『三好長慶(『妖雲』改題)』徳永真一郎 p153~(5)

p153

長慶は、ついに宿敵の三好政長を倒し、管領晴元の束縛からも逃れる糸口をつかんだ。長慶は顕本寺で自害した父元長のことを思っただろう。

晴元は、六月二四日の深夜に三宅城を抜けだし、嵯峨野のある寺で京の将軍家と連絡をとった。形勢不利と見た晴元は、将軍義輝と、その父義晴をつれて京を脱出し、近江の東坂本へ走り、常在寺へ避難した。

p156

七月九日、長慶は摂津、河内、四国の二万の大軍をひきいて京に入った。当然、細川氏綱もともなっていた。

七月一五日、長慶は、松永久秀に一万の軍をあずけて、自分は越水城にひきあげた。

■天文一九年()

三月、晴元が舅の六角定頼に頼んでいた如意岳の城が完成した。如意岳は、慈照寺(銀閣)の上にあたる。晴元は、前将軍義晴と、現将軍義輝を入城させようとしたが、途中で義晴が病に倒れた。晴元はしかたなく、比叡辻の宝泉寺にとどまり、治療につとめた。

義晴 よく聞け、義輝よ。わしは二五年、将軍だったが、前半は細川高国の飾りもの。そして後半は晴元の飾りものよ。戦争のたびに近江や丹波に逃れ、心の安まることがなかった。よいか、義輝、管領にたよらず、政治は自分でおこなえよ。

五月一四日、義晴は死んだ。享年四〇。

子の義輝は、このときわずか一五歳。父の四十九日をすませると管領晴元に言った。

義輝 そなたから六角に頼み、いま、都にいる三好長慶の軍を追い払ってもらいたい。必要ならば、わしが戦場に立ち、采配をふるってもよい。

義輝は、如意岳の新城に入った。のちに将軍地蔵山と称される中尾城である。将軍自ら戦う姿勢をしめしたのだ。

一一月、長慶は、この中尾城を攻めるために京に入ってきた。結果は長慶の圧勝。将軍義輝の軍は、たいした抵抗もせずに城を捨てて、近江へ逃げこんだ。それから六角義賢の意見で、朽木谷へ移り、放浪将軍となった。前将軍である父義晴と同じように。

こうして三好長慶は、事実上の天下人となって都に平穏な日々がおとずれた。

■天文二〇年(一五五一)

幕府の実務は、政所執事の伊勢貞孝がとづており、長慶との関係もうまくいっていた。そこにとんでもない事件が起こる。

三月一四日、伊勢貞孝の館に招かれていた長慶が暗殺されかけたのだ。公方衆の進士賢光という男が宴席でいきなり斬りかかったのだ。さいわいケガだけで済んだ。貞孝は長慶の前で平伏した。

長慶 そなたの責任ではない。あの者が、個人的に、わしを恨んでおったのであろう。

貞孝はこののち、長慶に誠心誠意仕えた。

p163

■天文二一年()

正月二日、

年賀の挨拶に出むいてきた六角義賢に、晴元が愚痴った。

p173 傀儡将軍9/17

p193 尾張の黒雲10/17

p210 亀裂11/17

p235 鬼十河の死12/17

p255 弾正の野心13/17

p269 陰謀の渦14/17

p289 専横15/17

p311 凋落への道16/17

p334 悪魔の宴17/17

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