『三好長慶(『妖雲』改題)』徳永真一郎(1)

主要登場人物
将軍義晴、管領晴元、叔父政長(河内代官。堺がある)、守役松永久秀、三好三人衆

p8 長慶(この時期は範長、以下長慶に統一) のう久秀。わしは、いつまで、この阿波の芝生城主だけで、とどまっておればよい。

久秀 あまり事を急いではなりませぬぞ。

長慶 が、二年前の冬、管領の細川晴元(もと六郎)さまを猿楽にお招きした際、晴元さまは、いつでも上洛して、世直しのために手伝ってほしいとおおせられたぞ。

久秀 それも承知。しかし、あの方の言葉には、御用心下さい。

長慶 晴元さまを、親の仇として忘れてはならぬと申すか。

久秀 その通りです。あのお方は、管領にしてもらった父君の恩を忘れて、本願寺の門徒宗き攻めさせ、堺の顕本寺で、悲壮な最期をとげさせているのですぞ。

二人は回想した。

長慶は一一歳までいつくしんでくれた父を。

久秀は、庶民の出であった自分を拾いあげてくれた恩人を。

その人の名は、三好筑前守元長。

p10 ■享禄五年(一五三二)、長慶が一一歳のとき。管領細川晴元が、三好元長を、堺南荘で攻めた。理由は、晴元のお気に入りの柳本神二郎を、元長が三条城で攻め殺したから。神二郎は、丹波神尾城主の柳本賢治の子。賢治は前管領細川高国から気に入られて、丹波の領地をもらっていた。同じように、神二郎は晴元に気に入られて、三条城主になっていた。

元長の叔父にあたる三好政長(神五郎、宗三)や木沢長政と手を組んだ柳本神二郎が、晴元と元長の仲を裂こうとしたからであった。※『覇道の槍』では、暗殺の秘事を知られたから。仲を裂こうとしたのは木沢長政ら御前衆。

p11 「元長さえいなければ…」三好惣領家の跡をねらう三好政長と、もと畠山家の家臣木沢長政が晴元に吹きこむ。

持隆 元長は出家して海雲と称し、管領に詫びておるのですぞ。元長は、われら阿波細川家のために、晴元どのを都におつれした。いうならば忠義の臣。それを討ち滅ぼしたいとは、話にならぬ。

憤慨した持隆は、阿波へひきあげてしまった。持隆は、晴元の従兄弟であり晴元の第一後継者でもあった。

そして、享禄五年(一五三二)六月中旬

p12 晴元は、本願寺の光教に元長を亡き者にしたいから、手を貸してほしいと頼んだ。光教は二つ返事で引き受け、河内や摂津の門徒衆に命じた。その数、三万。

六月二〇日、堺顕本寺にいた元長は久秀に千熊丸の守り役を遺言して果てた。切腹して、腸をとりだし、これを天井に投げつけたという。

このとき、阿波御所の足利義維は、元長から自害をとめられ、その後間もなく本願寺勢に降った。

p42 ■天文五年(一五三六)

九月、将軍義晴は、晴元の力を利用して政治を行うため、晴元を京都に呼び、正式に管領に任命した。これを機会に、晴元は、腹心の芥川長光に摂津の芥川城を預け、京都に行った。芥川氏は、もとは摂津の国衆であったが、長慶の祖父之長が政治の実権をにぎったとき、その子、長光に芥川姓を名のらせ、芥川城主にしていた。そこに晴元がいたわけだが、芥川城には、のちに長慶がはいることになる。

p21 ■天文八年(一五三九)。長慶、一八歳の年。ちなみに織田信長は五歳。

長慶の家臣団を紹介しておこう。久秀のほか、のちに三好三人衆と呼ばれる三好長逸(ながゆき)、三好政康、岩成友通(ともみち)らがおり、三好一党の重鎮である三好康長(やすなが、笑顔(しょうがん))。そして、亡き元長の弟たちの三好元康(もとやす、義賢(よしかた))、安宅鴨冬(かもふゆ、冬康(ふゆやす))、十河一存(そごうかずなが)。

正月一四日、長慶は二千五百の兵を率いて、上洛。翌一五日、晴元の館を訪ねた。

晴元 おお、ますます、父上に似てまいられたな。

かつて自分が死に追いやった元長の顔を思い出すのか。晴元の心中や如何。

長慶 ご尊顔を拝し、恐悦至極。晴元さまが管領になられましてからは、都も平和になりました。ひとえに晴元さまの人徳のたまものかと。

父を敗死させた男を前にして、長慶の心中や如何。

p26 天文一揆。※要調査

木沢長政 毒をもって毒を制す。一向衆を制するために法華衆を利用しましょう。

晴元 法華衆は、三好を檀那とあおぎ、三好のためならば働くだろうが、われらのために力をかすだろうか。

木沢長政 畿内の三好一党に、飴でもしゃぶらせて、法華衆を動かせばよろしいでしょう。

長政は煮ても焼いても食えぬ男。もとは管領畠山氏の家臣だったが、畠山氏が衰えると、前管領の細川高国に近づいた。(※?)そして三好元長と晴元らが高国をほろぼすと、ついでに旧主の畠山義宣まで攻めほろぼした男てある。(※義宣?)さらに、本願寺門徒(一向衆)をあおって元長を顕本寺で自害に追いやり、このたびは、「法華衆の力をかりて、一向衆を攻めよう」という。ついでにささやく。

木沢長政 晴元さま、阿波の三好家から、松永久秀なる男がまいりまして、長慶の上洛を願いでております。許してやり、一向衆を攻めさせてはいかがでしょう。さすれば、法華衆も三好元長の旧恩にむくいたいと、長慶のもとへ集まります。われらは手を汚さずにすみますぞ。

p28 場面を戻そう。

晴元 大切にしている鷹だが、長慶どのにさしあげよう。

前年に尾張の織田信秀(信長の父)が献上した鷹である。それを与えるのだから骨身を惜しまず働け、ということだろう。(父の仇として、この晴元の寝首をかくなよ)とも願っていたかもしれない。

六月二五日、長慶は、当代一流の能役者観世小次郎が船弁慶など舞わせるので館においでいただきたいと、晴元を招いた。

宴席は和やかに運んだ。久秀の合図で長慶は姿勢を正して晴元にむきなおる。

長慶 お願いがございます。それがしが幕府の代官であれば、晴元さまのためにもっと働けましょう。

晴元 いずれの国の代官を望むのじゃ。

長慶 幕府の御料所で、河内の一七カ所。

晴元 それは、三好政長の職ではないのか。

晴元はおどろいた。

長慶 さようでこざいます。この職は、もともと、わが父が幕府から任命されていたもので、嫡子のそれがしが要求するのは、当然かと存じまする。

晴元 が、それは…。

p33 三好政長はおそろしい男である。長慶にとっては大叔父にあたるが、三好一党でも庶流の出で、すこぶる野心家であった。かつては元長とともに晴元に仕え、足利義維を将軍にしようとつとめた。とくに、大永七年(一五二七)、幕府軍と三好軍が京の桂川で戦ったとき、政長は、若狭守護の武田元光を敗走させ、将軍義晴を近江の坂本まで追いやって軍功をあげていた。そして晴元をそそのかす。

政長 元長は晴元さまをしりぞけ、自分が政権のトップになるつもりですぞ。

晴元は本願寺門徒衆の力をかりて、元長を討ちほろぼした。そして政長は元長にとってかわって河内の一七カ所の代官になった。このことはすでに話した。長慶は、これを取り戻そうというわけだ。

晴元 うーむ。

三好政長は、いまや木沢長政と並んで晴元の部下の双璧であった。考えこむのも無理はない。

晴元 では、将軍さまにお話ししてみるがよい。いや、もちろんわしも口添えする。

長慶 ならば、それがしが直接に、将軍さまにお願いいたしましょう。

長慶が松永久秀を見ると、久秀はうなずいた。久秀は、幕府の内談衆てある大館尚氏の顔を思い浮かべていた。

久秀は、京の東山のふもとにある大館尚氏の館を訪ね、河内の代官の件を話した。尚氏は、もう七〇にさしかかった老武士であったが、儀式や故実に通じていたので、三代ひきつづいて将軍の申次(もうしつぎ)をしていた。

尚氏 よろしい。この件は、この尚氏におまかせあれ。

尚氏は、元長の親友であった。その元長を、顕本寺でほろぼした晴元に少なからず敵意をいだいているようであった。そこを久秀はねらったのかもしれない。久秀は京都から、長慶のいる摂津の芥川城に戻った。

久秀 お屋形さま、河内代官のこと、将軍家に直接訴えるほか道がありませぬな。

長慶 晴元さまや、大叔父の政長が反対したらどうする。

久秀 そのときこそ、お屋形さまの力を、見せつけなされ。

長慶がひと声かければ、摂津はおろか、河内や和泉あたりまで、国衆や法華衆が集まる。これも久秀が根まわししたものだ。長慶は久秀をつれて、京都に入った。そのころ将軍義晴は、建仁寺を仮御所にしていた。部屋に通されると、一二代将軍義晴が、内談衆の大館尚氏を従えて入ってきた。

義晴 尚氏から聞いておる。河内の代官職を望んでおるとか。

長慶 はっ。わが父元長がたまわっておりました河内代官職を、わたくしに継がせていただきたく、お願いにあがりました。

尚氏 上様。三好政長には正式に職をさずけたものではありません。ゆえに暫定的にゆだねておるだけのこと。これを三好長慶どのに返しても、なんの問題もないと存じまする。

義晴 しかし、管領の晴元も反対しておるし、政長が、そうたやすく応じるかだ。

長慶 わが父は、幕府の害であった細川高国どのを天王寺の戦で破り、都を平和にもどした功績で、河内の代官に任命されました。これを妬んだのが、三好政長。三好家の庶流でありながら、三好本家をのっとるため、わが父を亡きものにしようと、晴元さまにたびたびウソを吹きこみ、ついに、晴元さまと父を仲違いさせてしまったのです。そのような政長に、上様が気をつかう必要はないと存じまする。

義晴の表情は迷惑そうだった。晴元とは、いろいろあったが、とにかく、将軍に復活させてくれた恩がある。しかし晴元の部下だったとはいえ、元長には細川高国とともに、二度も近江の坂本に追放された。ゆえに元長の印象は悪い。その元長を晴元が堺の顕本寺てほろぼしたからこそ、いま京都に安住しているのだ。

義晴 そのことは、十分に承知しておる。ともかく、この問題はよく吟味してみる。

長慶はそれ以上何も言わなかった。

p48 河内の代官職3/17

芥川城にて。
長慶 のう、久秀。あの気の弱い将軍さまは、おそらく、わしの要求をひきうけないと思う。
久秀 では、どうなされます。
長慶 脅すほかあるまい。
数日後、幕府の使者として芥川豊後守が、長慶を訪れた。
豊後守 長慶どの、河内の代官職の件ですが、将軍家としては、どうしても思いとどまってほしいとのことです。
豊後守は三好家にかかわる者だ。長慶の気持ちはわかる。実に言いにくそうだった。
長慶 将軍家はそれほどまでに、わしを代官にするのがいやなのか。
わかっていた答えだった。しかし言葉の語尾がふるえた。
豊後守 お察しもうす。
使者の豊後守が、気の毒そうに、頭をさげた。
長慶 豊後守どの、そなたを男と見込んで、わしの肚(はら)を打ち明けたい。わしは、上洛するつもりじゃ。
豊後守 は?
長慶 いや、将軍家の意見に納得できぬゆえ、軍勢をしたてて、脅かしてやるつもりでござる。
豊後守 それは……わかりました。それがしも三好一党のはしくれでござる。本家のためならば、いつでも命を捨てられまするぞ。
豊後守はみずから、長慶に味方することを願った。長慶は、思わず板間に手をつき、頭を下げた。
豊後守 それほどまでされずとも…。
豊後守は自分よりふたまわりも下で、子どものような年の長慶に、親しみを感じた。よし、この若者のためにひと肌脱いでやろうと。
長慶 ありがたい。これほど心丈夫なことはない。亡き父のご加護じゃ。

のちに長慶は、この恩にむくいるため、豊後守の嫡男孫十郎に、自分の妹を嫁がせ、芥川城主にした。しかし孫十郎は、天文二二年(一五五三)に、義兄である長慶を討とうとしたため、
逆に阿波に追放されることになる。一四年後の話である。
■天文八年(一五三九)八月一六日、さっそく長慶は阿波軍と摂津軍を三千騎ばかり集めて、京の入口である山崎に集結させた。
建仁寺の将軍義晴のもとにいた晴元は怒りと恐怖で顔を蒼白にした。
晴元 この晴元にたてつくかっ!
恐怖は長慶が上洛の途中、本願寺の光教から、上洛祝いとして酒と食物を提供されたと聞いたからだ。
晴元 本願寺門徒を味方にされたら、とてもかなわぬ…。
それだけではない。晴元の部下の芥川豊後守が、長慶の味方になったので、同じ摂津の国衆である池田信正、伊丹親興(ちかおき)、三宅国盛らが、長慶の上洛を止めない。当然だ。かつて三好元長の部下として恩を受けていたから。その子の長慶が上洛すると聞けば、応援しようとするのは人情だった。
晴元 上様。こうなっては、越前の朝倉孝景、若狭の武田元光、能登の畠山義房らに出兵を命じて下さい。
そうして晴元は、妻子を岩倉に避難させ、高雄山に陣をかまえた。困った将軍義晴も、嫡男の義輝を八瀬に避難させてから、使者に命じた。
義晴 近江の観音寺城に行き、六角定頼に、長慶との間を調停してくれと、頼んでこい。

p54 将軍義晴は、六角定頼の武力にすがった。近江の守護六角定頼は、一万や二万の兵はすぐにでも集められる。定頼はただちに、わが子義賢(のちの承禎。じょうてい)をつれて、一万余の兵とともに上洛。定頼は、義賢とともに山崎の長慶の陣に行く。
定頼 長慶どの、京の民を巻きこむのは、けっして本意ではないであろう。河内一七カ所の代官については、この定頼がどのようにでもとりはからいますゆえ、軍をひきあげていただけぬか。
定頼の言葉はていねいだが、断れば、近江軍でつぶすぞ、という脅かしであるのは明白だ。
六角定頼は油断のならない男だ。定頼は、管領高国が敗死したのち、近江坂本の宝泉寺にひそんでいた義晴を自分の城に招き、観音寺城の裏門の山つづきにある桑実寺(くわのみでら)にかくまい、天文元年(一五三二)から三年間、この桑実寺を仮幕府にして、自分が管領にでもなったかのようにふるまっていた。それだけではない。義晴と、元関白の近衛尚通の娘を結びつける仲立ちをし、将軍義晴を思い通りに動かして得意になっていた。さらに、自分の娘を細川晴元に押しつけて舅(しゅうと)となり、将軍と管領はわが身内同然、といいふらしている人物でもあった。
(調停役というが、定頼は敵方の人間だ。いいようにされてはならぬ)
そんな長慶の思いを、六角定頼は察したようだ。
定頼 どうやら長慶どのは、わしを信用されていないようじゃ。
そこに言葉をはさんだのが久秀だった。
久秀 いや、そうではござりませぬ。でしゃばるようで、もうしわけありませぬが、わが主人は慎重なご性格ゆえ、なかなか即答できかねまする。六角さま、いかがでしょう。しばらく、いや数日で結構ですので、考える時をいただけないでしょうか。
こうして六角定頼父子はいったん帰った。

久秀 お屋形さま、ここは考えどころかと。かりに六角と戦っても、その間に越前や若狭の援軍がくれば、不利です。それよりはわが三好家の武力をおそれている将軍さまに、優位な立場で交渉するほうが得策かと。
p58 将軍義晴は、管領晴元と河内代官政長が「代官職を長慶にゆずる」とさえいってくれれば、長慶にびくつく必要はなくなる。義晴は使者を送り、晴元と政長をくどいた。
晴元は、この際、長慶に恩を売って、味方にしたほうが得だと思い、政長を説得した。政長は、不服だったが、いま、管領晴元に逆らえば得にならないと計算して受け入れた。
八月二八日。山崎、長慶の陣。
長慶 これ以上、六角どのをわずらわせるのは、わたしの本意ではござらぬ。
長慶は、調停に応じ、六角定頼は喜んだ。
長慶 六角どのになら、芥川城を明けわたしてもよいですぞ。
定頼 まことでござるか。
定頼は耳を疑った。
長慶 せめてもの手土産でござる。
定頼 では、そなたは、どちらへ?
長慶 わが曽祖父の之長がいたこともある、摂津の越水城へ移ろうかと。

p61 (若いが、この三好範長という男は大物だぞ)
六角定頼は感心した。

十日ほどのちに、長慶は河内一七カ所の代官に任命された。

久秀 お望みが、まずは一つ、かないましたな。

長慶 これからさ。河内を拠点にしてどこまでのしあがるかじゃ。

九月中旬、長慶は越水城に移った。当時は武庫郡越水村。西国街道を一直線に進めば京都。軍事的に重要な拠点で、前に御前浜や打出浜をのぞみ、うしろに、甲山と武庫山を背負った要害の地でもある。

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史跡

http://www.siromegu.com/castle/hyogo/kosimizu/kosimizu.htm

https://akiou.wordpress.com/2017/06/25/shozui/

http://saigokunoyamajiro.blogspot.jp/2013/12/blog-post_8.html?m=1

https://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q11121719686

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