レモンの歴史 TOBY SONNEMAN

『レモンの歴史』TOBY SONNEMAN

p53 一五三三年にヘンリー八世とアン・ブーリンのために開かれたロンドンのウェストミンスター宮殿での晩餐会では、テーブルを優雅に飾る贅沢品の中にレモンがあり、当時はそれ一個で銀ペニー六枚分の価値があった。

p58 一五三三年、一四歳のカテリーナ・デ・メディチ(カトリーヌ・ド・メディシス)が王の息子(のちのアンリ二世)と結婚するためにフランスへやって来たとき、彼女は宮廷でまだ香辛料の強い中世の料理が出されていることを知った。カテリーナはフィレンツェから料理人や菓子職人の一団を同行させ、イタリアのレシピも持ち込ませた。たとえば、鴨肉のオレンジソースがけのレシピは、すでに一三世紀のイタリア料理本にあったレモン風味の鶏肉、リモニアに近かったかもしれない。

メディチ家は何世紀も前から大の柑橘好きだった。それはコジモ・デ・メディチが巨大な鉢で柑橘の木を育てた一五世紀初頭に始まり、世界最古の柑橘類収集家のひとりで、トスカーナ大公のフランチェスコ一世・デ・メディチ(一五四一~八七)によって受け継がれた。フィレンツェ近郊にあるメディチ家の別荘のひとつ、カステッロ荘は、のちにその柑橘類のコレクションと巨大なリモナイア(レモンの温室)で有名になった。

p79 一五一九年の夏、セビリア(スペイン南部)のプエリコ・デ・ラス・ムエラの波止場は活気にあふれていた。黒船五隻の艦隊のために食料を積み込む労働者たちの中に、ポルトガル語なまりで、足を引きずった背の低い男がいた。フェルディナンド・マゼラン。彼は世界一周という途方もない航海を率いる船長。

マゼランは乗員二六五名の食料に惜しみなく金を使っていた。食料は命を維持するためだけではなく、乗員の士気を高めるためにも不可欠と彼は考えたから。

p80 しかしマゼランは乗員の健康維持に役立ったはずの、ある食べ物を忘れていた。それはスペインにごろごろあり、しかも冷蔵なしで何週間も保存できるもの…レモンだった。

マゼランの航海は苦難の連続だったが、とくに深刻だったのは、広大な太平洋上で乗員たちの多くの命を奪った謎の病気だった。

「ほかのどんな災難よりも、これが一番ひどかった」と、航海の個人的記録を残した若者アントニオ・ピガフェッタは書いている。「乗員の中には上下の歯肉がはれあがり、なにも食べられずに餓死した者もいた」。

p81 船員たちから「海の疫病」と呼ばれたこの病気は、マゼランの航海のわずか二〇年前にヨーロッパで発生し、喜望峰を回って航海したヴァスコ・ダ・ガマの乗員たちを襲った。

ある詩人などはこれを「死に神の猛威」と呼んだが、それはヴァスコ・ダ・ガマの乗員の三分の二を死に至らせ、その後三〇〇年、長期の航海をする船のほとんどについて回った。

マゼランの航海でも二度にわたって大発生し、乗員二六五名の約半数が死んだ。

p82 数十年後、この病気に「壊血病」という名がつけられた。英国の提督リチャード・ホーキンズによれば、彼が海軍にいた一六世紀後半の二〇年間に一万人の船員が「この病気にやられた」という。壊血病で死んだ船乗りは二〇〇万人を超え、これは嵐や船の難破、戦闘、その他の病気による死者の合計よりも多かった。

レモンはそんな無数の命を救えたはずだったが、それがわかるまでには長い時間がかかる。一六世紀や一七世紀には「栄養素の不足」という考え方はできなかった。

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