『松永弾正 上』戸部新十郎 安土編資料

p76(『松永弾正 上』)
三好元長は、足利義維と細川晴元を擁して阿波から乗りこみ、将軍義晴を追い、管領細川高国を討ち、堺幕府といってもいい一勢力を作った実力者である。義維はすでに将軍宣下を待つだけの地位にあり、晴元は管領の職を得て、細川宗家代々の権威を回復している。
すべて元長の尽力によるものだが、主人晴元にうとまれている。恩義は忘れたいのが人情か。まして主人にまさる実力の持ち主である。さらに、元長の叔父三好宗三政長や河内の有力者木沢長政などが晴元に取り入り、しきりに元長のことを讒言し、排除しようとしている。
p77
元長は筋目を重んずる。主人晴元に抗弁もせず、じっと政所にこもって謹慎している。政所とは、堺海船浜に建てられた三好家の館をさす。
先代之長のころから、そこを畿内の本拠とし、本国阿波との連絡を密にして制海権を握り、尼崎や岸和田ほか、各支城との連携を保ちながら、中央政局とかかわってきた。
晴元が元長の討伐を実行できないのは、晴元直率の兵が少ないこと、元長がしおらしく謹慎していること。それが理由だった。
※つまり元長の命が消えるのは時間の問題である。わかっていても元長は筋目を通し、主人を裏切ることはしない。(『松永弾正 上』)

p269(『松永弾正 上』)
「なるほど、扱い(和議)に見えられたか。そのしだいはいかがか」
「なにも。円満に兵を引き揚げること」
「敵が追わぬと約束すれば、それは出来る」
「だから、石山へ参るのです。追わねば引く、引けば追わぬ、これでいかがです」
「いかにも」
紅潮が引いた顔で宗三がうなずいた。一座に安堵のざわめきが起こった。
p273
挨拶もそこそこに本願寺家宰、下間上野介頼慶が切り出した。
「およその話はうかがっています。それでどうなりました」
「追わねば引き退る、と申しています」
「おかしいですね、自分から攻めかかっておいて」
頼慶は大口をあけて笑った。僧でなく、武士の豪快な笑いだった。が、
「承引しました」
と、きっぱりいった。
「ただし、このたびだけでありますよ。小西さまのおとりなしによりますが、われらが新門主(証如)の三好家若棟梁に対するはなむけとご承知願いたく」
範長(長慶)への若者同士のはなむけだといっている。そして、それでよかった。
「忝のうござる」
久秀が一礼すると、正面の証如がこっくりと、うなずいた。
p275
本願寺の記録には、
「六月二日、三好千熊に扱いをまかせ、敵方ことごとく敗軍す」
とある。
※石山本願寺を包囲し、さらに一向一揆衆に包囲され動けなくなっていた細川晴元(三好政長、木沢長政)を「敗軍」と表現している。(『松永弾正 上』)
***
下間上野介頼慶 本願寺第9世法主実如に仕え、永正3年(1506年)に摂津・河内の門徒が実如の異母弟実賢を擁立して法主交替を求めた事件(河内国錯乱)では実如の命令で実賢・実順・実従らを捕らえた。実如から孫の10世法主証如の補佐を命ぜられたが、享禄・天文の乱に際して甥の下間頼秀・頼盛兄弟との確執から本願寺を退去、天文4年(1535年)に証如が敵対していた細川晴元と和平を結び、主戦派として失脚した頼秀・頼盛兄弟に代わって本願寺へ帰参、和睦の使者として晴元の元へ赴き、幕府領の違乱を働く門徒の抑制と諸大名の外交に務めた。Wikipedia
■天文五年(一五三六)長慶一五歳(『松永弾正 上』)
p285(『松永弾正 上』)
少年範長が入洛してきた。(略)
『鹿苑日録』は、
「一一月一九日、公事無為を賀し、右京兆(晴元)へ三好千熊、一献いたす。猿楽あるなり」
としるす。
***
鹿苑日録(ろくおんにちろく)
京都相国寺の塔頭 (たっちゅう) 鹿苑院の僧録司の代々の日記を中心に、文書案、詩集の断簡を加えて編集した記録集。長享1 (1487) ~慶安4 (1651) 年の記録。著者は景徐周麟、梅叔 (ばいしゅく) 法霖、西笑承兌 (しょうたい) 、有節瑞保 (ずいほう) 、昕叔顕たく (きんしゃくけんたく) など。僧録司は禅宗寺院を管理し、室町幕府から初期の江戸幕府までの政治顧問的地位にあったのでその日記は、五山僧固有の文化はもとより外交、政治、世情の貴重な情報に富んでいる。原本は一部分を除いて関東大震災で焼失。kotobank

■天文八年(一五三九)長慶一八歳 のはず…
p301(『松永弾正 上』)
飽きがくれば平気で退け、別人に乗り換える。無力な権威者の出来ることといえば、実力者たちを互いに競わせ、操ることだけである。
(略)
阿波軍団は天下第一の強さに成長していた。範長の「十五乗り出し」以来三年、ひたすら国力の増強につとめてきたからだ。概略は、三国統合で見られる。
一、範長長弟の義賢は、勝瑞城の細川持隆の守護代として、事実上、阿波を支配する。
二、次弟冬康は、淡路の安宅氏を継ぎ、有力水軍ともども、淡路を支配する。
三、三弟一存は、讃岐十河氏を継ぎ、讃岐と武士団を支配する。
p309
「このさい、十七箇所を返していただきましょう」
「すると、どうなる」
範長は小首をかしげた。
「さあ、どうなりますか」
久秀も確とした見通しがあるわけではない。
「京兆家はいやと申すにちがいない」
「でありましょう。が、いったん口に出したからには、引き退ってはなりません」
「いかがするのか」
「幕府に訴え出ましょう。あとはその結果しだいです」
「京兆家は怒るであろうな」
「はい」
「宗三政長どのも」
「たぶん」
「いくさになるかもしれぬな」
「はい。その覚悟をおもちでないといけません」
範長は、ちらと笑みを浮かべてうなずいた。
***
河内十七箇所(かわちじゅうななかしょ)は、鎌倉時代から江戸時代初期に河内国茨田郡西部(現在の寝屋川市西部、門真市、守口市、大阪市鶴見区中・東部)に存在した17箇所の荘園(後、惣村)群のこと。単に十七ケとも言う。
文明15年(1483年):応仁の乱後も河内を巡り争った畠山義就と畠山政長が十七箇所で戦い、義就方が犬田城の戦いで政長方に勝利、十七箇所の領有を確定させた。後に三好氏の同族争いの場ともなり、南北朝時代まで続いた河内の荘園体制が崩壊、十七箇所は自治的な惣村制に移行。やがて十七箇所の西側にある榎並荘に榎並城(十七箇所城)が現れ、この付近一帯の一大拠点となる。Wikipedia

p311(『松永弾正 上』)
招宴は京三好邸で一月二五日に催された。記録には、
「細川殿へ三好一献申し、それにつき観世能あり。小二郎仕り候よし」
とある。観世小二郎の演能もおこなわれたのだ。
範長 申しあげたきことの候。
晴元 なんであろうやら。
範長 旧地でござれば、河内十七箇所の支配をおまかせいただきたいのです。
とっさにはわかりかねた晴元だったが、やがて顔色をかえた。
晴元 幕府御料所でもあり、代官(三好宗三政長)もいることであれば。
範長 そうですか。
にこにこして範長はうなずいた。
ひさひではすかさず、範長の名をもって、幕府に訴え出た。
まもなく、幕府の内談衆を代表して大館尚氏が、将軍義晴に対し、
「河内十七箇所、御代官職こと、三好懇望をもって、仰せつけられ候こと、しかるべしと存じ候」
と答申した。正当な要求と認めたのである。
といって、ことは円滑に進まなかった。幕府の意向に三好宗三政長は激怒し、京を脱して丹波に引きこもった。そして軍をひきいて、嵯峨あたりまで進出してきた。晴元がひそかに助けただろう。
これも予想されたこと。ひといくさはさけられないが、範長と宗三の戦いですむまい。いずれ宗三のひいきをする晴元との争いになるのが必然だ。
晴元はあわてていた。事態を近江守護、六角定頼に伝える。管領に準ずる家格の幕府実力者であり、晴元の岳父(舅)である。
p312
六角家の歴史
p313
定頼、幕府に出兵を上申。
「同名中、争論の儀これあるにつき」
幕府、有力者たち(池田信正、伊丹親興、三宅国盛、芥川豊後守、柳本元俊、木沢長政)に出兵要請。
p314
有力者たちは一枚岩ではない。範長方はあわてない。ゆるゆる摂津島上郡あたりに布陣。先陣は例によって松永長頼。勇敢、木強(ぼっきょう。かざりけがなく一徹であること。)、ひとりでに兵はなつき、いまでは他家にも知られる武将の一人。
久秀は範長のそばにいる。右筆であり、秘書であり、内政上の雑務にたずさわる。これほど、
〈内の者〉
の俗称がふさわしい男はいなかった。
p315
久秀 本願寺に挨拶しておきましょう。
p316
やがて、石山本願寺の証如から、範長の陣所へ酒饌(酒と食べ物。 酒肴(しゅこう))が届けられた。久秀が本願寺家宰、下間頼玄に依頼したのだ。行装はものものしく、五色の旗をなびかせ、僧俗三〇名ばかりがついていた。
こんな噂は早い。本願寺からの陣中見舞いは、一向一揆の味方を意味する。幕府が声をかけた力にならない有力者たち(前出)。それにたいして、範長方は不気味な勢いをもって応じたということだ。
晴元は緊張し、高雄に退いた。将軍義晴も、晴元が退いたことに驚いて、夫人と子の義輝を八瀬へ避難させた。そして、越前朝倉、若狭武田、能登畠山らへ、急ぎの出兵を要求し、六角定頼に命じて範長と宗三の和議を急がせた。
p317
定頼から、しきりに和議の催促がきた。聞かねば兵を出すだろう。また、朝倉・武田らも上京してくるかもしれない。そうなれば、消極的な摂津・河内の有力者たちも動かねばならないし、敵の宗三政長が勢いを盛りかえす。ちょっと範長陣営はあわてた。
落ちついていたのは、久秀ばかりだ。
久秀 とりあえず、京へ戻りましょう。
範長 和議を受けるのか。
久秀 まだまだ。
範長 では、どうなる。
久秀 どうなるかわかりません。ただし、このまま和議にするのは、いかにも口惜しいことです。
範長 そのとおりである。が、四方の敵を受けねばならぬ。
久秀 そのようにはなりません。かつて朝倉・武田が軍をすすめたことはありましたか。近江六角にしたところで、出兵してもほんの少しです。まあ、ここは我慢くらべです。
範長 わかった。
じつはなにもわからない。が、いつものように、範長は久秀の進言をいれ、摂津から京へ引き返した。
p318
三好邸を中心に仁を構えてすぐ、将軍義晴から御内書が下った。
※京都の警護を命じられる。その上で、宗三政長と和議。範長は越水城に帰還。

p320(『松永弾正 上』)
天文九年(一五四〇)
初夏、丹波の波多野備前守の娘を、範長に配する話が進んだ。丹波の内藤攻めで、備前守が範長を気に入って、このたび晴元を通じて正式に申し入れたのだ。
※丹波の波多野氏について
稙通
弟元盛、香西氏
末弟柳本賢治
備前守は稙通の子で、名は秀忠
娘は、この年一四歳。みつ。
p322
範長 みながいいというのであれば、納れよう。
いつもと変わらない表情のなかに、ふとした心のゆらめきを感じとった者が二人いた。
一人は、篠原長政。
本国阿波 細川持隆→長慶長弟の義賢→義賢を補佐して篠原大和守長房が三好家の総家宰。
問題はあった。義賢は実権者だが、立場は勝瑞城にいる守護細川持隆の家老。立場が義賢より上の人間が二人いた、ということだ。
一人はもちろん守護持隆。もう一人は義冬だ。むかし、持隆は、将軍義晴の弟義冬を阿波に迎えた。前名は義維。カムバック将軍義材(第一〇代将軍。当時、義稙)の養子になった。従五位下、左馬頭に叙せられ、将軍になることを約束されたが、政局の変化がそれを許さず、三好元長に擁立されて堺に住んだ。
元長の非業の死のとき、自らも自害しかけたものの、淡路へ逃れて失意の日々を送っていた。持隆はこの義冬を、阿波平島荘に招いた。
これを世間では、
〈平島公方〉
とよんだ。
のち、その子義栄は一四代将軍になり、政局の核になる。
話を戻す。形式的には義賢の上の人間として、将軍候補の義冬がおり、守護持隆がいる。律儀が売りの三好家としては、ないがしろにできない。実権をふるうためには、どうしても、篠原父子の力が必要だった。
さて、結婚する範長の心のゆらめきを感じたもう一人は、もちろん久秀である。
範長が退出したあと、なんとなく二人がその場に残った。
※〈ふよ〉の件。戦国篇・肆に採用?不採用?
p329
今参局と日野富子と足利義政
〈ふよ〉と〈みつ〉と範長
〈添臥〉という乳母の習慣
採用?不採用?
p332
「いずれにせよ、長房さんいう方は、ふよさんをお今の方のようにしとうないのどすやろ。つまり、若さんとふよさんを、離したがっていますのやな」
p335
この年一一月、範長は波多野家の娘を納れて、室とする。そしてまもなく筑前守を名のり、
〈長慶〉
と名をあらためる。
p337 筑前守長慶(『松永弾正 上』)
■天文一〇年(一五四一)
p343
木沢長政は討ち死に ※p337より詳細

以下後日

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