覇道の槍 天野純希 文庫p234~

p235 賢治暗殺後、軍は敗走した。それを待っていた浦上村宗は兵を起こして一月足らずで播磨全土を制圧。

八月、村宗は摂津へ侵攻を開始。六郎は京兆家の薬師寺国盛を西摂津に派遣したが、勝てそうにない。

***Wikipedia薬師寺国盛

薬師寺 国盛(やくしじ くにもり、生年不明 – 享禄4年(1531年6月)は、戦国時代の武将細川氏(京兆家)の家臣。三郎左衛門尉。

摂津国守護代薬師寺長忠の子として誕生したとされるが、諸説がありはっきりしない。ただ、長忠の通称である三郎左衛門尉を名乗っていることから、長忠に近しい関係にあったことは推測できる。

***Wikipedia薬師寺長忠

父元長の死後、薬師寺家当主の座と摂津守護代職は共に兄の薬師寺元一が継いでいた。しかし元一が永正元年(1504年)に細川政元の養子の一人である澄元を擁立すべく挙兵した際にこれを鎮定し、その功によって守護代職と家督は長忠が跡を継いだ[1]

永正4年(1507年)6月23日、香西元長・竹田孫七らと謀って政元を暗殺する(永正の錯乱)。そして政元の養子である細川澄之を擁立した。これは長忠が政敵である三好之長を排除するため、之長を重用する政元を殺害して細川家の権力を握ろうとしたとする説が有力である[2]

しかし約40日後の8月1日、細川高国方に属していた甥(元一の子)の万徳丸(薬師寺国長)に茨木城で攻撃を受けて敗北し、澄之や香西元長らと共に討死した[3]

***

九月二一日、富松(とまつ)城が陥落。

一一月、尼崎の大物(だいもつ)城に籠もった国盛も降伏した。

伊丹城、池田城はかろうじて踏みとどまっているが、敵の重囲を受け連絡すらおぼつかない。

p236 一五三一年、年が明けても、浦上軍の攻撃は止まない。堺の町では荷をまとめて離れる者も出始めている。

六郎 これほど、もろいとはな。賢治一人が討たれただけでこのざまか。朽木(※近江?)の義晴まで勢いづき、京を窺っておる。村宗、高国、義晴。どれか一つでもいい。首を挙げてみせる自信のある者はおらんのか。

御前衆らを見回す。誰もが顔を伏せ、六郎の目を見ようともしない。

六郎 そなたたちにできるのは、他人の足を引っ張ることのみか。戦が目の前まで迫れば、これほど腰が退けるとはな。

降伏した薬師寺国盛は赦され、堺を攻める側にまわった。誰が裏切ってもおかしくない。そこまで堺公方府は追いつめられていた。最初から結束や信頼はない。嫉妬や権力欲が渦巻き、陰湿な足の引っ張り合いだらけ。他ならぬ自分も、妬みから元長を遠ざけた。一度の負けで崩れはじめるのも無理はない。

元長が去り、望み通り実権を手に入れてみても、残ったのは虚しさばかり。誰も自分に忠誠心など持っていない。誰も理想などに興味を示さない。あるのは果てしなく続く陰湿な権力争いだけ。ならばいっそ派手に終わらせるか。そのとき声が響いた。「大樹のおなりである!」

義維 三好筑前守元長を召還し、高国討伐を命じる。

いずれは誰かが言い出すはずだった。賢治亡き後、村宗に対抗できるのは元長だけだった。

義維 皆の者、すまぬが席を外してくれ。六郎と二人で話がしたい。

六郎は誰もいなくなった広間で、義維と向き合う。こうして話すのがいつ以来なのか、思い出せないほどだった。義維は腰の脇差しを鞘ごと抜いた。

義維 忘れたわけではあるまい。かつて、我らはこの脇差しで誓い合った。心を一つとし、誰一人欠けることなく天下を平定する、と。

六郎 されど…。

義維 いつまでつまらん体面にこだわるつもりだ、六郎。我らは元長を兄とも慕ってきたではないか。困ったときに兄に助けを求めるのに、何をためらう必要がある。

六郎 元長は来てくれるでしょうか。

義維 信じるのだ。我らの兄は、弟が困っているのを見過ごすような男ではない。

p241 一五三一年、二月。軍は二万を超えていた。摂津伊丹城にある浦上村宗の本陣には、毎日のように国人や地侍の参加の報せが届く。近いうち味方は二万五千にもなるだろう。

賢治の暗殺は上手く運んだ。賢治を播磨へ誘い出す。三好元長の策はそこから始まっていた。すべては元長の策略通りに進んでいる。賢治を失った丹波衆は力を失い、六郎は元長を赦した上で高国討伐の大将に任命した。

p242 村宗 ここからあの男、どう動く?

伊丹城と池田城も降伏させた浦上村宗は次は堺だと宣言した。

p244 三月七日、木沢長政が京都を放棄したと知らせが入った。

三月一〇日。村宗は堺攻撃を命令した。総勢二万二千。先鋒は宇喜多能家の五千。海沿いに南下して摂津今宮に。先鋒は勝間(こつま。現・大阪市西成区)。

夕刻、先鋒から敵の攻撃を受けていると連絡が入った。数はおよそ三千。間違いなく、三好元長自らが指揮する軍で「強い」という。

村宗 これは、長くなりそうだな。

p248 三月下旬には、阿波国主細川持隆が八千の軍を率い堺へ。後方支援を務めてきた持隆までが堺へ出張ってきたということは、それだけ公方府が追いつめられているということ。

それから二ヶ月近く、膠着が続いた。堺には一万五千の軍が集まっているが動かない。

閏五月、京を放棄した木沢長政は手勢を居城の飯森山に帰し、自身は山科に潜伏しているという。山科は、畿内に無数の道場を抱える浄土真宗本願寺派の本拠だった。※蓮如。 広大な寺内町の中央に座す本願寺は、巨大な城郭のようだという。木沢長政は本願寺に何か伝手があるのだろう。ここに逃げ込めば、幕府であろうと大名であろうと、かんたんに手は出せない。山科で息をひそめて状況を見極め、勝ち馬に乗ろうという魂胆だろう。食えない男だった。

p251 閏五月一二日、勝間ての緒戦から、二ヶ月あまり経っている。京を奪われ姿をくらましていた木沢長政は、ようやく河内に戻ったものの、居城の飯森山に籠もったまま動こうとしない。細川持隆の来援で一時は士気が上がったものの、形勢はいまだこちらの圧倒的な不利である。

p252 元長は金蓮寺に向かい軍議。集めたのは、足利義維、細川六郎、持隆のみ。御前衆は遠ざけた。元長が策のあらましを説いた。興奮した六郎が呟く。

「勝てる。これなら、必ずや高国の首が獲れる」

p256 この戦に敗れれば、堺公方府にも三好家にも未来はない。

元長 旗を掲げよ。

三つの旗が並んで掲げられた。

元長 足利、細川、三好。この三者は一体である。我らの勝利なくして、新たな幕府、新たな世は築けぬ。これより、古き世の亡霊を討ち果たしにゆく。いざ、出陣!

堺から北上した元長は、精鋭二千で、住吉沢ノ口へ。

右翼の阿波衆三千を率いる三好一秀(元長の守役)は我孫子に。

左翼は讃岐の香川中務丞(なかつかさのじょう)の二千が木津川口に。

圧力に堪えかねて堺から出てきたものの、決戦には踏み切れずにいる。敵の目にはそう映るはずだ。このまま持久戦を続けたところで、追いつめられるのはこちらだった。

p258 元長は連日、敵の前衛が陣取る今宮近くまで進み、矢戦を仕掛けさせている。いまだ大きなぶつかり合いにはなっていない。六月に入ると、敵は長陣に倦んできた。放ってくる矢にも勢いがない。ひとりひとりに行き渡る兵糧が少なくなっているのかも知れない。

元長 ようやく効いてきたな。

二ヶ月ほど前から、村宗に居城を奪われた播磨の国人衆の兵を組織して、敵の輜重隊を襲わせていたのだ。

元長 そろそろ、よいころだな。

六月三日、元長は全軍に今宮攻略を命じ、勝った。今宮砦の五段に構えた防塁の四段までを落としたのだ。

元長 明日になれば、おのずと敵は崩れるであろう。

怪訝な顔をする味方の一同に元長は微笑んだ。

元長 いずれわかる。楽しみに待っておれ。

p262 福島砦の浦上村宗を、神呪寺の明石修理亮(しゅりのすけ)が訪ねた。赤松政村の直臣で、主家をないがしろにする村宗に反感をもつ男だ。齢五〇を過ぎているが赤松家きっての猛将で、主家への忠誠心が強く、村宗としては使いにくい。何やら願い事があるという。

明石修理亮 今宮砦が陥落寸前とか。いかがなされる?

村宗 敵も本気らしい。明日は援軍として、わしが自ら出陣いたす。

村宗が出陣すれば、堺に残る八千も出てこざるを得ない。それでも敵の総勢は一万五千。こちらは、高国と政村の軍を除いても二万。

村宗 して、願いとは?

明石修理亮 それがしも歳にござる。そろそろ隠居して、息子に家督を譲りたい。その前に、一つ大きな働きをしておかねばと。

村宗 ほう。

明石修理亮 神呪寺にはお館様(赤松政村)以下、三千の軍がおる。それを今宮救援の先鋒としてお使いいただきたい。

村宗 お館様に、先鋒を指揮させよと?

明石修理亮 何の。三好元長の相手は、あのお館様には荷が重すぎる。はっきり申して足手まといじゃ。お館様にはこの福島でお待ちいただき、実際の戦はそれがしが指揮いたす。

修理亮は、深いしわをさらに深くして、にやりと笑う。

明石修理亮 首尾よく元長を討ち取ったあかつきには、我が愚息を取り立ててやってはいただけぬかな?

だいたい読めてきた。この老人は、すでに政村を見限っている。村宗は、しばし考えた。元長と直接ぶつかれば、味方の損害は相当なものになる。修理亮の軍なら、使い潰してもこちらの腹は痛まない。己の家の浮沈がかかっているとなれば、修理亮も全力で戦うはずだ。

村宗 よろしい。お任せする。出陣は明朝。今宵のうちに、神呪寺から福島に軍を移動させていただきたい。

明石修理亮 かたじけない。

深々と頭を下げ、修理亮は退出していった。

村宗 あの猪武者も、やはり人の親か。

意図せず、声音には自然と嘲りの色が混じる。

村宗 木沢長政にすぐ密使を送れ。決戦になる。働きどころだ、とな。

木沢はまだ、寝返るとは確答していない。両端を持している。しかし飯森山に戻っているということは、近いうちに決着がつくと見ているのだろう。先の読める男なら、こちらにつくはずだ。

p266 木沢長政が、浦上村宗と向き合う敵の側背を衝く。あるいは、空になった堺を落とす。それで、この戦は片がつく。木沢の功が大きくなりすぎるが、あまり図に乗るようならば、何か口実を作って誅殺すればいい。(略)

村宗は早朝の出陣を考え、早めに床についた。目覚めたのは夜明け前だった。嫌な夢を見た。廊下から慌ただしい足音が響く。
「赤松政村、並びに明石修理亮、謀反にございます!」

p267 村宗はようやく元長の考えが見えた。今宮砦に対する強引な力攻めは、村宗に決戦を決めさせるためだった。そこへ修理亮が先陣を志願し、村宗は受け入れた。神呪寺から軍を動かす口実を村宗自身が与えてしまった。屈辱だった。修理亮の申し出に、村宗は必ず乗る。そこまで元長に読まれていた。

p268 赤松政村には自分に逆らう勇気などない。そう決めつけていた。うかつだった。

元長 目指すは村宗の首。絶対に逃がすな!

備前まで逃げられると厄介だ。備前まで遠征して村宗にとどめを刺す力は今の公方府にはない。赤松政村とは、柳本賢治を暗殺した直後から、明石修理亮を通じて接触していた。臆病な政村の説得に時間はかかったが、策は成就した。あとは、村宗と高国の首が獲れるかどうかだ。
p273 村宗はひたすら逃げて、浦江の高国の陣にたどり着いた。
高国 村宗、なにゆえ負けておる。我らの勝利は疑いなしと言うたではないか。
村宗 落ち着かれませ。高国様が討たれぬかぎり、負けではありません。高国様はひとまず大物城までお退き下さい。ここから野里の渡しへ向かわれませ。それがしも後から必ず追いつきまする。
大物城に退くには、北の中津川を渡る。野里は、ここから最も近い渡し場だ。しかし、おそらく野里には、敵の軍が向かっている。高国と仲良く討ち死になどする気はさらさらない。高国が敵の目を引きつけている間に別の渡しを使えばよい。村宗は浦江を発ち、野里より上流から渡河した。神崎川を越え、六甲の北を通って播磨へ出るつもりだ。しかし神崎川に越えたところで村宗の運は尽きた。

***Wikipedia浦上村宗

享禄4年6月4日、浦上村宗死没。
村宗の死後、家督は幼少の嫡男・虎満丸(後の政宗)が継いだ。以後も赤松・浦上両氏は対立・和睦を繰り返している。***

***Wikipedia洞勝院
洞松院(1460,1461,1463~没年不詳)
細川勝元の娘。細川政元の異母姉。赤松政則の妻(後室)。義子・赤松義村の後見人として赤松家を支えた女戦国大名。
義村と不仲になり、浦上村宗と組む。義村は暗殺され、義村の子である政村は明石修理亮とともに浦上村宗を最後に討つ。1531大物(だいもつ)崩れ。

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