幸福について ショーペンハウアー

『幸福について』ショーペンハウアー

p9 はじめに この本の、「生きる知恵」とは、「人生をできるかぎり快適に過ごす方法」という意味である。

「幸せな生活とは何か」。「生きていない状態よりは明らかに好ましい状態」。そう定義するのが精一杯だろう。

p10 人生(※あるいはこの世界)はこうした幸せな生活にふさわしいものなのか。この問いに対して、私(ショーペンハウアー)の哲学はノーと答える。いっぽう「人生の目的は幸福にある」とする(※一般的な)幸福論は、この問いに対してイエスと答える。この幸福論は、私が以前非難した「人間の生まれつきの迷妄」を基盤としている。にもかかわらず、私はこの本で一種の幸福論を書いた。そのために私が本当に思っていることは書けなかった。そういうわけで、この本は、条件付きの価値しかない。ヴォルテールの言葉を紹介しておこう。

「私たちは、この世に生まれたときと同じように、愚かでできの悪いまま、この世を去るのだろう」。

p24 不幸せだと感じている金持ちが大勢いる。それはかれらが真の知的教養がなく、知識もなく、それゆえ何らかの私心なき知的な暇つぶしができるような興味を持ち合わせていないためである。

p30 「健全なる身体に宿る健全なる精神(*)」が、第一の、最も重要な財宝である。

(*)ローマの詩人ユベナリス(60~130)の『風刺詩集』より。

p30 最も直接的に私たちを幸福にしてくれるのは、心根が明るいことである。

p31 陽気さにとって、富ほど役に立たないものはなく、健康ほど役に立つものはない。

p389 解説 鈴木芳子

本書はドイツの哲学者ショーペンハウアーの『余録と補遣』から訳出。

ショーペンハウアーは一七八八年ダンツィヒの富裕な貿易商の長男として生まれ、ゲッティンゲン大学で自然科学、歴史、哲学を学び、シュルツェ教授の勧めにしたがってプラトンとカントを研究、ヴァイマールでゲーテやヴィーラントと親交、またこの頃インド哲学に接する。イェーナ大学で論文『充足理由律の四根について』により博士号を取得。

一八一四年、二六歳のときドレスデンに住み、『意志と表象としての世界』を構想、執筆。

一八一九年(三一歳)、『意志と表象としての世界』刊行。イタリア旅行。

一八二〇年(三二歳)、ベルリン大学講師になったが、当時人気絶頂のヘーゲル教授に圧倒され辞任、在野の学者に。

一八五一年(六三歳)、主著『余録と補遣』(一八五一)がベストセラーになると、彼の思想全体も一躍脚光を浴び、晩年名声を博する。

一八七〇年(明治三年)、フランクフルトにて永眠、享年七二。

『余録と補遣』はショーペンハウアー哲学の最良の入門書。一八五〇年にショーペンハウアーは「毎日こつこつと六年間書き続けた」エッセイなどの集大成『余録と補遣』を書き終えた。本書『幸福について』も、この『余録と補遣』から訳出。ショーペンハウアーは『余録と補遣』を「私の末っ子」と呼び、「この子の誕生によって私のこの世における使命は終わった」と言っている。彼は三軒の書店に出版申し込みをするが断られた。だが翌五一年に弟子の尽力でベルリンの書店から刊行され、たちまちベストセラーになり、ドイツ全土に彼の名が知れ渡る。以後、『余録と補遣』はロングセラーになる。とりわけ『幸福について』は人気。

p392 各人の根本となる思想は三〇代までにできあがる、ワカモノハ直観によって物事の核心をとらえることができる。これは彼の持論であり彼自身にあてはまる。一八一三年、ルードルシュタットにこもって学位論文「充足理由律の四根について」を書いたとき、イェーナ大学哲学部長宛ての手紙で、「……私は人類に腕力で奉仕するのではなく、頭脳で奉仕するように生まれついており、私の祖国はドイツ国土よりも広大であることを堅く確信していました」と書いており、彼が若き日にすでに哲学者として人類に果たすべき使命を自覚していたことがわかる。

ショーペンハウアーはこの本で、私たちは幸福になるために生きているという考えそのものが「人間生来の迷妄(※無明、阿頼耶識、ビッグバンの力と同一の力)」であり、私たちは苦悩の中に投げ込まれた存在であり、生にまつわるあらゆるできごとは「苦」なくして語りえない(※人生は苦なり)という視点に立つ。そしてできるかぎり苦を少なくする生き方、すなわち、「この最悪の現実世界で、できるかぎり快適に心おだやかに生きる方法」を話す。

p393 私たちの目に映るこの世界は、私たち各人の主観の世界だから、各人の脳に描かれたその世界はそれぞれ異なる。現実世界は、あるいは、各人の心に映る現在は、主観と客観という二つの側面から成り立つ。客観的反面がまったく同じでも、主観的反面が異なっていれば、世界はまったく違うものになる。客観的反面がどんなに美しく良いものでも、主観的反面が鈍くて不出来なら、悪い現実と現在があるだけだ。ひとりひとりが生きる世界は、何よりもまず、その人が世界をどう把握しているかに左右される。(※その人の人生観による)世界は、いまこの世界を前にした自分の表象なのだから、自分自身の意識が変われば、見えてくる世界も変わってくる。

p393 彼は、人生の財宝を三つに分ける。

第一の財宝は、「その人は何者であるか」、つまり、人柄(個性、人間性)こそが幸福の鍵を握る。これには健康、力、美、気質、徳性、知性、そして、それらを磨くことがふくまれる。

第二の財宝は「その人は何をもっているか」、つまり、財産。

第三の財宝は「その人の外見(イメージ、印象)、つまり、他人の目にどう映るか」。他者評価である。ショーペンハウアーは、世間の人がこの第三の財宝を重視しすぎていると指摘。名誉、地位、名声は、所詮、幻想にすぎないと強調。

第一の財宝にくらべて、第二、第三の財宝など人生の幸福にとってたいしたものではない。

p394 ショーペンハウアーは、「本来わが身にそなえているもの」の大切さをくり返し説き、それこそが幸福の源であると力説する。そこには、自分自身をよく知り、自分を磨き、自分を育てる力がふくまれる。日常生活をありのままに受け入れ、自分はどんな人間なのか、自分にとって本当に大切なものは何なのかをとことん見つめ、自分の可能性をさがす生き方。それは必然的に、いわゆる「おつき合い」といった他人の視線を気にして他人の考えにふりまわされる生き方とは反対になる。財産よりも大切なのは「私自身にとって、自分はどんな人間なのか」ということ。それは孤独の中で「私」によりそう。誰も「私」に与えられない。誰も「私」から奪えない。(※病が、老いが奪う。時が「私」を変形させる。そして、死が「私」を消し去る。)

p395「私たちの最大の楽しみは褒められることだ…。」

p415 第二にショーペンハウアーは、性衝動を脈々と連なる生命の根源、次の世代へ生命をつなぐ営みとしてとらえていた。自然の奥にある「生への意志(※ビッグバン)」は、ヒトや動物を種族の繁殖へと駆り立てる。個人は種族に従属する(※疑問)とし、個人よりもヒトという種族の保存・維持という点に注目し、それゆえに性欲を「生の決定的な、もっとも強い肯定(※一番強い欲望。人間は性欲の塊。笑)」とみなしていた。彼は「いかに上品で知的な振る舞いをしても、あらゆる恋心の根底には性衝動がある」と言う。

人間の本質の下部構造(※マルクス)に「意志(※ビッグバン。つまり〈欲望〉〈欲動〉〈衝動〉などと言うべきだろう)、本能、自然の摂理」をおき、上部構造に「知性」をおいてみる。そうすると、いかに優雅でクールな恋愛作法であれ、ヒトの求愛行動は「性衝動を隠蔽するための文化あるいは礼儀作法」である。ここから、人間社会における生態維持の構図が見えてくる。

p416 ショーペンハウアー自身は

カロリーネ・ヤーゲマン

「富裕なそして地位ある女性」

ゲーテ

バイロン

妹アデーレ

歌姫メドン

一生独身

恋という名の魔物に翻弄されて深い苦悩を味わい、嫉妬に苦しんでいる。

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