『三好長慶』今谷明、天野忠幸

『三好長慶』今谷明、天野忠幸
p6【序章】総論
〈戦国期の室町幕府と三好長慶〉今谷明
三好氏は細川氏の守護代。守護代出身は、織田、朝倉、尼子、龍造寺など。
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当時も現在も織田信長が絶対で、天下人は尾張・三河から、が既成概念。阿波や四国を畿内と結びつける発想がなかった。
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二、細川氏の台頭
幕府の三管領家のうち、斯波氏は最も早く衰え、家督紛争は応仁の乱前に、すでに他家有力者に左右される状況。畠山氏も、嘉吉の乱(一四四一)を機に家督が分裂し、将軍義政(一四三六~九〇、在職一四四九~七三)期を通じて激化。細川氏のみが一族結束し、乱後は幕閣を代表する有力守護家になった。
■明応三年(一四九三)の政変で、細川政元(一四六六~一五〇七)は日野富子(一四四〇~九六)と結んで将軍を廃立するまでになったが、政元は修験に凝るなど、政治から離れ、実権は安富・香西ら守護代層に移った。
その細川家も一六世紀に入ると「二川分流」と称される家督紛争が起こったが、永正三年(一五〇六)二月、細川澄元(一四八九~一五二〇)の先陣として上洛した三好之長(一四五八~一五二〇)は摂津西半国守護代として畿内に足がかりを得た。四国から兵を養って畿内・幕閣進出という伝統は、南北朝初期から。
以後二年余り、曲折があり、細川高国(一四八四~一五三一)が大内義興(一四七七~一五二九)と連合して執政の地位に就き、将軍義稙(一四六六~一五二三、在職一四九〇~九五、一五〇八~二二)を擁立した。
p10
以後■大永七年(一五二七)までは三好氏の雌伏時代。船岡山の戦(一五一一)や等持寺合戦(一五二〇)で細川高国に却けられ中央政界への復帰はできなかった。
■大永六年(一五二六)丹波で柳本・波多野氏らが高国に反旗を翻し、阿波では三好元長(一五〇一~三二)(長慶の父、之長の孫)が呼応して和泉・堺へ攻め上った。
■かくして翌年(一五二七)二月、桂川の戦(一五二七)で反高国側が大勝し、将軍義晴(一五一一~五〇、在職一五二一~四六)、執政高国らは近江へ逃亡した。元長は義稙の遺子義維(一五〇九~七三)を次期将軍、澄元の遺子晴元(一五一四~六三)(※お飾り将軍義澄の子。義稙の養子)を管領として擁立し、堺の四条道場引接寺(いんじょうじ)に居させて「堺幕府」の体裁を整えた。
三、堺幕府と三好政権
以後、■天文元年(一五三二)六月まで、この義維・晴元を戴く堺幕府が畿内近国を支配した。三好元長は山城守護代に任ぜられた。
堺に三好政権を基盤とする幕府が成立したことは象徴的。堺は南北朝期、吉野・賀名生(あのう)に逼塞する南朝の外港だった。南北朝末期は、「六分一殿」山名氏の守護所となり、山名氏清(一三四四~九二)・満幸(?~一三九五)らは堺によって足利義満(一三五八~一四〇八、在職一三六八~九四)に反した。
堺の地政学的な厄介さに手を焼いた幕府は、和泉を「半国守護制」の国とし、両守護に堺を共同統治させ、牽制させて「叛地」となるのを防ごうとした。
戦国期には、材木と藍で富んだ堺の豪商が三好氏の「政商」となり、堺は三好政権の畿内の拠点になった。山城守護代になった三好元長だが、京都ではなく堺を幕府としたのは当然といえる。
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京都を追放された高国は、越前から中国地方まで流れて挽回をはかったが、■享禄四年(一五三一)の「大物崩れ(だいもつくずれ)」で晴元・元長の軍により敗死。堺幕府は安定したかと思われた。しかしその後、晴元と元長の主従に不仲が生じた。(p33■翌五年(一五三二)には、晴元の被官である柳本甚次郎を殺した罪に問われ、出家させられている。「開運」と称する。(※?))晴元は朽木に亡命中の義晴と結んで義維から離れ、堺公方府(※幕府?)は分裂した。
(p33晴元との対立はこののちも解消されず、■享禄五年/天文元年(一五三二)六月、晴元に与した一向一揆に攻められ、堺顕本寺で自害している。)晴元は三好軍を滅ぼすため一向一揆の力を借りた。享禄五年/天文元年六月、堺の町に突入した一揆の大軍を前に義維は逃亡、元長は敗死。堺幕府は五年の寿命で壊滅した。
ここから三好長慶の時代に入る。はや■翌天文二年(一五三三)、長慶は幼年ながら大坂の本願寺(一向一揆)と晴元・法華一揆連合軍を和睦させ、畿内政界に隠然たる睨みを利かせた。
■天文八年(一五三九)には越水城主となり、摂津西半国守護代に任じた。(※? 任命された、の意か。)かつて曽祖父之長が三十余年前に帯びていたポストである。
p20【第一章】三好氏と阿波国
〈阿波守護細川氏と三好氏〉古野貢
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■文明一七年(一四八五)六月、三好之長をはじめとする細川政之被官五〇人ほどが高倉永継が捕らえた盗人を取り返すために高倉屋敷に押し寄せたのち、細川政元によって収拾された
(『十輪院内府記』ほか。文明一七年六月一一日条)。
(略)
前当主成之や宿老衆と、政之との間に確執があった(文明一四年。政之下国、成之在京)。
(略)
文明一七年(一四八五)
このころ之長は、諸家被官、京中の悪党、土一揆など(※要するにゴロツキ)と連携し、張本として徳政(※借金チャラ。之長が金を借りていたと思われる)を企てていた。八月九日、朝、所司代多賀高忠が討伐のために之長の宿所に向かったところ、彼はすでに細川政之の屋敷に移っていた。追討者が政之屋敷を囲み、之長の差し出し・処罰を求めたが、政之はこれを拒否している(『十輪院内府記』ほか。文明一七年八月九日条)。泡守護家内部の対立状況のなかで、政之からきわめて重要視されていたのが三好之長だったといえる。
p27
三好氏の台頭とともに、ずっと内衆として支えてきた飯尾・東条氏らは、阿波守護細川氏を裏切る。東条氏らは下向した阿波国で反乱を起こした(『鹿苑日録』延徳元年六月五日条)。一〇月一二日には、細川成之・政之父子は揃って下向(『大乗院寺社雑事記』文明一七年一〇月一二日条)。その際、「先陣三吉(原文まま)、後陣河村」(『蔭涼軒日録』文明一七年一〇月一二日条)とあり、三好氏が阿波守護家の有力家臣であるとわかる。

p32〈三好元長の動向〉古野貢
p33
■永正六年(一五〇九)
元長の父長秀は、父之長に先立って死んでいる。如意嶽の戦いで之長が、高国に敗れて阿波国へ敗走した際、伊勢山田で北畠材親(きちか)に討たれた(『永正六年八月九日付細川高国感状案』)。
■永正一七年(一五二〇)
五月、之長は、細川澄元に従って、政元の後の家督を細川高国と争った結果敗れ、京都百万遍(京都市上京区)で自害した(『二水記』永正一七年五月一五日条)。
元長は、幼名を「千熊」といい、この年から活動を確認できる。
■永正一八年(一五二一)
祖父之長敗死の翌年、阿波に帰国するが、岩倉(現美馬市)の安楽寺の還住(*)について文書を発給している(『安楽寺文書』)。
(*)げんじゅう【還住】とは。意味や解説、類語。もとの場所にかえって住むこと。かんじゅう。

p34
(一)元長登場前夜
■永正三年(一五〇六)
二人目の養子、細川澄元は、阿波国衆をひきいて上洛。三好之長もいた。澄元に従って之長が台頭。既存勢力の内衆と対立。
p35
■永正四年(一五〇七)
六月二三日、澄之派の内衆(薬師寺長忠、香西元長、竹田孫七ら)は、政元暗殺。
翌二四日、薬師寺らは澄元、三好之長らの屋敷を攻めて、これを近江に敗走させたのち、澄之に家督を継がせた。
高国は、敗走した澄元をはじめ、典厩家細川政賢、淡路守護細川尚春らと連携し、澄元を政元後継者として合意。
七月二八日、澄元・高国チームの薬師寺元一が薬師寺長忠を茨木に攻めた。
翌二九日、高国らが香西元長を嵐山城に攻めた。
八月一日、三好之長が澄之を遊初軒(嵯峨嵐山)に攻めて自害させた。
翌二日、澄元は、将軍義澄に閲し、細川氏家督と管領職を継いだ。
細川政元に追放された前将軍義尹(義材から改名)は、明応八年(一四九九)以降、周防の大内義興のもとに。
■永正四年(一五〇七)
年末、大内義興は、澄元・高国が澄之を破り、澄元が細川家家督を継いだことを受け、上洛の機会をうかがった。澄元は、義尹を擁する義興と和議を結ぶため、高国を派遣しようとした。しかし、高国はこれを機会に伊賀にのがれ(Wikipediaでは伊勢)、義尹・義興と結んで澄元に対抗。摂津の伊丹元扶、丹波の内藤貞正らと連携した。
なぜか?
澄之殺害に功績のあった三好之長が澄元政権内での発言力を強めたから、古株の京兆家内衆(かつて澄元を支持)が反発し、もう一人の後継者候補の高国を支持したのだ。
※オレたちはずっと前から澄元を支持していたのに、新参者が偉そうにするな。…こういうわけだ。
■永正五年(一五〇八)
四月、澄元は将軍足利義澄らとともに近江に逃げた。代わって高国が入京、月末には堺に入港した大内義興を迎え、高国が細川家家督を継いだ。
六月、義尹は将軍に再任されてよしたねと改名。義興は山城守護職、高国は管領職を得た。
p36
■永正六年(一五〇九)
近江の細川澄元、三好之長らが京都へ侵攻。細川高国、大内義興により撃退。
一〇月、高国チームが近江へ攻めこんだので、澄元・之長は阿波へ逃げた。このとき三好長秀は伊勢に逃げたものの、北畠材親(きちか。松阪市の蓮浄寺に大石御所(館))に攻められ自害。長秀の子元長は之長から三好氏家督を継いだ。
■永正八年(一五一一)、澄元は細川政賢・尚春らとともに芦屋河原で、河内守護畠山尚順(ひさより)と和泉深井で戦闘。さらに貼ります守護赤松義村と連携して京都を攻撃。高国・義興は敗れ、将軍義稙とともにいったん丹波に撤退。澄元チームの攻勢のなか、義澄が病没。高国・義興は京都船岡山の合戦で勝利し、澄元また阿波へ逃げた。
■永正一四年(一五一七)
三好之長は淡路に侵攻し、淡路島水軍の掌握を図った。これにより、淡路守護細川尚春は堺に逃亡。
これ以前から、大内義興の分国周防や長門において少弐氏などの在地勢力が自立的な動き。在京の義興は、再三帰国の意思を表明するが、京都治安維持のため許されなかった。しかし周防などに加え、出雲(尼子氏)や安芸(武田氏)といった反大内氏の動き。
■永正一五年(一五一八)
八月、義興は京都を離れ、以後上洛することはなかった。
p37
■永正一六年(一五一九)
五月、細川尚春は澄元チームに降ったものの、之長に殺された。
一〇月、澄元・之長らは、高国が派遣した摂津国人、池田、河原林、塩川らの諸氏を味方に。
一一月、澄元・之長は、高国チームの河原林政頼がこもる越水城を囲んだ。
■永正一七年(一五二〇)
正月、河原林政頼は持ちこたえていたが、同じ頃、京都近郊で土一揆。徳政令を要求。対応に困った高国は、澄元との戦いを続けられなくなった。
二月、河原林政頼は三好之長に和議を申し入れ、越水城は開城。
高国チームは澄元・之長の攻勢に近江に退き、将軍足利義稙は澄元チームに参加。この段階では、澄元・之長チームが圧倒的に優勢。
五月、高国は、六角定頼、京極高清、内藤貞正らとともに京都を攻める。等持寺付近で澄元・之長と戦闘となり、勝利した。捕らえられた之長は、高国に助命を願った。しかし、かつて自分が殺した細川尚春の遺児彦四郎の要請に応じた高国によって自害させられた。澄元は摂津に敗走したのち、阿波国へ退き勝瑞城で病死。
※等持寺、戦は元長もいたはず。

■大永元年(一五二一)
三月、高国を裏切った義稙は一部の奉行人(公務員)とともに高国のもとをはなれ淡路へ。河内の畠山尚順との連携を模索して高国に対抗しようとした。この義稙の動きが、京都を離れても幕府機能が存続する堺公方権力の基となった。

p38
(二)細川高国との戦い
■大永六年(一五二六)
高国によって畿内支配が落ち着きかけていた。高国の弟尹賢が摂津中島の堀城を築城していた。手伝っていた香西元盛(高国重臣)とのあいだに、双方の人足同士で争い。元盛被官は堀城への乱暴行為をした。尹賢は問題にして兄高国へ訴えた。
七月、高国は香西元盛を殺した。元盛の義兄に波多野稙通、実弟に柳本賢治がいた。
波多野稙通は丹波八上城城主で、丹波守護を兼務した細川京兆家(勝元)のもとで多紀郡代(※?)を相承してきた。柳本賢治も丹波に勢力を持っていた。稙通・賢治は元盛の殺害が冤罪とし、尹賢と高国に叛いた。阿波には澄元息六郎(のちの晴元)がおり、芝生城(しぼうじょう)では之長の孫元長が三好氏惣領となっていた。前代の澄元・之長の支持勢力との連携も図った。
高国・尹賢は、稙通・賢治が籠もる丹波八上城などを攻撃したが攻めきれず、その間に同じく丹波氷上郡黒井城の赤井氏が稙通・賢治の後援として出張ってきた。そのため、高国チームは敗北、撤退。高国チームとしては、丹波守護代内藤国貞(八木城主)が裏切ったことも大きかった。逃げる高国を追い、阿波勢力の三好勝長・政長らが摂津へ進出。元長はこの時点ではまだ勝瑞城にいた。
■大永七年(一五二七)
正月、柳本賢治は丹波より京都に迫った。高国チームは老ノ坂に近い野田城で防戦したが陥落。これを受けて尹賢は京都北野に布陣して守りを固めたが、柳本賢治は入京しないで南下して摂津へ向かい、山崎で摂津守護代薬師寺国長を高槻に追った。これ押され、芥川、茨木などの摂津国人は、賢治チームに参加。高国チームは、若狭守護武田元光と組んだ。
同年二月一三日、京都桂川で高国チームと晴元チーム(賢治、三好政長ら)が激突。高国チーム大敗。高国は将軍義晴を連れて再び近江へ敗走。波多野稙通、柳本賢治らが入京し、治安維持につとめる。幕府の奉行人らがいなくなり、幕府機能停止なので。
二月二二日、阿波から細川晴元、三好元長、そして足利義維らが堺に上陸。この頃、堺は交易による富裕層たちの自治都市といえる。また京都や堺は法華宗を信仰する都市民(※商工業者? 農民は一向宗という棲み分けか)が増えていた。三好氏も法華宗の施主で、堺にも多くの寺院を建てている。

p39
(三)堺公方権力の確立
堺の引接寺(いんじょうじ)に入った細川晴元ら阿波勢力を仕切っていたのは元長。
p40
元長は摂津の茨木長隆を晴元の奉行人にした。※従来のように細川家の内衆を使うことはしなかった。
■大永六年(一五二六)
七月、朝廷は足利義澄の子義賢に「義維」を名のらせ、従五位下、左馬頭に任じた。この官位は将軍就任前の武家の棟梁が任じられるものだから、義維が将軍後継者としての地位を確保したことになる。ゆえに「堺幕府成立」ともいえる。細川晴元は細川氏家督、管領、摂津をはじめとする細川氏分国の守護に任じられた。元長は山城守護代、堺幕府権力の実をつかんだ。
■大永七年(一五二七)
九月、近江の高国に味方する伊丹元扶を討つため、元長は伊丹城を囲んだ。その隙に近江に逃げていた足利義晴が高国、六角氏、朝倉氏とともに入京。
一一月、京都西院で元長チームと義晴チームが戦い、朝倉軍が多数討たれた。劣勢の高国は、元長と柳本賢治の関係を悪化させる作戦。元長と和睦するように見せかけた。これに柳本賢治や波多野稙通が反応してしまう。
■大永八年(一五二八)
正月、柳本賢治と波多野稙通は、堺にいる晴元に元長のことを訴えた。晴元はこれを信じて、元長を警戒するようになる。しかし高国の狙いにもかかわらず、京都の元長が撤退はしなかったし、和睦工作も失敗している。
五月、高国は近江の永源寺へ、義晴は同じく近江の朽木谷に逃げた。
p41
八月、柳本賢治との対立が深まったので、元長は堺から合わせてへ帰国した。畿内の阿波衆は、之長の甥の政長がひきいることになった。
■享禄三年(一五三〇)
高国はあちこちの勢力に対し、上洛して味方になってくれと要請した。のってきたのが備前三石の浦上村宗である。播磨、備前、美作三ヵ国守護であった赤松氏の宿老である。
六月、村宗は、高国を擁して東播磨へ進出。ちょうど三木城にいた柳本賢治を暗殺した。さらに七月にかけて、播磨をほぼ支配した。
八月、上洛を目ざす高国は、村宗軍をひきいて摂津に入り、先鋒が神呪寺(かんのうじ。西宮市甲山)に達した。
p42
九月、元長を欠く晴元チームの薬師寺国盛が守る富松城が落城。
一一月、高国チームの内藤彦七が丹波から応援に。薬師寺国盛は大物城を明け渡した。
■享禄四年(一五三一)
二月、伊丹城。三月には池田城落城。摂津の大半が高国チームのものになった。さらに池田城落城を受け、京都を守っていた木沢長政は姿を消した。高国はついに京都にカムバックした。もはや晴元は追放した元長だけが頼りだった。
元長は再三の渡海要請を得たのち、二月、堺に渡っていた。以後、元長は晴元チームの主力として、高国チームと戦う。
三月、高国チームの主力浦上村宗は摂津の欠郡(西成、東生(ひがしなり)、住吉、百済の神崎川以南の四郡)に侵攻、先頭は住吉郡勝間に布陣。晴元チームはこれを受け、天王寺店木津あたりまで押し返し、向かいあった。高国チームは西成郡一帯に軍を展開。
高国は欠郡浦江に本陣。
浦上村宗は野田・福島に本陣。
それに対して元長は、細川持隆からあずかった兵の多くを堺警護、すなわち義維・晴元を守ることにあてた。二ヶ月ほどにらみ合う。
閏五月、元長チームが動いた。
元長は沢の口・遠里小野(おりおの)に。
三好之長の弟一秀が阿波軍をひきいて我孫子・苅田・堀に。
香川中務丞(なかつかさのじょう)は木津口など住吉郡に。
西成郡の高国チームと矢戦をくり返しはじめた。
攻防のなか、高国チームの主力浦上村宗の後詰め(神呪寺付近に布陣)に赤松政村がいた。政村の父義村は播磨守護だったとき、浦上村宗と対立し、村宗に殺されている。
六月四日、元長が優勢になった。元長は、機を逃さない。一気に攻めた。後退した高国勢は、浦江から野里へかかったとき、赤松政村軍に攻められ、中津川で多くの兵を死なせた。浦上村宗も行方不明。高国は大物城をめざしたが、たどりつけず、町家に隠れていたところを捕まった。
p43
六月八日、高国は尼崎広徳寺で切腹させられた。高国の死亡にいたる戦いを大物崩れという。

p43
五、細川晴元との対立、一向一揆の蜂起

元長は、高国を倒して、堺公方権力の中心に再び立った。当然これは嫉妬を生む。足の引っ張り合いがまた始まった。元長に対抗できるのは木沢長政である。晴元は長政に肩入れする。長政に期待が集まる。これは長政の主人である河内守護畠山義堯(よしたか)との対立を生む。
八月、河内国内は守護畠山義堯(よしたか)と守護代木沢長政との間で分裂抗争。晴元は長政を支持し、畠山義堯が晴元の姉と婚姻関係だったのに、長政に援軍を送っている。守護細川持隆は一貫して元長の味方で、義維・晴元チームの分裂は一触即発。
阿波と摂津の対立である。
阿波…足利義維、細川持隆、三好元長、三好一秀
摂津…細川晴元、木沢長政、茨木長隆、三好政長

p44
■享禄五年(一五三二)
正月、元長は、先に播磨三木城で死亡した柳本賢治の息神二郎が籠もる京都三条の城を攻めた。柳本賢治は先に晴元から追放された原因の人物だったからである。
一月二二日、三木城落城。神二郎落命(『実隆公記』『言継卿記』など)。晴元に断りなく戦ったため、元長は堺顕本寺に籠もり、剃髪して開運と称し、謹慎した(『二水記』)。晴元は許さなかった。元長に味方する細川持隆が説得を試みるが、失敗。
三月、持隆は阿波勝瑞城へ帰国した。持隆は晴元と義絶したとされる。元長は、晴元との対決を避けられなくなった。そこで畠山義堯・波多野稙通との連携を強化した。晴元も、堺公方足利義維と手を切り、近江に逃げている足利義晴と結ぶことに決めた。室町幕府の再建といえる。義晴にしても、高国亡き後の管領候補者として晴元くらいしかいなかった。
p45
五月、元長チームの畠山義堯は三好一秀とともに飯森山城に籠もる晴元チームの木沢長政を攻撃し、落城寸前だった。しかし大逆転が起こった。本願寺である。茨木長隆のはたらきかけで、本願寺は摂津店河内・和泉の一向一揆を動かした。
五月一五日、坊官下間(しもつま)氏のもと、三万人が飯森山城に向かった。畠山義堯・三好一秀、討ち死に。次の一揆の攻撃対象は元長である。堺を襲う一揆勢力は一〇万人に増えていた(『細川両家記』)。
五月一九日、顕本寺を取り囲まれ、元長自害。堺幕府は滅亡した。

p46〈三好長慶の阿波国支配〉出水康生
p46
天皇が存在する京畿を「天下」とし、最初の「戦国天下人」三好長慶。
三好長慶は、天王寺合戦(大物崩れ、一五三一)、「堺幕府」の崩壊(一五三二)の後に、曽祖父三好之長、父三好元長ら父祖の京畿での事績を継ぎながら、細川晴元政権の下で一七年にわたって雌伏。その間に、阿波、讃岐、淡路の本拠と連携して、京畿に独自の支配体制をつくった。
■(一五四九)江口の戦いで晴元政権を崩壊させる。
■(一五五三)将軍足利義輝を近江に追放し、「戦国天下人」としての三好政権をつくった。

p68【第二章】三好長慶と摂津・河内
p124【第三章】三好長慶と室町幕府
p208【第四章】宗教
p248【第五章】教養

p294【付録】年譜
■大永二年(一五二二)長慶一歳
二月一三日、三好元長の嫡男として誕生。この年、千利休が生まれる。
■享禄四年(一五三一)長慶一〇歳
二月二一日、三好元長が阿波より堺に出陣。
六月四日、元長が摂津天王寺で細川高国を破る。
■天文元年(一五三二)長慶一一歳
六月二一日、三好元長が一向一揆に攻められ、堺の顕本寺で自害。
八月九日、(長慶は)三好実休と共に阿波の見性寺に寄進。
■天文二年(一五三三)長慶一二歳
六月二〇日、細川晴元と本願寺証如の和睦を斡旋。
九月について三日、河原林(瓦林)氏を破り摂津の越水城を攻略。
■天文五年(一五三六)長慶一五歳
一一月一九日、細川晴元を招宴。
■天文八年(一五三九)長慶一八歳
一月一四日、上洛し細川晴元を招宴。
六月二日、大館尚氏が長慶所望の河内一七カ所の代官職の裁許を将軍義晴に上申。
六月一四日、母が死去。
閏六月一日、晴元を討とうとする。※ごねたとき
七月二一日、摂津越水城を攻略。※奪われ奪い返す?
七月二八日、六角定頼の調停により撤兵。
■天文九年(一五四〇)長慶一九歳
一二月一五日、波多野秀忠の娘と結婚する。
※父元長の仇、木沢長政、三好政長、細川晴元をこれから討つ。

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