三〇)長慶九歳
六月二九日、高国、柳本賢治を暗殺させる。
■享禄四年(一五三一)長慶一〇歳
二月二一日、元長、堺へ出陣。
六月四日、元長、天王寺で高国を破る。
六月八日、元長、広徳寺で高国を殺す。四八歳。
七月二四日、細川尹賢自殺。
■享禄五年/天文元年(一五三二)長慶一一歳
一月二二日、元長、京都で柳本神二郎を討つ。晴元、元長を折檻す。元長、陳謝。
三月三日、細川持隆、堺より阿波へ帰国。
三月六日、連歌師宗長没。八五歳。
六月五日、本願寺光教、大坂に来る。
六月一五日、畠山義宣、一向一揆のため敗死。
六月一九日、長慶、母と堺より阿波へ帰国。
六月二〇日、元長、一向一揆のため堺顕本寺で討ち死に。
八月九日、長慶、父元長の菩提のため見性寺に土地寄進。
八月二四日、山科本願寺、焼き打ち。光教、石山本願寺に移る。
九月末日、足利義維、堺を出て淡路へ。
■天文二年(一五三三)長慶一二歳
二月一〇日、晴元、一向一揆のため堺より淡路へ敗走。
二月二三日、阿波国主細川之持(ゆきもち。成之の孫)没。子持隆つぐ。
四月七日、晴元、摂津池田に帰り、光教を堺で破る。
五月二日、晴元、大坂を攻める。
六月二〇日、長慶、晴元と光教との和を斡旋す。
八月一一日、長慶、摂津御園で一向一揆と戦う。
九月二三日、長慶、摂津越水城を河原林某より奪回。
この年ごろ、元服し、孫次郎あるいは伊賀守利長と称す。
■天文三年(一五三四)長慶一三歳
六月八日、義晴、近衛尚通女を娶る。
八月一一日、長慶、摂津の椋橋城で晴元の兵と戦う。
九月三日、義晴、近江より帰京。
一〇月二〇日、長慶、摂津の潮江庄で一族三好政長と戦う。
一〇月二二日、長慶、すでに晴元に帰属。(※晴元と和した)
この年、織田信長・細川幽斎生まれる。
■天文五年(一五三六)長慶一五歳
三月一〇日、足利義輝生まれる。
七月二三日、京都の法華宗二十一カ寺が、この日から二七日にかけて焼き打ちされる。
七月二九日、長慶、三好政長・木沢長政らと摂津の中島の一向一揆を亡ぼす。
一一月一九日、長慶、晴元を招宴。
■天文六年(一五三七)長慶一六歳
四月一九日、晴元、六角定頼の女を娶る。
九月一七日、長慶、淡路に行く。
■天文八年(一五三九)長慶一八歳
一月一四日、長慶、兵二五〇〇をひきいて上洛。
一月一五日、長慶、晴元を招宴。
一月二五日、長慶、晴元を再び招宴。
四月二九日、三好政長、丹波に蟄居。
六月二日、長慶、河内一七カ所代官職を要請。
同日、大舘尚氏、長慶の訴えを正当と答申。
閏六月一日、幕府内談衆、徴兵につき内談。
閏六月一三日、長慶、将軍に諭旨される。
閏六月一五日、長慶、将軍の諭旨に答える。
閏六月一七日、晴元、高雄に布陣する。
閏六月二六日、長慶、京都の治安につき将軍に請書を呈す。
七月一四日、長慶、三好政長と妙心寺付近で戦う。
七月二一日、長慶の兵、摂津の越水城を落とす。
八月一四日、越水城に入り、居城とする。(※政長と和した)
一〇月二八日、細川持隆、播磨の赤松晴政のため備中で尼子晴久と戦って敗北。
この年、長宗我部元親生まれる。
■天文九年(一五四〇)長慶一九歳
六月一七日、諸国に悪疫流行。後奈良天皇、般若心経を書写し、三宝院義堯に祈祷を命じる。
一一月二二日か、長慶、丹波の八上城主波多野秀忠の女を娶る。

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