覇道の槍 天野純希 文庫p281~ 第四章 夢の裂け目

p281 第四章 夢の裂け目

享禄四年(一五三一)

六月四日、赤松からの裏切り攻撃に遭って高国勢は総崩れとなり、尼崎に逃走した(大物崩れ)。(Wikipedia高国)

元長の大勝利だった。倍する兵力で、堺の目前に迫っていた浦上軍は壊滅したのだ。

六月八日、細川高国は、尼崎で捕らえられ、広徳寺で切腹して果てた。享年四八。

p284 これで、名実ともに細川六郎(晴元)が細川京兆家の家督。あとは足利義晴を下し、足利義維をただ一人の将軍とする。自分にも義維にも、三好元長という心強い兄がいるのだ。(略)
堺に凱旋し、勝利の宴は金蓮寺(こんれんじ)で催された。戦場で活躍した阿波衆や元長の直臣たちは大声で笑い、それぞれの手柄話を肴に盃を干していく。対照的に、茨木長隆や三好神五郎(政長)ら御前衆の顔は浮かない。木沢長政は今も飯盛山(いいもりやま)で蟄居。結局、堺公方府を支えているのは元長一人か。六郎は、軽い酔いを感じながら思った。

六郎 わしはいつから、これほど小さい人間になった。なぜ元長の勝利を素直に喜べぬ?

p289 八月、六郎を木沢長政が訪ねてきた。六郎に仕えたいと言う。六郎は眉をひそめた。主従の仲がしっくりいっていないとはいえ、長政の主君は河内守護の畠山義堯だ。六郎の有力な同盟者であり、姉婿でもある。

長政 近頃、主の義堯が、それがしの討伐を公言しております。

六郎 そなたの、自業自得というものではないか。

長政 それがしも身を守らねばなりません。

六郎 それで、わしに仕えようと考えたか。

木沢長政が六郎の被官になれば、畠山義堯も軽々に兵を挙げられない。河内で戦が始まれば、各地の高国残党が息を吹き返すかもしれない。長政は河内の半分以上を押さえている。長政の兵力を六郎のものにできれば。元長は反対するだろう。だが御前衆を排除すれば、さらに元長の力は強まる。これからも元長に支えられて生きていくのか、力を手にして己の足で立つのか。つまりはそういうことだ。

六郎 よかろう。そなたは細川家の被官じゃ。

p291 八月二〇日早朝、六郎のもとに河内飯森山の木沢長政から援軍要請がきた。高屋城の畠山義堯が、木沢討伐の兵を起こしたのだ。義堯は長政が六郎の被官となったことは知っているはず。長政を討っても六郎を敵に回すことになる。おそらく親しい間柄の元長の仲裁を期待しているのだろう。

六郎 なめられたものよ。

決断した。使者に向けて言う。

六郎 戻って長政に伝えよ。わしが自ら援軍を率い、直ちに出陣する。わが被官を、黙って討たせるような真似はせぬ!

義堯の兵は三千。ふいを打たれた形の長政は一千。堺に今いる軍は二千。六郎は独断で堺を出陣した。自分の被官が攻められている。誰の許しも得る必要はない。摂津欠郡の三宝寺でいったん軍を停めた。飯森山へも高屋へも攻めることのできる位置である。三好神五郎と茨木長隆が参陣してきた。軍議の最中、驚くべき知らせが入った。木沢長政を攻める軍の中に、元長の配下がいる。一千足らずの小勢だが、間違いないという。

六郎は悩んだ。自分が元長と戦うなど、考えたこともなかった。勝てるはずがない。だがここで退けば、元長を恐れて逃げたことになる。これ以上の恥はない。

そこに堺からの来訪者があった。細川持隆だ。村宗との戦ののちも、持隆は阿波に戻らず堺にとどまっている。

持隆 すぐに兵を退かれよ。今ならばまだ些細な行き違いですむ。このままでは、公方府を二分する内乱になりかねんぞ。

六郎 先にわが被官を攻めたのは義堯じゃ。その代償は、払ってもらわねばならん。

持隆は大きく息を吐き、六郎を見据える。

持隆 これより、大樹のお言葉を申し伝える。今日中に兵を退けば、何もなかったことにする。退かぬとあらば、武力を用いることも辞さない。そう仰せじゃ。

一礼し、持隆が出ていった。一人になると、六郎は手にしていた采配をへし折った。考えるまでもない。兵を退くしかなかった。義維(義晴の兄弟)まで敵に回せば、自分には何一つ残りはしない。

見通しが甘かった。そう、元長は思わざるを得ない。六郎から御前衆を排除する。そうでなければ、堺公方府は一致団結できない。その考えは変わっていない。だが、当の六郎にその気がない。六郎は、自分への対抗意識に凝り固まっている。今回の件でますます意固地になるのは間違いない。

元長は出家し、海雲と号した。

p330 享禄六年(一五三三)五月。六郎は、朽木に逼塞する足利義晴と接触を図っている。義維と縁を切り現将軍の義晴を奉戴すれば、江南の六角家や若狭の武田家も味方につけられる。そうなれば元中之町と拮抗する兵力を得られる。京は今も元長の家臣たちが押さえているが、六角が上洛の兵を挙げれば、支えきることはできないだろう。もはや決裂は決定的だった。六郎と義晴の提携が成るより前に、元長は動かねばならない。やはり、木沢長政を討つ他ないだろう。すべての元凶はあの男だった。総力を挙げて飯森山城を落とす。木沢を潰せば、六郎も下手な動きはできない。

p334 五月一九日、河内高屋城の畠山義堯が木沢長政討伐の兵を挙げ、同時に京からも三好一秀の指揮する軍が出陣した。大和からも越智や古市といった国人衆が参陣し、兵一万五千の大軍となった。

p336 六月一〇日、六郎が動きはじめた。ひそかに堺を発った茨木長隆が京に入った。

p351 偵察の者が駆け込んで来て報告する。枚方周辺に軍勢、およそ八千。そんなところに軍勢がいるはずがない。どこの軍かもわからない。馬はほとんどおらず、鎧もろくにつけていないが、それぞれに得物を持ち、旗も掲げていた。

元長 して、旗には何と?

南無阿弥陀仏。厭離穢土、欣求浄土、と。

元長 …一向門徒か。

四〇数年前、加賀守護の富樫政親を滅ぼした一向門徒は、数十万にも上ったという。死を厭わない門徒たちの恐ろしさは、誰もが聞き知っていた。

元長 門徒は間違いなくお館様(六郎)の意を受けて動いている。

本陣は静まり返った。五日前に京に入った茨木長隆は、そのまま一向衆の総本山である山科の本願寺に向かったのだろう。六郎は茨木長隆を使い、本願寺を動かすことに成功したのだ。百姓の上に立つ武家にとって、一向門徒は諸刃の剣剣だ。元長を倒すため、六郎は禁じ手を使った。それほど、元長が憎かったのだろう。義維と三人で新たな幕府をつくり、平和な世をつくる。六郎はそれが一人でもできると思っているのか。それとも、そんな夢はとうに捨てたか。

戦は元長の負けだった。

六月二〇日、堺の顕本寺にて元長は自刃した。享年三二。

***Wikipedia三好元長
長政の野心を危ぶんだ畠山義堯は、享禄6年(1533年)5月、飯盛山城を再攻囲。元長も遅れて支援に加わった。この時も主筋の細川六郎が長政を擁護する姿勢を見せていたが、それにも構わず飯盛山城の包囲し続けた為、木沢長政の命運は尽きかけた[3]。
木沢長政討滅が時間の問題となっていた6月15日。攻囲軍が一転、窮地に陥った。突如として数万の一向一揆軍によって、背後から襲撃されたのである。攻囲軍は瞬く間に追い散らされ、元長も命からがら堺の顕本寺(法華宗)まで逃げ戻った。一方、追撃の手を緩めぬ一揆軍に観念したのか、同月17日に畠山義堯は自害した。

自力での攻囲軍排除を不可能と判断した細川六郎や木沢長政達は、かねてからの一向宗と法華宗の宗教対立を利用。山科本願寺(本願寺10世・証如)から了承を得て、一揆軍に支援を仰いだのである。この時の一揆軍にとって、飯盛山城の攻囲軍を追い散らす事よりも、一向宗にとっての仏敵討滅が目的であった。すなわち、一向宗に敵対する法華宗の庇護者であった元長の討滅である。畠山義堯は言わば、巻き添えをくったようなものであった。

同月20日、顕本寺を取り囲んだ頃には一向一揆軍は一段と膨れ上がっており(総勢10万とも言われる)、元長は足利義維を逃がすのに精一杯だった。主君から見限られた上に、勝ち戦を大敗北に貶められた元長は自害して果てた。享年32[4]。その自害の様とは、自身の腹をかっ捌いただけで終わらず、腹から取り出した臓物を天井に投げつけるという壮絶さであった[5]。

こうして無念の最期を遂げた元長であるが、元長の子の長慶、実休、安宅冬康、十河一存らはいずれも名将とされ、彼らによって三好氏は大きく飛躍、畿内の実権を掌握するほどの最盛期を築くに至った。死後から20年余、長慶によって堺には元長の菩提を弔う南宗寺が建立された。
***

p385 終章 恩讐の果て

堺湊を出航した船は淡路へ。細川六郎晴元は、船旅を楽しむどころではない。晴元という名は昨年、将軍足利義晴から一字を拝領してつけた。六郎は六日間におよぶ堺での戦に惨敗した。船を用意していなければ六郎の首は堺の道にさらされていただろう。

三好神五郎 お館様、あとしばしの辛抱です。

言いながら、神五郎は顔を歪めた。元長の死後、念願の三好家惣領の座に就いたこの男も、門徒との戦いで傷を負っていた。

六郎 おのれ、門徒どもめ。淡路で力を蓄えた暁には、根絶やしにしてくれるわ。

天文二年(一五三三)、二月一九日。昨年の六月、堺の南庄顕本寺で三好元長が自刃してから、半年以上たった。一向門徒を利用して元長を討つ。策を立てたのは木沢長政。六郎が義晴と接触すれば、元長は飯森山城を攻める。その背後を門徒に襲わせる。諸刃の剣だが、六郎は許した。こうでもしなければ、元長に勝つことなどできなかった。

茨木長隆の一族である茨木近江守が、本願寺の坊官である下間(しもつま)氏出身の女を妻としていた。それを利用して、若い本願寺証如(しょうにょ)の外祖父で、後見人を務める蓮淳(れんじゅん)につなぎをつけた。

木沢長政の読みどおり、蓮淳は法華宗の大檀那である元長の力が強くなることを恐れていた。後は、強い欲を持つ蓮淳の鼻先に餌をぶら下げるだけでよかった。

木沢長政の策は当たった。

だが、元長を討った後一向門徒は暴走しはじめた。元長自刃の翌月、門徒は奈良へ乱入。さらに摂津、河内、和泉でも門徒が蜂起。この時点で本願寺のコントロールから離れている。

木沢長政は予想できた展開なので次の一手を用意していた。一向宗と対立する法華宗の信者に一揆を起こさせたのだ。京の富裕な町衆を中心とする法華一揆は各地で一向門徒を破り、八月には近江の六角家と共闘し、山科本願寺を陥落させた。

その報に、六郎は歓喜した。総本山は落ちた。事態は沈静化するはず。後はすみやかにきょうに入り、近江朽木谷(くつきだに)の足利義晴を迎えればいい。

p389 堺公方府は事実上滅亡した。元長ができなかった天下平定を、この細川六郎がなしとげるのだ。

しかし証如と蓮淳は燃えさかる山科本願寺を脱出し、総本山を摂津石山に移した上で、武家との全面対決を決めた。

天文二年(一五三三)正月。摂津富田で、細川家と法華一揆の連合軍か、一向門徒に大敗を喫する。

六郎 滑稽だな。元長の戦いで大逆転の決め手になった一向門徒によって、今度はわしが堺から追放されたわ。

p394 六郎は、三好千熊丸を仲立ちとし、本願寺と和議を結んだ。

p399 窮地を救った千熊丸ならびに三好一族の帰参は許された。また、足利義維は阿波に引き取られ、若き日々を過ごしたその地で心静かに暮らすことになる。

p402 堺公方府が存在したのはわずか五年。三好元長の夢は消えた。

四月、持隆から密かに支援を受けた六郎が、和睦が成る前に少しでも戦いを有利にしておこうと逆襲した。摂津に上陸した六郎は木沢長政の軍や法華一揆と合流し、二六日、ついに堺を奪還する。

膠着の中、今度は丹波で戦火。かつて元長に討たれた細川高国の一族晴国が兵を挙げ、京へ迫った。千載一遇の機。今、阿波から石山へ出陣して六郎・法華一揆と本願寺へ同時に圧力をかけ、和睦を飲ませる。和睦は成る。これ以上戦って得をするのは晴国ただ一人だから。

p404 千熊丸 いよいよ明日は出陣じゃな。

松永久秀 御意。殿の初陣です。

天文二年(一五三二)六月、阿波別宮浦(べつくうら)の湊を見下ろす小高い丘の上で主従は言葉を交わした。

千熊丸歳、久秀歳の初夏である。

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

w

%s と連携中