ブランデーの歴史 Becky Sue Epstein

p7 最近、ブランデーがふたたび脚光を浴びている。

p8 数十年前まで、高価なブランデーは富裕層が食後の飲み物としてほんの少し飲むだけだった。

忘れられかけたブランデーの唯一の例外は、世界でもっとも有名なブランデー、コニャック。コニャックはフランス西部のコニャック地方で生産されるブランデー。つねに揺るぎない名声を保ってきた。

コニャックは世界一有名かつ高価なブランデーであり、多くの世界的スターがそのイメージを高めている。伝説的映画監督マーティン・スコセッシは、ヘネシー(コニャックの銘柄)の広告に登場した。人気ラッパーのリュダクリスは、「カンジャー」という銘柄のコニャックをプロデュースしている。同じくラッパーのスヌープ・ドッグはランディ・コニャックのイメージ・キャラクターになり、大勢の有名なラッパーが自分のお気に入りのコニャックを歌詞に取り入れている。高級なバーで働くスマートなバーテンダー(現在ではミクソロジストと呼ばれる)がコニャック・カクテル・コンテストで腕を競い、この優雅で香り高い蒸留酒の魅力を高めている。

p13 こうして二一世紀に突然ブランデーが、より具体的にはコニャックが大ブームになった。

p17 第一章 ブランデー誕生

火と黄金、ディオニュソス(ギリシャ神話の豊穣とブドウ酒の神)とクレオパトラ、初期のキリスト教と秘密結社。これらはすべて蒸留の歴史に関わりがある。

古代文明の初期の蒸留技師たちは、いくつかの異なる目的を持っていた。

一、アクア・ヴィタエ、すなわち不老不死の霊薬を探す者。

二、相反する二元素、水と火の奇跡的な組み合わせによってアクア・アーデンズを造ろうとする者。アクア・アーデンズとは魔法の「燃える水」、つまり可燃性の液体。

中世初期になると、錬金術師はあらゆる金属の中でもっとも貴重な黄金をつくろうとしてさまざまな蒸留液をつくった。

古代エジプト人は、紀元前一世紀にクレオパトラがエジプトを治めていた時代からすでに蒸留について研究し、尊敬される哲学者兼科学者たちは二種類の蒸留法を実践。

また、ギリシャてはディオニュソスを崇める人々が蒸留したワインを儀式に利用。

ローマ帝国がキリスト教を国教とすると、蒸留技術は隠れた場所で受け継がれた。何世紀もの間、蒸留はグノーシス派の秘密の儀式に必要な液体をつくるために使われた。キリスト教の異端カタリ派は、千年にわたって蒸留によってつくられた「燃える水(アクア・アーデンズ)」を使って本物の「火の洗礼」を実施していた。

p18 蒸留技術はアジアに伝わったが、アジアで独自に発達したかもしれない。初期のアラブ人錬金術師は、四世紀に中国の道教信者が「不老不死の霊薬(アクア・ヴィタエ)」をつくるために蒸留技術を使っているといううわさを聞いていた。

しかし三世紀のヨーロッパては、普通の水夫でも蒸留を理解していた。彼らは海水を蒸発させ、蒸気を注意深く凝縮させることで、長い航海に欠かせない真水を手に入れた。彼らにとってそれは文字通り「命の水(アクア・ヴィタエ)」だった。

六世紀、ペルシャ帝国ホスロー一世は、医療学院をつくった。そこにはハーブなどさまざまな植物で埋め尽くされた庭園があった。アルコールの蒸留はあらゆる薬の抽出に用いられたので、学院では重要課題のひとつとして教えられていた。

六七二年、蒸留技術は武器として利用された。キュジコス島の戦いと呼ばれる。サラセン人(ムスリム)の海軍に対し、東ローマ帝国は燃える液体を浴びせて攻撃し、大都市コンスタンティノープルを守った。「ギリシャの火」と呼ばれたこの液体は、蒸留したワインに加えて石油を含んでいた可能性もある。いずれにせよ、その液体は、蒸留技術とアクア・ヴィタエの凄さを十分に伝えるものだった。

p20 「アルコール alcohol」という言葉は、アラビア女性が目元の化粧に使う「コール kohl」(硫化アンチモンの粉末)という黒い粉に由来する。アラビア語のつづりは al-kuhl で、al は英語の冠詞の the や a に相当する。蒸留器の名前である「アランビック」もアラビア語に語源がある。しかしこれはもともとコップを意味するギリシャ語の「アンビックス」から来ている。ちなみに「アランビック」という言葉は一二六五年にはすでにフランス語の文献に登場。

p20 ヨーロッパでは、蒸留はごく普通の物質を錬金術師が黄金に変えるために必要な工程の一部とされていた。実際、蒸留を含むある化学的処理を施すと、金色の皮膜ができる物質が存在する。この反応は人々を期待させるのに十分だったようで、何世代もの人々がなんとか本物の金をつくる方法を完成させようと夢中になった。金はもっとも貴重な金属だと考えられていたのに加えて、さまざまな病気に効く薬だと信じられていた。

p22 中世に化学、錬金術、そして医学が結びつき、蒸留はこれらすべての分野で必要な技術になった。薬を調合するためだけではなく、もうひとつの使い道(娯楽的用途)としても世界に広まっていった。

試行錯誤の末、ついにウイスキーが誕生すると、もちろんすばらしい酒になった。しかしブランデーの歴史はウイスキーよりも前にさかのぼる。

蒸留技術はスペインからヨーロッパを北上し、おそらく一三世紀にはスペイン北西部の都市サンティアゴ・デ・コンポステーラから帰国した十字軍によって、ガスコーニュ地方(フランス南西部)に伝えられた。

一二九九年、教皇クレメンス五世のお抱え医師アルノー・ド・ヴィルヌーヴが、蒸留したワインでつくった薬で教皇を治療したという記録が残っている。彼はその薬を命の水、ラテン語でアクア・ヴィタエと呼んだ。フランス語で命の水を意味する「オー・ド・ヴィ」という言葉は、現在も蒸留酒を意味する。

p23 それからまもなくアルマニャック地方(ガスコーニュ地方中央部)で、ワインの蒸留物が樽で保存(熟成)されるようになり、新しいブランデーの時代が幕を開けた。
一三一〇年、アルマニャック地方は最初の熟成したブランデーにその土地の名前を与えてアルマニャックと命名。ブランデーの蒸留はガスコーニュ地方から南はスペインのアンダルシア地方まで広まった。アンダルシア地方のヘレスという都市はシェリーという酒精強化ワインだけでなく、有名なブランデー・デ・ヘレスの産地でもある。北へはフランスの大西洋岸に沿って、ボルドー、コニャック、そしてロワール渓谷へと伝えられた。

地図

p24 オランダ商人はヨーロッパの大西洋岸を一六世紀初頭から船で行き来していた。オランダの寒冷な気候ではワインの原料になるブドウが栽培できなかったので、彼らはワインを母国に輸入した。(略)オランダ商人はフランス西部の大西洋岸に注ぐ川沿いの町でワインを買い付けていたが、おそらく最初は母国への船旅の間にアルコール度数の低い何種類かのワインを腐らせないために自分たちで蒸留したのだろう。あるいは、濃縮した蒸留ワインのほうが、単に輸送に好都合だったのかもしれない。蒸留したワインは、最初はオランダ語で brandewijn(ブランデウェイン、すなわち火を通した「焼いた」ワイン)と呼ばれ、この言葉がのちに短縮されて「ブランデー」になった。

一五三六年、オランダ人は、遅くともこの年にはすでにブランデーを飲んでいた。このことは、居酒屋の店主が店以外の場所で飲む目的で客にブランデーを売ることを禁じる法律に記録されている。

イギリスでは、家庭でコーディアル(ブランデーに甘味や風味を加えた飲み物)を作ったり、アルコール度数の弱いワインを「強化」したり、薬効のあるハーブやスパイスを漬け込んだりするためにブランデーが輸入された。

一七世紀末、イギリス、フランス、オランダ間のコニャック貿易は、名誉革命(*1)と大同盟戦争(*2)によって深刻な打撃を受けた。当然のように、ブランデーのまがい物(フランス産のブランデーの風味を模倣するために、さまざまな種類の果実やスパイスを使って造られた蒸留物)がすぐさま活発に取り引きされるようになった。

一七~一八世紀の不安定な政情を利用して、密輸はもうかる「産業」のひとつになった。戦争のない時期でさえ、イギリスの海岸線にある多数の入り江で陸揚げされて関税を逃れたブランデーにはいくらでも買い手がついた。アイルランドの紳士階級もブランデーを愛飲し、中にはコニャック地方に商人を送って製造所を経営する者もいた。現代の非常に有名なコニャックメーカーに、ヘネシーやオタール(本来のつづりは O’tard で、これはアイルランド系特有の苗字)のようなアイルランド系の名前が含まれるのはそのためだ。

ヨーロッパ、イギリス、そしてアメリカでは、ブランデーは薬効があると考えられ、消化不良から気絶まで、どんな症状にも効く治療薬としてたいていの家庭に常備されていた。ブランデーと呼ばれる蒸留ワインは、過去数世紀の間、欧米諸国では生活必需品だった。

(*1)イギリス王ジェームズ二世が追放されてフランスに亡命し、オランダからウィリアム三世が招かれてイギリスの王位についた。一六八八~八九。

(*2)九年戦争とも呼ばれる。フランス王ルイ一四世の領土拡張政策に対抗して、イギリスやオランダなどの諸国が同盟を組んで戦った。一六八八~九七。

p29 使われる原料によって、ブランデーは主に三種類。

一、ワイン

二、ブドウ以外の果実…カルヴァドス(リンゴ🍎)、スリヴォヴィッツ(プラム)、キルシュ(サクランボ🍒)

三、ブドウの搾りかす(皮、軸、種)…イタリアのグラッパ、フランスのマール

どれも蒸留によって造られる。

p30 簡単に言えば、ブランデーの蒸留とは密閉容器に入れたワインを加熱して、そこから発生する香り高いアルコール分を含む蒸気を集め、それを冷却して液体に戻す工程。ワインを沸点まで加熱すると、水よりもアルコールのほうが多く蒸発する。アルコールは摂氏七八度で沸騰するが、水は一〇〇度にならないと沸騰しないため。この蒸気を凝結させてできる液体には、アルコールが濃縮されている。こうしてワインは蒸留酒になる。そしてワインの芳香と風味のいくらかは蒸発するアルコールの中に残され、濃縮されて、それぞれのブランデーに独特の特徴を与える。

p41 第三章 世界に広まるコニャック

コニャックの町の小さな美術館を訪れると、およそ五〇〇年前にこの町で生まれて王位についたフランス国王フランソワ一世(在位一五一五~四七 ※レオナルドは一五一九没?)に拝謁することができる。肖像画でも彫像でも、この国王は必ずと言っていいほど満面の笑みを浮かべている。そして国王がご満悦なのは、ちゃんと理由がある。フランソワ一世の治世に、川沿いの町コニャックはすでにこの地方の輸送の中心地であり、ブランデー産業が花開きつつあったからだ。オランダ人商人はこの地方で活動を広げ、取り引きする新しい商品を探し求めていた。

p58 アルマニャックは最初、どのように造られたのだろうか。(第一章で述べたとおり)中世初期に蒸留技術が中東からイベリア半島を経由してフランス南部に伝わった。当時、西洋は魔法と神秘が支配する時代から、科学の黎明期へゆっくりと移行しつつあった。医学はその両方(魔法・神秘、科学)にまたがり、医者はブランデーと呼ばれるワインの蒸留物を薬として処方していた。

アルマニャックという蒸留液の健康上の効果を文書にまとめた最初の人物は、一二六〇年に生まれて一三二七年に世を去ったフランシスコ会修道士、ヴィタル・デュ・フールだった。デュ・フールは一三一〇年に執筆した医学書でアルマニャック地方の蒸留酒が持つ健康上の効能の重要性について述べ、これがアルマニャックの名声の始まりとなった。彼はこの蒸留酒を「アクア・アルデンテ」と命名した。これが現在のアルマニャックの直接の祖先だと考えられている。

デュ・フールの著作は非常に重視され、何世紀も写本の形で読み継がれた。印刷技術が発明されると、その本はさらに多くの読者の手に届くようになった。ヴァチカンの記録保管所には一五三一年に出版されたデュ・フールの本が一冊保管されている。この本の中です彼は、アルマニャック地方の「アクア・アルデンテ」で造った飲み物が持つ四二の効能を挙げている。その奇跡的な効能には、切り傷、擦り傷の治療や、記憶の回復、麻痺した手足の回復、そして臆病な人を勇気づけることまで含まれていた。

p60 それから数世紀の間に、フランスのガスコーニュ地方の一部であり、歴史的にアルマニャックと呼ばれてきた地方ではこの蒸留酒の需要がますます高まり、それに合わせてアルマニャック生産が増加した。内陸というアルマニャック地方の地理的条件は、アルマニャックの発達に大きな影響を与えている。商業的輸送にりようできる河川がなかったため、アルマニャック地方は外界からやや隔絶されていた。そのため、アルマニャックはフランス初の高級ブランデーを名乗る権利があるにも関わらず、かなり最近まで輸出がむずかしく、コニャックほど世界的に名声を響かせることはなかった。

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中