『三好長慶(『妖雲』改題)』徳永真一郎 p100~(3)

p100 ■大永元年(一五二一)

永正一八年が改元された。

三月、管領細川高国と不仲の将軍義材(このとき義稙だが、義材に統一)が都を脱出した。身の危険を感じたのだ。義材は、堺、淡路島から阿波へ逃げた。高国は追わなかった。流れ将軍などどうでもよかった。おかざり将軍を置いて、自分があやつればよいのだ。高国は、あれほど嫌っていた前将軍の子亀王丸に目をつけ、将軍にした。

■大永元年(一五二一)

一一月、義晴と名をあらためた亀王丸は、高国が加冠親となり元服した。そして一一歳で正式に第一二代足利将軍となった。

***Wikipedia畠山稙長
一方、尚順と結んだ義英が翌大永元年(1521年)に高屋城を攻撃するも稙長がこれを撃退。尚順は義稙を奉じ淡路において再起を図るも果たせないまま翌大永2年(1522年)に病没する。翌大永3年(1523年)に義稙も死去、ほぼ同じ時期に総州家においても義英に代わり畠山義堯が当主となり、敵がいなくなった高国政権は安泰となったが、尚順と義英の和睦で総州家の勢力と尾州家の尚順派の勢力が結びつくことにより、河内畠山氏の内訌が再発する。

***

■享禄元年(一五二八)

之長の孫にあたる三吉元長が、細川晴元とともに、上洛した。

***

p103 若獅子の奮迅6/17
■天文一〇年(一五四一)

長慶の名が畿内一円に知られるようになったのは、この年あたりからである。河内の実力者、飯盛城主木沢長政などは、
「天下を手中に入れた之長の血をひき、管領細川晴元(六郎)を世に出した元長の子だ、河内一七カ所の代官になったからには、なにをしでかすかわからない」(略)
長政自身が、蚕食好み。はじめ管領細川高国に属していたが、高国が晴元にほろぼされると、高国方の細川尹賢(これかた)をほろぼし、河内飯盛城主になった。これを、河内守護の畠山義宣がとりもどそうとすると、木沢長政は晴元に泣きついた。そして晴元の援助で、本願寺門徒衆とともに、義宣を攻め滅ぼし、河内高屋城をも奪おうとした。

そればかりではない。長慶の父元長は、堺南荘の顕本寺にいたが、これを攻め、自害に追いこんだのが、木沢長政だ。長慶にとっては、もっとも憎い仇敵の一人といってよい。
木沢長政はそののち大和の信貴山城主になる。※のちに三好長慶が飯盛城主になり、松永弾正久秀が信貴山城主になる。

■天文一一年(一五四二)

三月、木沢長政が信貴山城を出て、河内太平寺に陣をしいた。

いきさつは、こうだ。

木沢は、長慶を恐れ、とり除こうと考えた。味方の摂津一庫(ひとつくら)城主である塩川政年をけしかけた。

木沢長政 今のうちに何とかしないと、摂津は長慶のものになるだろう。まず管領晴元にそむけ。そうすれば、晴元は、長慶らに命令して、そなたを攻める。そこをわしが助けて、長慶をほろぼしてやる。

塩川はさからえない。まず縁者の伊丹親興と三宅国盛に加勢を頼み、管領晴元の本拠地芥川城を攻めようとした。晴元は、長慶と三好政長に命令して、一庫城を逆襲させた。そして塩川をあやつっているのが木沢長政だとわかると、大いに怒って山城の牢人衆までかき集め、晴元自身も、その年の暮れには、京都から芥川城に移り、陣頭指揮をとった。晴元は、本願寺証如光教に使者を送り、要請した。

「河内の門徒衆に、長政に味方しないよう命じてほしい」

のちの大阪城の地、石山本願寺に移っていた証如は、かねてから、木沢長政のずるいやり方がいやになっていた。

「承知した」

こうなると木沢長政の力は半分になる。長政は、河内守護代の遊佐長教に味方になってほしいと頼むが、思いどおりにならない。

遊佐長教 残念ながら、あなたに味方するわけにはまいらぬ。

逆に、木沢長政チームの河内守護畠山政国を追いだすいい機会だと考えて、三好長慶に使者を送った。

「三好どのと手を結びたい。そのために、まずは木沢長政のいいなりである河内守護畠山政国どのを高屋城から追いだす。そして、いま紀伊の根来寺にかくれている、政国どのの兄である前管領の畠山稙長さまをふたたび城主にお迎えしたい。助けていただけませんか」

p107

松永久秀 これは、お屋形さまにとって得になる話でござりまする。どうぞご承諾なされませ。

うなずくと、長慶は、他の重臣たちを見まわした。

篠原長房(三好家家老。長老格) 松永どのの言われるとおりかと。ときに、松永どの、たしかにおぬしはお屋形さまの守役で信頼されておる。しかし、分というものをわきまえていただきたい。おぬしはいつもいちばんに発言し、それを押し通そうとする。もう少し、われらが意見も聞いたうえで、お屋形さまに申しあげてはいかがか。まあ、年寄りのひがみと受けとられても結構。気になさるな。

久秀 おのおの方、すべては、この久秀の不徳のいたすところ、このとおり、お詫び申しあげる。

長慶 このとおり、久秀は、非をみなに詫びておる。わしは、久秀の才能は、わしなど遠くおよばぬと思っておる。それを見込んで、わが父(元長)が久秀を武士にし、わしの守役にしたのじゃ。みなで、久秀のさいかくをのばし、この長慶がために、働かせてやってほしい。頼む。

p110

遊佐長教 筑前守(長慶)どの、こたびは、ご加勢、お礼を申しあげる。

長慶 なんの、木沢長政は、わが父の仇敵でござれば、よいめぐり合わせと思い、駆けつけたのでござる。

遊佐長教 そう言っていただければありがたい。ところで、三好との、それがしのように、主人の首をすげかえるようなやり方を、どう思われますか。

長慶 けっして悪いことではないかと。稙長さまは、河内畠山家嫡流ですから、これをもとにもどすことは、正義と思いまする。

***Wikipedia畠山稙長
天文10年(1541年)、晴元や長教と仲違いした長政が反乱を起こすと、稙長は長教と和睦し弥九郎、在氏を追放し、湯川衆・熊野衆・根来寺・高野山などを糾合した3万という軍勢で高屋城を回復、畠山氏の当主に復帰した。孤立した長政は稙長・長教・三好長慶・三好政長によって討伐され、翌天文11年(1542年)の太平寺の戦いにおいて戦死した。長政の勢力の中核はかつての総州家の被官だった国人衆であったため、長政と共に総州家も実質的に滅亡したことになる。

***

越水城跡
兵庫県西宮市桜谷町9−7
夙川駅と西宮北口駅の間
現在は西宮市立大社小学校に案内看板・石碑が建っている。

***

p111

遊佐長教 安心いたした。畠山在氏(ありうじ)は、それがしを逆臣とののしり、木沢長政を頼って尼上城に逃げこまれた。

長慶 逆でござろう。長政を頼ったのではなく、長政自身がそそのかしたに決まっておりますよ。

遊佐長教の家は代々、河内畠山家の執事の家柄。三好家も阿波細川家の家宰の家柄。まったく似た立場である。このとき長慶二一歳。

長慶 はっきり言えば、木沢長政を成敗したい。いまより一〇年前わが父元長は、泉州の顕本寺で自害しましたが、このとき、腸を天井に投げつけたのは、管領晴元さまの不人情にではなく、ともに幕政をあずかる身でありながら、わが父を除こうとした木沢長政に対する恨みからでござった。それゆえ、わしのこの手で長政を捕らえ、首をはねたい。

遊佐長教 さぞ…さぞご無念でございましたでしょう。

遊佐長教は、長慶の手をしっかりとにぎりしめた。

三月一七日、三好長慶は木沢長政をほろぼした。(太平寺の戦い)

長慶は松永久秀に命じて、信貴山城を焼き払わせた。大和筒井(郡山)の筒井順昭が、木沢チームとして参加していたが、逃げた。松永久秀は、これにそなえて、大和南山城に布陣した。これは、さきざき、長慶の大和侵入のきっかけになる。

大和興福寺の多聞院の英俊という僧の言葉が残っている。「三好長慶は、おそろしい男よ。一〇年も天下を牛耳っていた木沢長政さまをほろぼし、この大和まで攻めとろうとしている」。英俊は、南円堂に一昼夜こもって、調伏の祈祷をしたという。

その後、長慶は摂津芥川城まできていた管領晴元に戦勝報告をした。心境は複雑。顕本寺において、長政に父元長を攻めさせたのは、ほかならぬ細川晴元(当時六郎)だったからである。

晴元 祝着至極。

そう言って、晴元は破顔した。

p115■天文一二年(一五四三)

ポルトガル船が種子島に漂流し、日本人がはじめて鉄砲を手にした。鉄砲にいちはやく注目したのが、甲斐の武田信玄と尾張の織田信長であったが、この年は、信玄は二三歳。晴信の名で新秋に勢力をのばしていた。信長は、吉法師と名のる一〇歳の少年。尾張西部の領主織田信秀のもと、家老平手政秀に傅育されていた。信長が鉄砲を手にして敵を撃つのが、一一年後の尾張村木城攻めのときであり、さらに二年後に、武田信玄が鉄砲を戦場にもちこむことになる。

話を天文一二年にもどす。足利将軍の力は、まったくなくなり、関東では、二九歳の北条氏康が氏綱の跡を継いで、相模を本拠に勢力をのばしていた。奥州では、伊達稙宗とその子晴宗が内乱を起こし、家督問題で荒れていた。梵天丸伊達政宗が生まれるのはまだ二四年さきである。西国の勇将毛利元就は四七歳。周防の大内義隆の力をかりて、出雲の尼子氏の侵略を防いでいた。

では、京都は?

この年、管領晴元に強力な競争者があらわれた。前管領細川高国のいとこ細川尹賢の嫡男氏綱だった。

氏綱 わしは高国の養子である。実子の稙国がいなくなったのだから、わしが細川宗家の後継者じゃ。

前年の暮れから、高国の属将たちに声をかけ、泉州槙尾寺(まきのおじ)を本拠として、和泉の玉井某が中心となり、紀伊の根来寺衆徒らも、この氏綱をかついでいた。
七月二五日、氏綱軍が堺を攻めた。堺の守将松浦興信(おきのぶ)はこれを一蹴。堺は管領細川家にとっては、金庫的役割をもった町。管領晴元の死活問題にもなりかねない。彼は、必死に細川氏綱を追い払おうとした。
八月、晴元は長慶を呼びだした。
晴元 長慶、そちを男と見こんで頼みたい。堺をねらう氏綱の一党玉井衆を追いだしてもらいたい。
長慶は出陣して、玉井衆を破った。氏綱は和泉に敗走。長慶は数年後に、この氏綱と深いかかわりを持つことになるとは、思っていなかった。
p118■天文一四年(一五四五)

三年前(天文一一年)には嫡男孫次郎のできた長慶だったが、七月二四日に、丹波へ出陣した。三好長慶の舅である波多野秀忠に頼まれたからだ。細川氏綱に味方する旧高国チームの武士たちが、各地で反乱しはじめ、京のとなりにある丹波でも旧高国チームの内藤顕勝(あきかつ)が、晴元チームの波多野秀忠を攻めたのだ。

長慶は内藤の関城を攻め、わずか二日で落とした。

p121 瑞兆7/17

八月、長慶が丹波から凱旋して越水城にもどり、一月ほどたった。

p123
長慶 このごろ河内の遊佐どのが、いやに威勢よくなってきた。木沢長政を倒してからは、遊佐どのの勢力が和泉までのび、われらが守護する堺までねらっていると聞く。久秀、どう思う。
松永久秀 堺衆は、之長さまの代から三好家とは深いつながりです。裏切ることはないでしょうが、なにか手は打っておくべきかと。
長慶 遊佐どのもおかしな人よ。かつては木沢長政に通じていたといって、高屋城から畠山政国を追いだし、紀伊から畠山稙長を迎えながら、今度はその稙長が死んだといって、ふたたび、政国を高屋城に迎えたというではないか。
久秀 うわさですが、遊佐どのは稙長さまを毒殺したのではないかと。
長慶 それよ。そのような非道がゆるされてよいものか。
久秀 聞くところによれば、遊佐どのは、管領晴元さまを嫌い、細川氏綱さまに近づいているとか。しかしながら、力のあるものが上をねらう。これが乱世の常かもしれませぬ。お屋形さまには、そのようなお気持ちはありませぬか。
長慶 わしも、筑前守之長の血をひいておる。天下をねらう野望がひとかけらもないといえばウソになるのう。だがな、理(ことわり)だけは通したいのじゃ。
久秀 それがしは守役として一三年。お屋形さまの思いはわかっておりまする。一つには、父君の敵討ち。相手は、大叔父の三好政長さま、木沢長政、最後に、この二人に指図した管領晴元さま。すでに木沢長政は倒したから、のこるは政長さまと晴元さまでしょう。
長慶 ……
久秀 二つには、管領晴元さまを倒すということは、すなわち、天下人を目指すということではござりませぬか。
長慶 ……
久秀 それは可能です。

p127■天文一五年

この年は、長慶、久秀主従には、いいとこなしであった。

春、将軍義晴は、政治をまかせていた管領晴元に失望し、ひそかに、河内守護畠山政国、守護代遊佐長教と通じ、晴元を倒すことを計画しはじめた。晴元はこれを知り、まずは将軍義晴を近江の坂本へ追いやった。

晴元 わしは、茨木長隆よ、そなたをもっとも信頼しておる。ゆえに摂津国衆のそなたを管領代にした。氏綱に味方せぬようにと命じた件はどうなっておる。

茨木長隆 それがなかなか。承知したのは、伊丹城主の伊丹親興のみで、あとの国衆三宅国盛や池田信正らは、すでに、氏綱と手を結んでおりました。

八月一六日、晴元は長慶に命じて堺へ出陣させた。細川家の金庫ともいうべき堺を、氏綱がねらっているという情報が入ったからだ。

八月二〇日、堺に入った長慶がいざ兵を集めようとしているさなか、氏綱が三万の軍をひきつれ、堺を襲撃してきた。そのとき長慶の軍はわずか二千ばかり。

久秀 これは…とても太刀打ちできませぬ。

さすがの久秀も青くなって長慶に報告した。

長慶 わしに、策がある。堺会合衆(納屋衆)の納屋助四郎を呼べ。
六〇の坂を越えているだろうが、顔は浅黒く、筋骨たくましい助四郎が駆けつけてきた。並々ならぬ貫禄があった。助四郎は、堺の民政の長であり、三六人の会合衆をたばねる屈指の豪商だからだ。この当時の会合衆は、先祖伝来の商人ではなく、ほとんど武士の子孫なので、気骨があった。金の力で、諸国の大名を動かし、私兵を養い、いざとなれば、自ら堺の町を守る気迫も持っていた。
助四郎 われら納屋衆は、ご貴殿の曽祖父である三好之長さま以来、なにかとお世話になっております。なんなりとお申しつけ下さい。
長慶 かたじけない。細川氏綱との調停をお願いしたい。
助四郎 わかりました。もし、うまくいきましたら、長慶さまとは、今後ますますお近づきにさせていただきたく存じます。
どう話をつけたか、その日の夕刻には、助四郎は長慶に成功を告げた。こののち堺の納屋衆と三好長慶はかたく結びつき、長慶が畿内全域に勢力を張るようになったのも、この納屋衆の援助があったからだ。長慶はこのときの恩を忘れず、終生、堺の町を保護した。
余談だが、長慶の危機を救った納屋助四郎は、呂宋(ルソン)助左衛門の祖父だという。助左衛門は、のちに、豊臣秀吉の茶道好みに乗じ、高麗の茶碗をはじめ、呂宋の壺などを多量に持ちこみ、呂宋貿易で前代未聞の莫大な利益を得た男である。

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