『三好長慶(『妖雲』改題)』徳永真一郎 p63~100(2)

p63 婚儀4/17

長慶に縁談。相手は管領晴元の馬廻衆で、丹波の八上城主である波多野秀忠の娘。一六歳、お琴。
■天文九年(一五四〇)一一月二二日、長慶、結婚。一九歳。出席者は管領晴元を筆頭に、将軍義晴の代理で六角定頼。さすがに長慶から河内代官をやめさせられた政長はいなかったが、摂津国衆の池田信正、三宅国盛、芥川豊後守というそうそうたる武将。
p69 長慶は新妻のお琴に三好家のことを語る。
三好家は、信濃源氏の小笠原長常を始祖とする。小笠原一族は、長常の父長清が阿波守護として承久の乱(一二二一)ののちに阿波に渡って繁栄した。南北朝のときは、南朝の後醍醐天皇に味方した。足利幕府に反抗しつづけたが、やがて細川頼之にくだった。その後、五郎頼久が小笠原宗家を継ぎ、細川家被官となる。その頼久の曾孫、義長が三好郡に定住したので、三好の姓を名のった。
長慶 わしは、先祖が、わが身を守っていると信じている。たとえば、曽祖父の之長などは、このわしをあやつり、三好の名をあげさせようと、していることがぞくぞくと感じられる。
お琴 之長さまは、幕府がいちばんむずかしいときに、立てなおそうとされた方ですね。
※時の慣例は細川政元。この話は前に詳しく話した。だから簡単に言うと、政元は将軍をやめさせたりしてもよいのだ、という雰囲気をつくりだした。いわゆる下克上。明応二年(一四九三)六月二九日、政元にとらわれて龍安寺に幽閉されていた一〇代将軍義材は脱出して越中へ向かい、やがては、周防の大内政弘の助けにより、だんだん力を強める。いっぽう政元は、明応三年(一四九四)一二月二七日、足利義澄を一一代将軍にした。おかざり将軍、あるいは、あやつり将軍の誕生。対する義材は、流れ将軍。

p78 長慶 細川政元は、魔法に明け暮れ、女にも振りむかない有様だったから、嗣子さえいなかった。これを心配した家臣たちは、無理やりに、前摂政の九条政基の末っ子を養子に迎え、(※猶子とも)これを澄之と名のらせ、とりあえずは、丹波一国を与えていた。
お琴 しかし、細川家(※内部の別の一派)では、それを不満として、十二年後に、阿波屋形の細川成之さまのお孫さまにあたる六郎澄元さまを、政元さまの二人目のご養子になされたのですね。
長慶 うむ、それが細川家の流れを二つに割り、家臣たちは澄之派と澄元派に分かれて、争うもとになってしまった。(略)
このことは、両細川の乱の原因なり、また三好の名を世に広めるきっかけになったが、そのために、長慶の曽祖父の之長は(略)世間から、
p79 「大悪の大出(最高)なるもの」
なる悪評をもらい、京都の百万遍の智恩寺で自害することになる。
お琴 長慶さまの曽祖父にあたる之長さまは、阿波細川家の重臣として澄元さまを擁立したわけですね。
長慶 もちろんだ。政元はそのころ、幕政をおろかにし、魔法に夢中になっていた。飛びあがって、空中に立つというような芸当をしたというが、それが、はたして真実かどうかわからぬ。が、政元が幕政をかえりみなかったことだけは事実であったろう。そこで摂津守護代だった薬師寺与一という人が、政元を殺し、澄元を迎えようとしたが、これは失敗した。
お琴 与一という方は弟の薬師寺長忠という人に、攻められて敗死したのですね。
長慶 そうだ。その後、政元は、やはり澄元を必要としたのであろう、長忠に命じて澄元を阿波から迎えることとなった。
お琴 このとき、あなたさまの曽祖父の之長さまが、阿波小笠原の惣領として、澄元さまをお守りしたというわけですね。
長慶 うむ。之長が上陸してくると、薬師寺長忠は、之長に恐れをいだくようになった。それは、評判どおりの切れ者で、武勇の達人であるとわかったからだ。長忠にしてみれば、兄の与一を殺し政元の腹心になってはいたが、之長がいたのでは、とうてい第一の実力者にはなれないだろうと考えた。(略)
永正四年(一五〇七)六月二三日。細川政元は湯殿。三人の武士が踏みこんできて、
「お命ちょうだいいたす」
p80 享年四二歳。
薬師寺長忠が暗殺を指揮した。
長忠 六郎澄元さまを擁する三好筑前守之長がいる以上、われらは、いつも日陰に甘んじておらねばならぬぞ。それよりは、いまのうちに、政元さまを殺め、丹波から九郞澄之さまをお迎えして、細川家を継がせ、われらの天下にしようではないか。
(略)
翌日、長忠ら澄之派は、六郎澄元の館を急襲した。
不意をつかれた澄元は、一八歳の若さながら、自ら奮戦し、深手を負った。このとき澄元を助けたのが、筑前守之長だった。「武勇の達人」だと、阿波守護の細川義春、つまり澄元の父から折り紙をつけられ、澄元の身辺警護を頼まれただけのことはある。(略)
p81 澄元を守った之長は、まず近江守護の六角高頼を頼った。このとき高頼は隠居していたが、まだ六角家の実権を握っており、江南一円の武士たちを顎で使っていた。
高頼は、甲賀谷の武将山中為俊を観音寺城に呼び、かくまうように命じた。

お琴 それから之長さまは、いかがなされたのでしょう。
長慶 澄之を丹波から迎えて、遊初軒という邸宅に住まわせている薬師寺一味を襲撃してやろうと、六角高頼と相談して、甲賀武士たちを中心に三千ばかりの兵を集め、政元が暗殺されてから四〇日後の八月一日、遊初軒を囲み、薬師寺長忠と香西元長を討ちとり、澄之を自刃に追いこんだのじゃ。

p83 先祖の遺業5/17

之長は、細川澄元を奉じて、一一代将軍義澄に会った。そして将軍義澄に澄元を細川管領家の当主として認めてもらった。その後、之長は足利幕府を預かることになったが、そうすると管領澄元は不満になった。阿波を出てから上洛するまでは「この世に頼れるのは、三好之長ただ一人」と、いいつづけてきたのに。

p87 ※経緯

〇細川政元、足利義澄(一一代将軍) ●足利義材(一〇代将軍)

〇薬師寺長忠、細川澄之 ●細川政元

〇三好之長、細川澄元、足利義澄(一一代将軍) ●薬師寺長忠、細川澄之

■永正五年(一五〇八)春
〇足利義材、大内義興(管領代)、細川高国(和泉守護、管領) ●三好之長、細川澄元、足利義澄

p87-88

高国の裏切り、流れ将軍復活。
永正五年(一五〇八)四月九日、之長は澄元を連れて近江に。
同年四月一六日、将軍義澄も京を逃げ出し、まず朽木谷に身をひそめ、やがて蒲生の岡山城の九里備前守員秀(くのりびぜんのかみかずひで)を頼ることになる。

p90 之長は「義澄さまのために、きっと、都を奪回してみせましょうぞ」と、前管領の澄元に誓い、
永正六年六月、甲賀武士たちの援助のもと、山城の如意岳に出陣したが、大内義興の大軍に囲まれ、やむなく敗走。
直後も之長は嫡男三好長秀と再出撃。管領は逆襲。長秀は伊勢の山田まで敗走して追撃され自害。
p91 十月二六日、之長はわが子長秀の仇討ちのため甲賀者で夜討ちの達人円珍という時宗僧を選び、義稙暗殺未遂。
p92

■永正八年(一五一一)

三月五日、前将軍義澄の妻福子が嫡子亀王丸を生んだ。のちの一二代将軍義晴である。
朗報に合わせるかのように、之長は細川澄元を擁して、五千の軍とともに境に上陸。澄元の妹婿で和泉守護の細川政賢を味方にひき入れ、八千余りにふくれあがった軍をもって、泉州深井で高国軍を破った。
p93

八月一四日、足利義澄、近江の岡山城にて病死。将軍返り咲き目前。享年三二歳。
八月一六日、之長を主将とする澄元軍上洛。
八月二三日、丹波に逃げこんでいた将軍義稙を奉じて、管領高国と管領代大内義興が二万五千の大軍をひきつれ、北山から出陣してきた。
「近江御所は、十日も前に死んでいるらしいぞ。それなら、この戦いだれのためにするのかわかったものでない」
澄元の妹婿ということで総大将の細川政賢は羅漢橋で討ち死に。

八月二四日、三好之長、大内政弘に大敗。澄元をつれて阿波へ帰国。
p95

■永正一〇年(一五一三)

当時、播磨守護の赤松義村に預けられていた足利義澄の遺児亀王丸をつれだし、将軍義材(義稙と改名していたが、義材に統一)に預け、和議を結んだ。反対した管領高国と口論になり、義稙は、いったん近江の甲賀に身を避けた。義材と高国は不仲に。

亀王丸はまた義村に預けられた。大内義興の仲裁で、義稙は都へ戻る。二年後には三条高倉に新御所を造り、住んだ。義稙は勝手に畠山種長を管領にするなどして、高国を怒らせた。義材と高国の不仲は決定的に。

■永正一五年(一五一八)

そしてそんなあれこれののちに、在京費用が底をついてきた大内義興は帰国。※地元の内乱が原因?
p96

九月、之長は、上洛の機会がめぐってきたと、澄元を奉じ、阿波、讃岐の兵をひきいて、淡路に入り、やがて兵庫へうつった。

■永正一六年(一五一九)

澄元チームと高国チームの戦争がはじまった。細川の内部抗争である。

一一月、兵庫県警港に上陸した澄元と三好之長は、翌年二月に、摂津の越水城を落とした。これ以降、越水城が、三好家の本拠となる。高国は将軍義材(このとき改名で義稙だが、義材に統一)と近江に逃げようとした。しかし不仲の義材は動かない。それもそのはず、義材はひそかに澄元と通じていた。しかたなく高国は近江の坂本に身をかくした。

p97

■永正一七年(一五二〇)

三月二七日、澄元は摂津伊丹城に残り、三好之長のみが、上洛した。百騎の諸将にかこまれ、二万の軍をひきいていた。之長の六二年の人生の中で最高の晴れ舞台だった。

〇三好之長、細川澄元 ●細川高国

p98

五月一日、澄元がふたたび管領の座についた。

五月三日、坂本にいた細川高国が、六角定頼の軍二万、丹波の内藤貞正の軍八千をひきいて、三条館にいた之長を急襲。等持院の近くで激戦の末、三好軍は敗れて四散した。

之長 将軍義材(このとき義稙)さまに、和議の労をとっていただきたい。

曇華院に隠れていた之長は、使いを出して頼んだが、義材は動かなかった。そんな力はなかったのだ。

之長 軍門に降りたい。

高国に願いでた。自分はともかく、わが子芥川長光と三吉長則を助けたい一心からであった。三吉父子は、百万遍の智恩寺に閉じこめ、高国の決断を求めた。

五月一一日、之長、切腹。

五月一二日、長光兄弟、斬首。

〇細川高国 ●細川澄元、三吉之長

この悲報を、細川澄元は、摂津伊丹城で聞いた。

澄元 これで、わしと之長の夢も終わったか……。

その後、澄元は、播磨に逃げ、阿波へ帰って、阿波御所の足利義維(一二歳)を擁して上洛しようとはかったが、病にかかっていた。

六月一〇日、細川澄元、勝瑞城で没。享年三二。

p100

細川澄元の家督は六郎(のちの晴元)が継いだ。このとき七歳。

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水茎岡山城跡(滋賀県近江八幡市)
https://masakishibata.wordpress.com/2016/10/15/okayama-suikei/

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