『サラダの歴史』JUDITH WEINRAUB
p19 第一章 はじまりはレタス
多くの医者がレタスはほかのどれよりもすぐれていると判断している。(ガレノス『食物と食習慣について』二世紀)
p25 すべての食べ物は「四体液説」の構成要素とみなされた。医学の一学説として受け入れられていた四体液説は、古代ギリシャの医学者として有名なヒポクラテスが主張した理論。それを二世紀後に体系化したのがガレノス。彼は人体を四体液(黒胆汁、黄胆汁、粘液、血液)のバランスから観察した。四体液はそれぞれ異なる配分の「熱」「冷」「湿」「乾」の性質を持つ。どの体液が支配的かによって、それに対応した気質「楽観的」「無気力」「短気」「憂鬱」が強まるとされた。 ※アリストテレスの四元素。火は熱・乾、空気は熱・湿、水は冷・湿、土は冷・乾という性質から構成。
p33 歴史とはおかしなものだ。それは人々の実際の出来事を教えてくれることはめったにないのかもしれない。歴史の史料が本当にあったことを書いていると結論するのは現実的ではない。
したがって、歴史史料が私たちの時代まで伝えてきたすべてのことは、支配階級の習慣や好みを反映している。
p35 現在の食習慣は、一日三食を基本とするが、これは一八世紀の産業革命後に確立された習慣にすぎない。
p41 第二章 サラダ人気の高まり
土曜日に居酒屋へ行った。サラダとオムレツとチーズですっかり満足した。(ヤコポ・ダ・ポントルモ)
一五五四年の春、ルネサンス期の画家ヤコポ・ダ・ポントルモが日記に書いた頃、サラダは再び食卓に戻りつつあった。
p42 ガレノスの説を論破する理論はまだない。野菜や果物やサラダを毛嫌いする古代の習慣が、一八世紀に入ってからでさえ続いた。野菜は人間よりも農民や動物にふさわしい食べ物であるという考え方がまかり通っていた。
p43(しかし)食物史家は、イタリアではサラダ風の食べ物が古くから食べられていたと考えている。ポントルモの日記からもわかるように、サラダは一六世紀までにはイタリアの上流階級の一般的な料理になっていた。
p44 一四七四年、『真のよろこびと健康について』刊行。印刷されたものとしてはもっとも古い料理本。人文主義の学者バルトロメオ・サッキ(通称プラティーナが有名)が書いた。
p46 プラティーナのレシピは、当時の有名な料理人マルティーノ・デ・ロッシが書いた『料理術の書』に掲載されたものを応用していたが、プラティーナの本は何度も増刷されて西ヨーロッパ中に広まった。食べ物についての一部は、ガレノスの考えをそのままくり返している。レタスもそのひとつだ。
「聖アウグストゥスは、レタスを食べることで健康が優れないときにももちこたえたといわれる。驚くことではない。レタスは消化を助け、ほかの野菜よりもすぐれた血液を作るからだ」
p47 レタスのレシピを紹介。
一、レタスを皿に盛る。
二、挽いた塩をパラパラふりかける。
三、少量の油とそれより少し多い酢を注ぐ。
四、一気に食べる。
注意。風味づけに少量のミントとパセリを加えることもある。そうすれば、味気なさを補い、レタスの過度な『冷』の性質で胃を悪くすることがない。
p47 一五七〇年、プラティーナから一世紀後のルネサンス期の料理人バルトロメオ・スカッピ。ローマ教皇ピウス五世の専属料理人になった彼が、料理本『オペラ(著作集)』を出した。一〇〇〇点を超えるレシピでは、サラダについて何度も述べられているが、レシピはほんの数点しか載っていない。挿絵には新しく登場した道具としてフォークが見える。いまでは欠かせないが、当時は革新的な道具だったはずだ。
p64 マッソニオ『アルキディプノ』
イーブリン『アケタリア』
p66 一七世紀の終わりまでには、四体液説にしたがった古代の健康観は影響力を失いつつあった。
p115 第5章 進化するサラダドレッシング
おいしいサラダの秘密は、多めの塩とたっぷりの油、そして少量のビネガーだ。(ジャコモ・カステルヴェトロ 一六一四年)
そう書いたのは、国外追放されてイギリスへやってきたイタリア人。
p116 カステルヴェトロの時代までには、油、塩、酢のドレッシングは、西ヨーロッパ全体で主流となっていた。※江戸初期。信長、秀吉、家康も食べたかも知れない。
そしてフランスでも同じ頃、ラブレーの小説の主人公ガルガンチュアがグリーンサラダに油、塩、酢をかけて楽しんだ。