『なぜ世界は存在しないのか』マルクス・ガブリエル
一九八〇年生まれ。世界の最先端を走るドイツ哲学界の新星のベストセラー。ついに日本語版が登場。
p8
わたしたちは、世界というひとつの巨大な容れ物のなかにある素粒子の集積にすぎないのでしょうか。
それとも、わたしたちの思考・願望・希望には、それぞれに特有の実在性があるのでしょうか。
p9
ポストモダンは、人類救済の壮大な約束(宗教から近代科学を経て、左右両翼にわたる全体主義のあまりに急進的な政治理念にいたるまで)のすべてが反故になった。その後で、徹底的にはじめからやり直す試みだった。ポストモダンは伝統からの断絶を徹底しようとした。すなわち、人生には意味があるという幻想から、わたしたちを解放しようとした。しかし、じっさいには新しい幻想を生み出した。とりわけ、わたしたちは個々自らの幻想にいわば嵌まり込んでしまっている、という幻想を生み出した。ポストモダンは、わたしたちにこう信じこませようとした。
「前史時代からずっと人類は巨大な集団幻覚(形而上学)の虜になっている」。
p11
構築主義
事実それ自体など存在しない。わたしたちが、わたしたち自身の重層的な言説ないし科学的な方法によって、すべての事実を構築している。
代表は、イマヌエル・カント。カントの主張は、「それ自体として存在している世界は、わたしたちには認識できない」。「認識されるものは何らかの人間の作為を加えられている」。
例は、色彩。遅くともガリレオ・ガリレイとアイザック・ニュートン以降、色彩は現実には存在していないのではないかと疑われてきた。色彩とは、視覚器官に届いた光の特定波長。世界は本来まったく無色。まさにこのようなテーゼが形而上学(哲学)。このテーゼが主張しているのは、世界はわたしたちに現れているのとは違った存在だ、ということだから。※目に見えるものが正しいとは限らない。
p12
すべての人間が緑色の眼鏡をかけているとしたら、見ている対象が緑色であると判断するしかない。
構築主義は、カントの「緑色の眼鏡」を信じている。加えてポストモダンは、わたしたちがかけている眼鏡は数多くあるのだとした。科学、政治、恋愛や文学などの言語ゲーム、多様な自然言語、さまざまな社会慣習、等々。
p13
人間の存在と認識は集団幻覚ではない。
わたしたちが何らかのイメージ世界ないし概念システムに嵌まり込んでいて、その背後に現実の世界がある、ということでもない。
むしろ新しい実在論の出発点となるのは、「それ自体として存在している世界をわたしたちは認識している」ということ。
新しい実在論p13
三人が一つの山を見ている。実在は?
一、形而上学 山一つ
二、構築主義(ポストモダン)観察者三つ
三、新しい実在論 山一つと観察者三つ
p20
個々の小世界だけが存在している。それらすべてを包摂する一つの世界は存在していない。いっさいのものがほかのすべてと関連しているというのは、間違い。不可能でさえある。
無以下p22
世界公式
形而上学 ミレトスのタレス、カール・マルクス、スティーブン・ホーキング。
構築主義 そんな公式を認識することは不可能。どんな幻想を妥当としたいのか、合意に達するべくつとめている。
新しい実在論 ※後日