トリュフの歴史 ZACHARY NOWAK

p10 木は根からトリュフに栄養分を与える。お返しにトリュフは菌糸の網を広げて水分とミネラルを土中から吸収し、木にそれを取り込ませて根を大きく成長させる。この共生関係によってトリュフは地下の闇のなかでも生育でき、誰にも発見されずに枯れるまで地下に引っ込んでいられる。

p14 フランス人はトリュフについて「大いなる謎(la grande mystique)」という言葉をよく使う。トリュフの謎といえば、かつては「(1)トリュフとはなにか?(2)どうやって生育するのか?(3)なぜ人工栽培ができないのか?」。答えは「(1)地下生菌類の子実体。(2)胞子を成熟させて菌食性の生物を引き寄せ、胞子を拡散させて生育する。(3)今では人工栽培可能なトリュフもある。」

p16 一九二〇年代、シリア東部の丘テル・ハリリの発掘。当時シリアを委任統治下に置いていたフランスは大都市の遺物を公開。この大都市は滅亡に追いやられ、その後焼き払われたとされる。住民を、現代の考古学者はアムル人と呼んでいる。

紀元前一七八〇年から一七六〇年に在位したアムル人最後の王はジムリ・リム。発見された粘土板からは王の人間味あふれる一面も垣間見える。妻である女王のワイン代を増やすように要求したり、強大な同盟国バビロンのハンムラビ王の奇妙な夢を見たがどう解釈すべきかとお抱えの予言者に尋ねたり、トリュフについての不満を述べたりしている。

p18 トリュフは野蛮さの象徴だと考える征服者たち(※ハンムラビ王?)にとって、アムル人との戦いの結果は神の裁きだった。バビロニア帝国は、農業を拒絶し続ける粗野な蛮族として長年アムル人を問題視していた。バビロニア人にとって、農業を拒絶するのは文明そのものを拒絶するに等しい。

p20 トリュフにまつわる諸説のひとつは媚薬。レウカスのフィロクセネスという著作家は、紀元前五世紀に書いた『酒宴 symposium』のなかで、燃えさしの火で炙ったトリュフを食べると「好色な遊び」がしたくなる、とはっきり書いている。

p31 第二章 苦難と栄光

現在ではけずってパスタにのせたりおいしいソースをつくる材料になったりするヨーロッパ産のトリュフは、ローマ帝国崩壊後に発見された。

p32 イノシシ(学名 Sus scrofa)は、早くも紀元前一万三〇〇〇年頃には中東で家畜化されていた。その子孫であるブタ(学名 Sus scrofa domesticus)は祖先の野生イノシシから派生した動物で、現在もヨーロッパの森に生息する野生イノシシと容易に交配できる。

p33 中世のあいだ、ブタは放牧されるか、(貴族の)領地の大半を占める深い森で部分的に飼育されていた。ブタは、下生えを探ってはベリー類や昆虫、ヘビ、木の実を食べ、そして、そう、トリュフを掘っていた。ブタは嗅覚が鋭く、トリュフの芳香で熟しているかどうかを嗅ぎ分け、掘り出して食べる。ただし、この時代になると人間の「管理者」がいっしょに森についてきていた。

p36 こうして、ブタを使ってトリュフを見つけるやり方は、トリュフが食用になるという知識と共に広がった。

p29 ローマの医学者クラウディウス・ガレノスは、一二九年頃に現在のトルコで生まれている。著書『食材にまつわる記録』で、ガレノスはトリュフについてこう述べている。「分類の決め手となる性質はとくにないが、トリュフは根や球根に属するものと思われる。(略)」

p28 紀元三八〇年、初期キリスト教の教父である聖アンブロジウスが友人のフェリックスに宛てて「きみが送ってくれたトリュフの大きさに驚いた」と書いた手紙が残っている。

p36 聖アンブロジウスの手紙を最後にトリュフの記述がある文献は少ない。

p36 一〇世紀、東ローマ帝国の聖職者で、著述家、政治家、哲学者でもあったミカエル・プセルロスの数百通の私信のうち、トリュフについて書かれたものが一通ある。砂漠のトリュフか、ヨーロッパ産トリュフかは不明だが、皇帝の兄弟に籠入りトリュフの礼を述べ、「最も豊かな土地に匹敵する価値がある」と称えた。

一一世紀、ペルシャの医師イブン・スィーナー(英名アヴィセンナ)は、トリュフにはよい面もあるとして「虚弱体質や吐き気の改善、傷を治す薬になる」とする一方、「脳卒中や麻痺の誘因ともなり得る」と書いている。

p37 トリュフの熱心な支持者の第一人者がイタリアの詩人フランチェスコ・ペトラルカだろう。この珍味を喜んで食したようだ。日光だけではトリュフは生育しないことを、ペトラルカは自作のソネット(*)でこう歌っている。

花咲く丘や谷を照らす光も

大地には染み込まない

大地は自ら身ごもり

あの稀少な実を生み出すのだ

(*)14行から成るヨーロッパの定型詩。ルネサンス期にイタリアで創始され、英語詩にも取り入れられ、代表的な詩形のひとつとなった。

p38 ルネサンス期の最も有名な美食家のひとり、バルトロメオ・サッキは(略)総大司教の料理人マエストロ・マルティーノ(略)大プリニウス(略)ガレノス

p40 ほかにも当時の代表的な料理書に、アルフォルンソ・チェッカレッリの『トリュフについて』(略)彼は一五三二年にイタリアのベヴァーニャで生まれた。(略)大プリニウスやディオスコリデスなどローマとギリシャの著作家によるトリュフの記述を大量に引用(略)チェッカレッリはぬけぬけと作り話を書いている。(略)自分で書いた文をイブン・スィーナーの引用だと書いている。

p41 チェッカレッリが医薬の資格を取るために読まされたであろう文献に、ピエトロ・アンドレア・マッティオリの『ディスコルシ』がある。出版は一五四四年。『ディスコルシ』はどの大学でも教材に採り上げられるようになる。一見、ギリシャの哲学者ディオスコリデスが著した薬物誌の翻訳・注釈本かと思われるが、じつは動植物界の既成知識に歴史上の新たな発見を組み込もうという野心的な作品である。この作品は、新世界が「発見」されたこと、歴史学者の言葉を借りれば「コロンブス交換」が始まったことで、需要が高まったのだ。

p42 「コロンブス交換」は一九七三年に歴史学者アルフレッド・クロスビーが提唱。欧米間の食物の大量交換の状況を表す。アメリカのものを使わない食べ物があるだろうか? トウモロコシや豆類、チョコレートはもちろん、ジャガイモやトマト、チリを使わない料理が?

一五世紀後半から一六世紀初頭のアメリカ大陸発見の航海と帝国主義は、人類が動植物界にもたらした史上最大の出来事だ。

p43 ジョヴァンニ・ボッカッチオの『デカメロン』(一三五〇年頃)(略)かつての愛人にふさわしい食事を供するために、空を飛ぶ鷹をつぶして昼食に出す。しかしこの分類体系は矛盾。その好例がトリュフ。根菜と同様に地下に自生するトリュフは本来なら最下位に属し、ヨーロッパの上流階層が平民と呼ぶ「野蛮人」のための食物のはず。しかしヨーロッパで栽培できないトリュフは稀少性が高く、価値ある食物だった。

p45 フィレンツェの有名な政治家ニッコロ・マキャベリ(外交官でありフィレンツェ共和国軍顧問)の息子、ベルナルドが一五四六年に書いた手紙からも見てとれる。メディチ家が一五一二年に共和国(短命に終わった)を支配すると、ニッコロは職を追われた。その後投獄されて拷問を受けるが、最終的には解放されて地方で隠遁生活を送ることを許されている。彼はその地で政治にまつわる書物を複数著し、そこであの有名な『君主論』が誕生した。

マキャベリ本人だけでなくその家族もメディチ家から冷遇されたが、後年、息子のひとり、ベルナルドは自分と兄弟を当時フィレンツェの公爵だったメディチ家に売り込もうと、コジモ一世の個人秘書にあるものを送っている。

「わらで編んだ籠に入っておりますのは大公への献上物、ノルチャで採れた非常に良質なトリュフ五〇ポンド(約二三キロ)でございます……そして、こよ機会になにとぞ心からお願い申し上げます。ニッコロ・マキャベリの哀れな息子たちのことを、あなた様から偉大なる大公に一言お伝えいただきたいのです。私たちはこれまでも、そしてこれからもわが大公の僕(しもべ)でございます」

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