覇道の槍 天野純希 文庫~p234

***Wikipedia

■永正15年(1518年)
8月2日、義興が周防に帰国し高国政権が弱体化。
■永正16年(1519年)
これを好機と見た之長は翌永正16年(1519年)5月11日に高国方となっていた尚春を殺害した。殺害の理由は尚春の裏切りの他に之長と尚春の対立が絡んでいたとも、淡路の直接支配及び播磨灘・瀬戸内海など周辺海域を狙った之長の謀略ともいわれている。
10月には摂津有馬郡の池田三郎五郎(信正)が澄元に味方して下田中城に立て籠もる。
10月22日、高国方の瓦林正頼が攻撃をかけたが敗れた。
11月6日(9日とも)、この動きを知った之長は澄元と共に兵庫に上陸し、正頼が籠もる摂津越水城を包囲した(田中城の戦い)。
12月19日、包囲中の京都で前日に合戦があって之長父子が戦死したという噂が流れて大いに喜ばれたというが、誤報に過ぎない。
●人物・逸話編集
等持院の戦いに大敗した時に逃亡せずに捕縛されたのは、京都の医師である半井保房の記録である『聾盲記』によると之長が肥満して10歩も歩けなかったためという[15]。高国が態度を急に翻して之長を斬った理由は、尚春の遺児である彦四郎の強請によるものであるといわれる。そして之長が斬られた日は前年の永正16年に尚春を殺害した日であった[16]。処刑された時、聾盲記において「合戦には三好と申して大強のものなれども、天罰にてかくのごとし。一時に滅するなり……いまの三好は、大悪の大出(最高)なるものなり。皆の人々悦喜せざるはなし」と記されている[17]。之長は成り上がりの他国者の権力者として京都の人々には大変嫌われており、「大山寺縁起」には建設工事で嫌々働く人々が描かれ、『細川大心院記』や『瓦林政頼記』には当時の之長を風刺する落首がいくつも残されている[18]。
(Wikipedia三好之長)

***

海船館(海船政所)跡
https://masakishibata.wordpress.com/2017/07/15/sakai-kaisen/

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p15
■永正一七年(一五二〇)
四月、父長秀の死から一一年、元長は二〇歳を迎えていた。(略)今回の上洛戦でも、元長の近習や馬廻りを中心とした五百の兵を率いていた。
p16
細川澄元を総大将に阿波軍が兵庫に上陸したのは昨年、永正一六年(一五一九)の一一月。今年の三月には澄元と細川家の家督を巡って争う細川高国を破り、入京。摂津伊丹城にある澄元に代わって采配を握るのは、元長の祖父之長。
念願の京都奪回を果たしたとき、配下の軍は二万を越えていた。だが、近江に逃れた高国が再度京をうかがうようになると、いったんは服従した畿内の国人衆(地元の有力武士。地侍)が次々に高国チームに寝返った。(略)
京に入ってから、阿波軍は都で悪いことばかりしている。スパイの侵入を防ぐという建前で都に通じる七口に関を作り、通行料をむしりとった。雑兵(足軽)たちは落ち武者狩りと称して商家や寺社に押し入り、金品を奪い、女に乱暴する。

p27
永正一七年(一五二〇)
五月四日。上京三条に阿波軍は布陣。
二日前、細川高国軍、近江を出陣。都の東、如意ヶ嶽に姿を現した。
p28
同日、北方の船岡山にも高国チーム、丹波の内藤貞正、波多野稙通(はたのたねみち)ら。近江の六角定頼や京極高清の軍を加えた高国チームは総勢五万。実数は三万弱としても阿波軍の三倍を優に超えている。(略)
昨年一一月の摂津上陸直後から、澄元は長く病に伏せっていた。三二歳という若さだが病は重く、摂津伊丹城から動けない。之長に担がれた神輿に過ぎないが、総大将が陣頭に立てないほどの重病では、チームの士気が上がるはずもなかった。
戦の原因は細川京兆家の後継者争い。幕府管領として権勢を振るっていた細川政元の死後、(※澄之を作者はあえて外しているのだろう)澄元と高国という二人の養子がナンバーワン争いをしているのだ。
発端は一三年前、政元が謀反人(※薬師寺ら)に暗殺されたこと。それから間もなく、合わせ守護家から養子に入った澄元を擁する之長が謀反人を討伐して、京を制した。
一度は澄元を後継者と認めた高国だが、一年と経たないうちに挙兵。之長と澄元は京を追われた。その後も、両者は幾度となく干戈を交え、京の奪い合いを飽くことなく繰り返している。その戦争で元長の父、長秀も死んだ。
※作者は大内政弘の存在をあえて伏せている。
p39
之長は捕縛され、上京百万遍において腹を切らされた。

p41 六月一〇日、ようやく辿り着いた阿波勝端城で、澄元は六郎に看取られながら、眠るように息を引き取った。

p44 第一章 堺公方府

p47 等持院合戦での大敗から、六年が経っていた。この苦難を乗り切ることができたのは、元長の力量あってのものだった。

p48 細川京兆家と同様、足利将軍家も二つに。
足利義賢(後の堺公方義維)は、母が戦乱を避けて逃れていた播磨で生まれた。父義澄(清晃。義政の兄政知の子)はその間も京都に。
※政元のお飾り将軍。
一度も対面する機会のないまま、義賢が三歳の時に死んだ。
p49 やがて義賢は、高国に担がれた一〇将軍義稙(義材。義政の弟義視の子)の養子に迎えられ、京に。
※父の弟だから、叔父の養子に。
だが義稙は等持院合戦の翌年に高国と不和になり、義賢を連れて阿波へと逃れる。
※阿波公方。あくまで作者は大内政弘の存在を伏せている。
義稙の代わりに高国が擁立したのは、義賢の異母兄、義晴だった。
※つまり、義澄(清晃)の子か。
阿波へ逃れた義稙は、高国をひたすら恨み、都に返り咲くことを夢見ながら、三年前にこの地で死んだ。
元長はその二月後、この乱世を終わらせるという夢を語った。義賢は心を動かされた。

p52 ■大永六年(一五二六)長慶五歳
p58 七月も半ば、(略)七月一三日(p62)
p61 香西元盛、誅殺。波多野稙通の弟。柳本賢治の兄。
謀反は事実ではなく、香西元盛と犬猿の仲にある細川尹賢(ただかた)の讒言らしい。尹賢は高国の従兄弟で、摂津欠郡の守護。きっかけは些細。高国が中嶋に城を築く際、香西元盛の人足が、尹賢の人足ともめた。これを恨んだ尹賢が高国に香西の謀反を訴えた。それを信じた高国は、香西を屋敷に招き、討ち果たした。丹波衆がいっせいに離反しかねない暴挙。

p85 一五二六年一〇月二三日 丹波の波多野稙通と柳本賢治が高国に叛旗を翻したのは、一〇月半ばのことだった。高国の従兄弟尹賢を総大将とする軍二万が、この日、京を出発した。高国軍は稙通の八上城、賢治の神尾山城を包囲して持久戦に。

p86 一一月三〇日、赤井忠家(丹波の国人)が神尾山を包囲する尹賢の本陣を奇襲。柳本賢治も城を打って出て、激戦の末、高国軍を破る。

p88 元長がやることは山のようにあった。

一、畿内の高国チームの国人に対する調略。

二、軍費と兵糧の調達。

三、阿波から渡海してくる義賢と六郎の受け入れ準備。

p89 一五二七年二月一一日。柳本賢治は京の喉首を押さえる山崎に陣を置いていた。兵力は一万を大きく超えている。桂川東岸の高国軍は、若狭守護武田元光の援軍を加え、二万に近い。三好軍の先鋒四千を率いた三好勝長と弟神五郎(=政長。一九歳)が合流した。

二月一三日、払暁、三好兄弟が背後から奇襲をかけた。結果は柳本賢治の圧倒的な勝利。

p98 桂川原の合戦に勝利した柳本・三好の連合軍は、義晴を連れて近江に逃げた高国を追うように京に入った。幕府の奉行や役人も京を去って幕府は事実上崩壊している。義賢と六郎が京に入れば、新しい幕府がつくられる。

p101 一五二七年仲春 堺の湊に、足利義賢と細川六郎が着いた。

p111 第二章 同床異夢

七月、畿内は徐々に安定しつつあり、この月、元長は山城守護代に任命されたが、堺から動いていない。京の支配は、筆頭奉行人の茨木長隆がその手腕を発揮。長隆は摂津の国人。元は高国チーム。桂川原の合戦のあとに帰順。領国経営の才を認めた元長は長隆を筆頭奉行人に取り立てた。武は柳本賢治。阿波には三好一秀や鎌田光久といった勇将もいた。摂津、和泉、山城はほぼ掌握。河内守護畠山義堯(よしたか)とも、六郎の姉との縁組がまとまっている。なぜ堺に半年近くとどまっているのか。京は攻めやすく守りにくい。うかつに乗り込んでは火傷する。

「だが、大樹は従五位下、左馬守に任命された。あとは京に入って将軍宣下を受けるだけ」

七月、義賢は任官した。左馬守は、次に将軍の座に就く者がもらう官位。朝廷から正式に将軍跡目として認められたのだ。義賢はそれに伴い、名を捨てて実を取る義維(よしつな)と改めている。

「将軍宣下を受けても、力が備わっていなければ意味がありません。六郎様も、いずれは正式な管領になっていただく身。今のうちに様々な本を読んで勉強なさいませ」

p116 この堺に幕府をひらいてはどうか。堺公方府は名は、畿内近国に知れ渡っている。あえて京にこだわる必要があるのか。

p117 九月、元長は三千の軍を率いて堺を出陣。抵抗を続ける摂津伊丹城主、伊丹元扶(もとすけ)を討つため。

p120 元長 京など欲しければくれてやれ。長隆には、戦わず、西岡あたりまで退くように伝えよ。

京は完全に敵の手に落ちた。

元長 さすがは朝倉宗滴の軍。発する気がまるで違う。

p121 柳本賢治 いつまで不毛な睨み合いを続けるおつもりか。

p124 一一月一八日、戦機は熟した。

p130 朝倉宗滴。見事な采配。痛み分け。

p145 (一五二八?)三月、朝倉軍が撤退。五月には高国や六角軍も近江へ去った。八ヶ月ぶりの平穏。

p147 七月も半ばすぎ、高国がわずかな供のみで近江から出奔。元長と義維は堺に幕府と主張。六郎(晴元)は納得できない。

p151 六郎を木沢長政(三六歳)が訪問。河内守護畠山義堯の家中筆頭。

長政 高屋攻めをお許し下さい。

応仁の乱の政長と義就の家系がいまだに分裂。義就の子孫の義堯は堺公方府。河内高屋城を本拠とする政長の子孫の稙長は、高国チーム。六郎の三つ上の姉は昨年の暮れに畠山義堯のもとに嫁いでいる。

長政 柳本賢治殿の力をお借りしたい。大樹は戦のことは元長に任せてあるから元長から許可を得よと。六郎様の口添えを。

六郎 よかろう。元長の許しを得る必要はない。わしから柳本賢治に宛てて一筆書こう。

p157 閏九月 丹波の神尾山城には三千の軍。神尾山城を木沢長政が訪れ、畠山稙長が滅亡すれば、稙長の大和の領地を柳本賢治に差し上げたいと。

p159 高国の反攻を退けたとはいえ、堺公方府は盤石にはほど遠い。阿波衆、丹波衆。ほかに、茨木長隆らの摂津衆、河内畠山家、高国を見限って義維チームに転じた幕府の奉行衆(※具体的には?)と、利害がたまたま一致したいくつもの勢力が寄り集まっているだけ。朝廷から将軍宣下もまだない。

p161 閏九月下旬、賢治は丹波衆三千を率いて大和に。畠山義堯チームも合流し、兵力五千を大きく超えた。大和の畠山稙長チームの主力は、筒井順興(じゅんこう)と越智(おち)一族。一月足らずで、七つの城を落とした。越智一族は降伏、筒井順興は逃亡。賢治の武名が畿内に鳴り響く。

p162 畠山稙長は高屋城に籠もったまま。城兵二千。

p164 一〇月下旬、賢治は河内討ち入り。木沢長政の軍三千が合流。畠山稙長は降伏。稙長は高屋城を明け渡し、河内金胎寺城に退去。畠山家の内紛はひとまず決着。

p166 堺公方府の大樹(義維)から賢治のもとに使者。大和の領地を返せ、と。

賢治 応じるつもりはない。お引き取り願おう。

p168 師走も半ばすぎ。堺の金蓮寺で会議。丹波衆の扱い。大和所領返還交渉は平行線。

茨木長隆(管領代。摂津衆) 所領返還は撤回しては。丹波衆の武力を失うことは堺公方府の痛手。戦になれば蓄えた軍費も失う。

元長 大和の寺社が納得しない。丹波衆にこれ以上力を与えてはいけない。

木沢長政 畠山家としては不同意。高国を京から追放できたのは丹波衆のおかげ。(丹波衆が潰されれば阿波衆が強くなりすぎる)

大樹(義維) 交渉の最終期限は大晦日。戦支度も進め、決裂なら全軍で丹波攻め。総大将は細川六郎!

p173 一二月二九日。元長は阿波衆七千で入京。六郎は摂津衆や河内、和泉の軍とともに堺を出て入京予定。懸念は丹波衆と朝倉や六角との連携だが動きはない。君側の奸である三好元長の討伐を大義として掲げているので、近江の足利義晴を担ぎだすつもりはないのだろう。丹波衆の兵力はどう見積もっても八千まで。味方は堺の本隊が合流すれば二万五千。※合戦描写はカット

p183 合戦の翌朝、堺の六郎から使者が。堺に帰還せよ。昨日のうちに賢治の居場所は河内枚方と知れた。残りは三百程度。京を窺っていた波多野稙通も、弟の敗退を知って兵を退いていた。元長はすでに河内討ち入りを命令している。理由を問えば、昨晩、枚方より和睦を乞う使者が堺に来て六郎は受け入れたと言う。

元長 あと一歩で賢治の首を挙げられる。賢治さえ討てば、丹波衆は力を失う。なぜここで撤退せねばならぬ?

※柳本賢治は、元長の武のライバルの一人。あとは朝倉、六角。

このまま戦を強行すれば、摂津衆(茨木長隆)や河内衆(木沢長政)が元長の違命を責め立てるだろう。元長は河内討ち入りの中止を命じた。

※茨木長隆、木沢長政は、元長の政のライバル。図解あればよし。

p186 六郎 なぜ単独で柳本の軍と開戦した。堺にはわしがいた。万に及ぶ軍勢も集まりつつあった。わしの出陣を待って挟撃しようとは思わなかったか?

誰かが六郎の耳元で囁いた。三好元長は、手柄を独り占めしようとしている。賢治を赦免すれば、元長の増長を抑えられる、と。心当たりはいくらでもある。

p188 六郎が元長を見る目は、元長の亡き父長秀とよく似ていた。疑いや疎ましさ、嫌悪の色がありありと浮かんだ目。「元長は長秀の胤ではない。祖父之長が、長秀の正室を手籠めにして生まれた子」。そう、家中で囁かれていた。おそらく事実なのだろう。母は元長が五歳の時に他界した。病死ということになっているが、母は懐刀で喉を突き、自ら命を絶った。罪の意識に苛まれて自害したとも、長秀に死を命じられたとも言われている。今となっては元長にはどうでもいいことだった。問題は元長の出自のせいで家中がまとまれないこと。一族の三好神五郎(政長)など、元長を追い落とそうとねらっている者など、掃いて捨てるほどいる。力が欲しい。力があれば人は従う。全国の大名を従わせたとき、六郎に政権を譲ればよい。※権力の魔に魅入られた。

p190 三日後、柳本賢治と波多野稙通が堺に。金蓮寺で二人は義維と六郎に詫びを。賢治が大和で横領した領地は持ち主に返還、手打ちに。すべて六郎が仕切った。その下で三好神五郎、木沢長政、茨木長隆が動いている。彼らはいつからか、御前衆と。御前衆と丹波衆が組むのは見えていた。

義維 元長よ、そなたには引き続き、京を治めてもらう。それにしても六郎にも困ったものよ。もう子供でもあるまいに、いいように踊らされておる。

p191 一五二九年一月、動きがあった。大和の赤沢幸純が高国に通じ謀反を企てたということで、六郎は討伐を命じた。赤沢家は細川京兆家に仕えてきた重臣。なぜ今になって高国に通じたのか不明。討伐軍の大将は柳本賢治。三千の兵で、再度大和へ侵攻。半月経たずに赤沢軍は大敗、幸純は自刃。

p194 八月、元長は阿波に蟄居した。手を汚してでも堺公方府を一つにまとめると決意したのだ。

p196 かつて抱いた夢は、清らかに澄んでいた。それが汚れて見える。その分だけ近づいたということだ。※ガリレオか月面を見た。夢見たものは真実ではなかった。ではあらたに見つけたこの事実(でこぼこの月面)はどんな真実だというのか? 何を意味するのか?

p199 第三章 亡者の宴

p203 一五二九年八月一〇日。元長は阿波へ退去した。

p205 賢治は伊丹城攻め。伊丹城主伊丹元扶(もとすけ)は元長派。彼が高国に通じ、謀反を企んだという。赤沢幸純のときと同じ。おそらく反元長派(御前衆など)のでっちあげ。

p207 八月一六日。柳本軍三千が丹波を出陣。

一一月二一日。伊丹元扶、柳本賢治に伊丹城を攻められて討死。

***Wikipedia
伊丹元扶家督は息子とされる国扶が継ぎ、享禄3年(1530年)に高国が京に帰還すると彼に与して、大物崩れで死ぬその日まで味方した。もう一人の息子、千代松(のちの康直)は難を逃れて各地を流浪したのちに駿河国今川義元の家臣となっている。

***

p211 享禄二年(一五二九)九月、備前三石城で、浦上村宗は「三好元長か失脚した」という報せを聞いた。

村宗 愚かな連中だ。

細川六郎とその取り巻きたちのこと。元長の力が強まることを避けるために丹波衆を許したのだろうが、それが自分たちの首を締めることになるとわかっていない。

村宗 元長も甘い。新たな幕府を作るなど、所詮は青臭い子供の遊びにすぎぬわ。非情さが足りぬ。

状況によってころころ態度を変える畿内の国人は、力で無理やりに従わせるしかない。

村宗 理想で天下は取れぬ。人を従わせるには、力を見せつけ、そのあとに利を食らわせるしかない。元長はそれをわかっていないから失脚したのだ。

では、村宗ならどうするか。

村宗 高国あたりの仕業に見せかけ、六郎を暗殺する。後釜には、阿波の持隆あたりを据えればよかろう。それができないのが元長の弱さよ。

さて、高国は伊賀の仁木(につき?)家は頼るに足らずと判断し、越前から海路出雲に渡り、山陰に覇を唱える尼子家に上洛のための協力を要請。だが尼子家は大内家との戦に忙しい。そこへ村宗は手をさしのべた。担ぐには古びた神輿だが、幕府管領という地位に変わりはない。必要なくなれば捨てればよい。

村宗 時が来た。浦上家の旗を都に立てる時が。

浦上家の歴史を少々。村宗は家督を継いで一〇年。浦上家はもともと赤松家の家臣として代々備前守護代を務めてきた。応仁の乱では、主に代わって京都で赤松軍を指揮し、京都所司代に任命されたこともある。だが村宗が家督を継ぐと、先代の赤松義村は浦上家の力を弱くしようとした。村宗は反抗し、戦の末に義村を降伏させた。それが永正一八年(一五二一)。いまから八年前。今は義村の子、政村を操り人形として、実権を完全に握っている。

p214 九月一六日、村宗は高国を迎えた。さて、どうなるのか。

p222

p223 一五三〇年、春。
元長の蟄居以来、京は丹波衆の支配下にあった。

柳本賢治は、元長に代わって堺公方府の軍事を任されていた。そこに東播磨に領地を持つ別所就治が来た。別所家は浦上家と抗争を繰り返してきた。村宗が高国を連れて上洛戦を始めれば、まっ先に戦わなければならない。

賢治 播磨への出兵要請ということだが、堺へは私から申し上げよう。

p224 翌朝、賢治は馬を飛ばして堺へ。堺公方府の中心は、すでに金蓮寺(こんれんじ)から六郎(細川晴元)の私邸に移っている。金蓮寺の足利義維が公方府の決定に関与することはない。すべては六郎と御前衆(茨木長隆、三好神五郎(政長)、木沢長政ら)が決め、義維は単なる飾りとして祭り上げられているにすぎなかった。

※このあとに御前衆各人の描写あり。

p227 出陣は占いで五月一五日に決まった。賢治の軍を中心に畿内国人の軍が七千。播磨に入れば、一万を超えるだろう。総大将は賢治。兄の稙通は八上城にとどまる。まだ、兄が表に出る時期ではない。高国を討ったあと、賢治は堺を襲うつもりだった。御前衆はまとめて殺し、六郎から実権を奪う。抵抗するなら殺す。細川の血を引く者などいくらでもいる。それから兄が表に立ち、丹波衆で公方府を仕切る。それが賢治と稙通の立てた計画だった。賢治は天下に野心などない。戦が最高の遊びなのだ。

賢治 あの男にまだ借りを返していないな。

賢治が兵を挙げれば、元長は必ず起つ。前回は負けたが、次こそは負けん。俺を楽しませてくれるのはあの男だけだ。賢治は戦場で元長と会える日を待っていた。

***Wikipedia

享禄3年(1530年)、別所就治の要請に応じ、浦上氏方の依藤氏を攻撃するため播磨国に出陣したが、依藤城を攻撃中(依藤城の戦い)、東条谷の玉蓮寺の陣中で死去。自害したとも暗殺されたとも言われている。

子・甚次郎は享禄5年(1532年1月22日に居城の京都三条城で元長率いる阿波軍に討ち取られた。

***

※『覇道の槍』では、元長の忍びである久一郎が賢治を暗殺。久一郎はのちに松永久秀となる設定。

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