『三好長慶(『妖雲』改題)』徳永真一郎 p134~(4)

p134

■天文一七年(一五四八)

負けそうな管領晴元は必死だった。細川氏綱に味方した摂津国衆池田信正に切腹を命じた。三好政長が、信正は娘婿だったので命乞いしたが許されなかった。しかし、信正の遺児太松に、家督を継ぐことは許した。太松は成人して長正と名のり、のちに長慶の有力武将の一人になる。

信正の切腹後、三好政長は、池田家に断りなく、池田家の財宝を勝手に処分した。それを聞いた長慶は激怒した。

長慶 三好政長は、娘婿の池田家の財宝を自分のものにするために、管領の晴元さまをそそのかし、信正を切腹させたとしか思えぬわっ。財宝の一部は晴元さまの懐ろにも入ったというが、それでは晴元さまも、政長も、強盗と同じではないかっ。

長慶の声は晴元にも届いた。晴元は三好政長を呼び、長慶の追放を命じた。長慶と政長の反目がはじまった。池田城内は、長慶派と政長派に割れた。

p136

■天文一七年(一五四八)

八月一一日、長慶派の若手家臣団は、政長派の家臣団を一日で池田城から追いだした。

そのころ、三好政長の本拠は河内の榎並城であった。城主は、政長の子政勝であった。人望があったようで、長慶の弟十河一存などは、同じ三好一門ということもあり、政勝と親しくつきあっていた。それを知りながら、長慶は言った。

長慶 一存、おぬし、榎並城を攻めてはくれまいか。

一存 承知した。しかし、昨日の友を今日は攻めねばならぬとは、まことに情けない。

長慶 すまぬ。だが一存、政勝の父政長は、われら兄弟にとって、父元長の仇敵であることを、けっして忘れてくれるな。そして、もう一つ。政長の讒言により管領晴元が、父を殺したことを。

一存は、長慶の末弟であったが、後年、世に鬼十河といわれるほどの豪勇の武将となる。

p138 天下を睥睨8/17

■天文一七年(一五四八)

長慶 わしは決心した。わが父元長は、三好政長に讒言されて、管領晴元により切腹に追いこまれた。しかし、代々、三好家は、細川家の恩があるから、今日まで真の仇と知りながらも、忠を尽くしてきた。しかし! 管領どのは、三好政長や河原林対馬守の手をかりて、この長慶を殺そうとしている。

集まっていた十河一存や、重臣たちがざわついた。

長慶 よいか。榎並城を攻めて政長父子をほろぼしたら、わしは晴元どのの敵となる。細川氏綱どのに味方して、氏綱どのに、前管領高国の跡目を継がせてやりたい。そして、晴元の一味である公方さまも見かぎって、阿波御所の義栄さま(義維の嫡男)を将軍にたてまつるつもりじゃ。

松永久秀 よくぞ、ご決心なされました。

長慶のいまの発言はすでに久秀と話して決めていたものだった。が、これまで、畠山政国や遊佐長教らと争い、決意を固めるまでにいたらなかった。彼らと和議を結んだとき、畠山政国は条件をつけた。遊佐長教の娘おりくを妻として押しつけた。『続応仁後期』によれば、波多野氏の娘は不縁の子細があり、すでに離別していて、長教の娘とは再婚だといっている。

八月、まずは、十河一存が総大将となって、政長父子のいる榎並城を攻めた。戦いの始まりである。
■天文一八年(一五四九)
三好政長を打倒する年である。
味方は次の通り。
まず舅である河内の遊佐長教。
摂津では、三宅、芥川、入江、茨木、安威、池田、原田、河原林など。
西岡では、鶏冠手(かいで)、物集女(もずめ)。
丹波では、内藤。
播磨では、衣笠。
和泉では、松浦肥前守。
そして、阿波、讃岐、淡路の国衆。
p142
一月一五日、遊佐長教は自ら河内衆五千騎をひきいて、摂津の闕郡に出陣した。
そのころ、管領晴元は、細川晴堅の館である中島城まで出張ってきていた。柴島(くにしま)城からは三好政長が出向いてきている。
晴元 長慶を倒せっ!
政長 老体にむち打ち、最期の花を咲かせてみせましょう。管領さまのお力添えを願いまする。
晴元 うむ、見殺しにはせぬぞ。
管領晴元に軍を動かす力はない。頭に浮かんだのは、舅である近江守護の六角定頼の顔であった。定頼は、一二代将軍義晴を援助して、管領に準ずる待遇を受けていた。
六角定頼 わかりました。わが縁につながる泉州の岸和田兵衛大夫(ひょうえだゆう)をはじめ、根来衆や紀州の国衆にも出陣させましょう。
p144
二月中ごろ、三好長慶チームと三好政長チームが、摂津の各地で、放火をくり返す前哨戦をやっていた。当時の戦争は、敵を皆殺しにするようなことは、できるだけしなかった。兵には農民が多い。彼らを殺せば、占領後に、農業ができなくなる。
放火で相手が逃げなければ、最後は城の攻防戦になる。長慶の敵の城は次の通り。
中島城 管領晴元
柴島城 三好政長
榎並城 三好政勝
三月一日、長慶チームは、管領晴元の中島城をおそった。晴元はひとたまりもなく、三好政勝が守る榎並城へと逃げた。
p147
六月、戦争ははげしさを増していた。
長慶は占領した中島城を本拠にしていた。三好政長は榎並城を出て、中島城にほど近い江口に陣をかまえた。一万の大軍をひきいて近江を出た六角定頼の子義賢を待つつもりだった。しかし義賢軍は山崎を通って淀川まで来たとき、増水のため川を渡れなかった。そこを長慶の弟たち、十河一存と安宅冬康が奇襲した。近江軍は江口に近づけないし、三好政長軍は食べるものさえ少なくなってきた。
長慶は中島城で軍議をひらいた。おおかたの武将は、江口を攻めようという意見だった。
十河一存 反対じゃ。それより、いま三宅城にいる管領晴元を討ちとり、敵がひるんだ隙に、江口を攻めればよい。
長慶 ちょっと待て。まずは政長の首を打つのが、この戦の目的じゃ。それを、まっ先に晴元公を討つというのは、わしの中に抵抗がある。
十河一存 兄者、それは甘い。そんな気弱なことでは、天下人への道は遠いですぞ。
長慶 わしには、晴元公を倒せという命令はできぬ。あとは、おぬしの判断しだいだ。
兄の気持ちは、十河一存にはよくわかっていた。翌日、一存は手勢三百で三宅城を攻めた。が、晴元を討ちとるまでにはいたらなかった。一存はもどって兄に謝った。
十河一存 兄者、勝手な行動をとってすまぬ。
長慶 なんの。わしとて、気持ちはお前と同じよ。だが、なんといっても、いまはその時機ではない。
長慶のこのやさしさが、のちのちまで、弟たちを協力させる。一存は、兄のために奮戦し、江口の城は落ちた。
六月二四日、三好政長は河内の名も知られぬ足軽たちに首をあげられたという。享年四二。
p153

201804ここまで

p169

・細川氏綱(ほそかわうじつな)は、戦国時代後期の武将で、室町幕府第35代にして最後の管領。 摂津守護。第18代細川京兆家当主。細川尹賢の子で、父の盟友でもあった細川高国の養子。
・足利義晴(あしかがよしはる)は、室町時代後期(戦国時代)の室町幕府第12代将軍(在職:1521 年 – 1546年)。第11代将軍足利義澄の長男。母は日野永俊の娘で日野富子の姪とされる。
・足利 義輝(あしかが よしてる)は、室町時代後期(戦国時代)の室町幕府第13代征夷大将軍(在職:天文15年(1546年) – 永禄8年5月19日(1565年6月17日))。義晴の長男。
・足利 義維(あしかが よしつな)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての人物。室町幕府第11代将軍・足利義澄の次男(※実際には12代将軍・足利義晴より年長で長男とされる、後述参照)。第10代将軍・足利義稙の養子。第14代将軍・足利義栄の父。堺公方・平島公方と呼ばれた。改名亀王(幼名)→義賢(初名)→義維→義冬。
・足利 義栄(あしかが よしひで)は、戦国時代の室町幕府第14代将軍(在職:永禄11年(1568年)2月 – 9月)。天文7年(1538年)、足利義冬の長男として阿波国那賀郡平島の平島館で生まれる。生年は天文9年(1540年)説もある。初名は義親(よしちか)または義勝(よしかつ)。永禄8年5月19日(1565年6月17日)の永禄の変で従兄弟の13代将軍・足利義輝が三好三人衆と松永久通らに殺害されると、三人衆によって、中風で将軍の任に堪えられないであろうとされた父・義冬の代わりに、将軍候補として擁立された。

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